星藍の本棚

KaoLi

星藍の本棚

 ――この世の全てを知る『鍵』は、本の中に隠されている。


 この言葉は生前、母が私に教えてくれた、私の記憶の中で最も古い記憶の言葉だ。

『本を喰らい尽くす虫』とまで言われた、王宮司書官であった母の口癖。

 私は幼い頃から幾度となくこの言葉を聞き続けた。

 この言葉があったからこそ、今の『私』があり。

 そしてこの言葉のお陰で、私の世界は形を成したのである。


 📚🐛


 私――星藍せいらんは、王宮図書館に勤務する司書官である。

 その職務内容は、この国の歴史そのものを現存・管理し、時代を記録していくことが私の使命であり、仕事である。

 王宮図書館に貯蔵されている書籍数は実に五百万冊はくだらない。この王国に暮らす国民と大してその数が変わらないと知った時は思わず身震いしてしまったくらいだ。

 そして、その全てを管理しているのがこの私、星藍である。


 ある時、他の司書官に言われたことがある。


「星藍さんって、この仕事、きつくないんですか?」


 ん?

 きつい、だって?

 私はその司書官に即答したよ、そんなことはないよ、とね。


「この図書館にあるのは全て『生きた歴史』なのよ。それは国民の命と同価値としてもいいと思うの。『生きた歴史こくみんのいのち』を語り継ぎ守ることが、私たちの使命なのよ」

「はあ……」

「…………なんて、大きく言っては見たけれど、あなたからすればここにある大量の本たちは、ただの紙面の塊なんでしょうね……」


 私は、独りごちる。

 本とは私にとって『世界』だ。誰が何と言おうと、言われようと、この想いは譲れない。それは母の遺言だからなのか、それとも自分自身への教訓か。

 その司書官にはどうやら私の独り言は聞こえなかったらしく、急に静かになった私を訝し気に見ながらも「あー……じゃあ、仕事戻りますね」と言って数冊の本を持っていった。

 ふう……私はふと天井を仰ぐ。

 本日の仕事は目の前にそびえ立つ、第一次王宮国歴記の本棚の更新及び整理整頓だ。この本棚にある書籍だけでも、軽く三万冊はある。


(きつい……か。んー、確かに)


 きつい、というよりも……。この仕事に関して言えば、私には疲れるだけで決して『苦』ではないのだ。

 私のとって――繰り返すようで悪いけれど――本は世界。世界に触れられる時間ときが私にとっての至福の時間なのだ。

 本棚の中にある一冊を手に取る。そして、すぅ……、と匂いを嗅ぐ。


(――ああ! 最高!)


 ここでひとつ。勘違いをしないでほしいのだけれど、私のこの行為はれっきとした『職務』だ。匂いを嗅ぎ本の質や劣化などが起きていないかを確かめるためにしている。王宮司書官の持つ資格のひとつでもあるのだが、ただ、他の司書官曰くこの匂いを嗅ぐ行為というのは異質なのだそう。

 でも止められない!

 くんくんと、まるで犬のように鼻をひくつかせて私は本の匂いを嗅ぎ続ける。

 ああ、なんと愛しい香りか。とても癒される匂いだ。きっと今誰かに私のこの姿を見られたなら、間違いなく『変質者』だと言われるだろう。自覚はあるけれど止められない、君たちにも似たような経験、心当たりのひとつやふたつ、あるのでは?

 私が本の虫喰い――と周りには言われている行為――をしているとどこからかパタパタと軽い足音が館外の廊下から聞こえてきた。


(もうそんな時間ですか……!)


 私は虫喰い途中の本をそのまま持ち、登っていた脚立からゆっくりと降りる。少しだけ乱れた服装を整えつつ、聞こえている足音の正体に備える。

 そう、私にはその足音の正体の目星がついていた。

 数秒後、バンッ! と大きな音が立ち勢いよく扉が開く。開かれた先に立っていたのは、思っていた通りの人物だった。


「――星藍!」


「……そのように廊下を走られては、国王であるお父上にまたと怒られてしまいますよ、ルルフお嬢様?」

「もう、すぐ星藍はそうやってお父様の名前を出すのね!」

「ふふ、申し訳ございません、お嬢様」


 私は彼女――この国のでもあるルルフを、笑顔で迎えた。


 📚📚🐛


 この王国の第二王女――ルルフ・ポルカ嬢は、現国王の御息女であり、私と同じ本の虫とたとえられている、十歳の女の子だ。王位継承権は第五位と低めということもあって、彼女は自由でいることを許されている。

 とは言っても、彼女もいつかはこの国を担う存在である。


『ルルフ姫の教育係として、王宮図書司書官長、しゅう星藍せいらんを任命する』


 この話を頂いた時は、なんと荷の重いことかと驚いたものだ。私は一度断ろうとしたのだけれど、ルルフの本に対する姿勢や、読書への熱量、そして何よりも、幼いながらも『王女』としての自覚を持つ彼女の在り方にとても感銘を受けたのだ。

 その瞬間、私は彼女のために何ができるのかを考えた。そうして導き出されたこたえが、この図書館に貯蔵された国の歴史を分かり易く説明し、教育べんきょうさせるというもの。私には教鞭きょうべん資格がないけれど、それに対応できるほどの知識を持っていると自負している。


『私の世界ちしきの全てを、ルルフ姫に託そう』


 たとえ、彼女にとって力になれずとも、私の使命は教えることにあるのだから。


 📚📚📚🐛


「…………星藍?」


 名前を呼ばれてハッとする。

 どうやら一瞬だけ、私の意識は他所よそを向いていたらしい。ルルフが私のことを心配そうに見ていた。いけない、いけない。これでは教師失格だわ。私は、すみません、と静かに微笑んだ。


「いえ、それよりも、どうされました? 浮かない表情かおをされておいでですが……」

「えっ? あ……うん。……あのね、星藍はこのお仕事、好き?」

「……何ですか、突然」


 私は急なことで驚いて、素の声が出てしまった。

 ルルフは申し訳なさそうにぽつぽつと話してくれる。


「今日、タルジアたちが言ってたの」


 曰く、内容は私にとってはどうでもよいことだった。


『星藍さん、よくあれだけの本の管理をひとりでしているよな』

『好きだからしていると言うが、果たして本当だろうか?』

『仕事が雑なのではないか?』

『それにあのルルフ嬢の家庭教師だろう?』

『そのうち過労で倒れないだろうか?』


 等々エトセトラ

 ……ああ、なんだ、そんなことか。本当に私は何も気にしていなかった。いくら陰口を叩かれようとも、私は平気なのだ。

 過去の経験上、私には親しい友人と呼べる相手がいなかった。その理由は良くも悪くも『本』にあり、私が『本』という世界に没頭しすぎたことが原因だった。

『人の話を聞かない』『小賢こざかしい奴だ』『陰気で何を考えているのか分からない』など、散々陰口を言われてきた私だったけれど、特にそれを悲しいと思ったことはなかった。

 本が私の世界の全てだったから。

 本さえあれば、私は『私』のままでいられたから。

 ルルフはきっとこう言いたいのだろう、『わたしの所為で星藍わたしのこの王宮での立場が脅かされてしまっているのでは?』と。

 そんな馬鹿な! 私はその考えに達した時、可笑しく思い声を出して笑ってしまった。


「――ぶふっ」

「星藍⁉」

「す、すみませんお嬢様。ふふ、とても嬉しいです。お気遣いありがとうございます」

「わ、笑いごとじゃないでしょ!」


 プゥ! とルルフは可愛らしく頬を膨らませてやや不機嫌そうにしながらも私の隣に座った。私にとってこの瞬間が、何よりも愛おしいと思うのだ。

 私はルルフに一言告げて、彼女に読み聞かせるための本を取りに向かう。先日読み聞かせた本は何だったっけ? 記憶を辿りながら私は本棚のある部屋へと足を進めていく。

 ……そうだ、そうだった。思い出した。私は思い出した本を見つけ出すことに成功し、その本の背に指を掛ける。手にしたのは児童書版と文庫版の二種類。

 本のタイトルは『星の本棚』。星座の国々を巡る少年とその旅の物語である。

 小さい頃に私もよく母に読み聞かせてもらっていた。『星藍、あなたの名前はこの本からアイデアをもらったのですよ』とよく言われたっけ。

 ルルフのもとに戻り、彼女の横にゆっくりと腰を掛け、本のひらに手を添える。布地のカバーがざらりと小さく音を立てた。

 ルルフが児童書の『星の本棚』を手に取り、栞の挟んであった箇所から続きを読み始める。私も同タイトルの本を読む。読み聞かせと言ってもこれは彼女の読解力向上を目的とした授業で、理解ができない場所の解説をするのが私の仕事だった。

 ルルフもこの『星の本棚』が好きらしい。同じ作品を愛する者同士、この静かなページをめくる音だけが聞こえる空間が、私の心を凪いでいく。


「……ねえ、星藍」

「はい、なんですか? 分からない言葉でもありましたか……」

「この本の少年って、!」


 不意にそんな言葉を掛けられて、私は「え」と思わず素の声を出してしまった。

 ルルフは目を輝かせて私を見つめる。私はどう答えたらいいのか分からなくて、火照ほてった顔を隠したくて口元をてのひらで覆った。

 恥ずかしい、言って欲しいと思っていた言葉を、こうも簡単に当てられてしまった。そんな気分だった。


「そ、それってどういう」

「だって、星藍のままだもの。ブロンドに輝く瞳とか、藍色の艶やかな髪とかね」

「ありがとうございます……」


 私は嬉し過ぎて、身に余る光栄過ぎて、ルルフのことを直視することができなかった。「それに……」と彼女は続ける。


「この本では髪を夜として瞳を星に例えているでしょう? とてもその通りだと思ったの」

「……っ!」


 私は感激して息を呑んだ! ルルフの笑顔に私の心臓は射抜かれた。

 胸の部分を軽く押さえているとルルフが心配そうに覗き込んでくる。私は悶えながらも大丈夫だということを伝えると、ルルフは満面の笑みを浮かべた。


「ここはお父様の本がたくさんあるお部屋だけど、実際に扱っているのは星藍でしょう? ここにある一冊一冊のことを大切にしている星藍が、とてもこの少年に似ていると思ったの。だって二人とも、とても輝いているもの!」

「はい」

「それにね? 昔、星藍が教えてくれたわ。この世の全てを知る鍵は、本の中に隠されているんだって」

「え、ええ、確かに言いましたね」


 昔――きっとまだルルフが五歳にも満たない頃だったかしら?――、母の教えを彼女に説いた記憶は確かに存在するが、しかし何故今その話を切り出したのか、私は本気で頭を悩ませた。するとルルフは私の目の前に立ち、そしてその小さな腕を思い切り広げ微笑んだ。


「だから、この本たちは夜空に輝くお星さまで、そのひとつひとつのお星さまがわたしに色んなことを教えてくれるの! お星さまは星藍なのよ!」

「……ルルフお嬢様……」


 ルルフなりの解釈法に私は心を躍らせる。それはまるで煌めく星のようで、私の心の中に流星となりて降り続ける。キラキラ、キラキラと。降り積もった星たちが、私の心を満たしていき、ついに心の中は星屑の金平糖で溢れかえった。

 私は幸せ者だ。だから、彼女に教えよう。この図書館の秘密を。


「…………ルルフお嬢様。お嬢様はこの図書館の秘密を、お父上からお聞きしたりなどはしたことがありますか?」

「? ううん?」


 私はルルフの耳元に口を近づけて、ふぅ、と吐息をかける。彼女は少しだけふるりと体を震わせた。私はそんなルルフに意地悪をしようと、吐息を多めに囁いた。


「この図書館に保存されている本の布地のカバーには、金糸の刺繡が施されていますよね」

「うん! とても綺麗な刺繍よね」

「あの金糸は、蓄光素材の糸で出来ているんです」

「うん」

「――つまり、蓄光素材で出来ているから、夜になるとこの空間が、まるでように感じることができるんです。……星々が煌めく本棚が、この館内を埋め尽くすんですよ」


 これは、二人だけの秘密ですよ? ともう一度釘を刺すようにして私は人差し指を口元に当てる。ルルフも私を真似て、人差し指を口元に当て、内緒だね! と笑った。私もそんな彼女に釣られて笑った。


 📚📚📚📚🐛


 ルルフとのお勉強会――もとい、読書会が終わり、そして私の勤務時間も終わりが迫っていた。


 今日もこの幸せな空間にいられたことへの感謝を。

 今日のこの幸せな時間が終わってしまうことへの寂しさを。


 私はひとつ吐息を吐いて、ゆっくりと静かに深呼吸をする。

 古びた紙の匂い、布で作られたカバーの汚れ、そしてこの王宮図書館に訪れた人々の声。それらが満ちた夜の王宮図書館ほど、私にとって幸せな空間はない。

 その時間も、もう終わり。


(……ふぅ、ここも大丈夫そうね)


 王宮図書館の全書棚の点検が終わる。本日の職務も滞りなく、無事に終了した。

 結っていた髪をほどき、少しだけ首を振る。雑に解けた髪を指で簡単にき、近くにあったソファに腰を掛ける。

 ふと視線を上げる。目の前に広がる光景に、私の頬は思わずほころんだ。


「……ふふ。今日もこの空は満天ね」


 昼間の、窓から差し込んだの光が本棚の本の刺繍糸に蓄光され、今は夜空に浮かぶ月光によってとしてこの空間の中を満たしている。この空は、たとえ本物の空が曇ろうとも輝き続けることだろう。

『この世の全てを知る鍵は、本の中に隠されている』

 私は未だに、この世の全てを知ることができていないけれど、いつかこの星藍に輝く本棚の中から、この世界の鍵を見つけ出し、知ることができたのなら。私は死んだって本望だ。


「さて、と。そろそろ帰りましょうか」


 全ての業務も、私のひと息程度の休憩も終了した。

 王宮図書館の戸締りの最終確認を行い問題がないことを認めると、入館口へと向かい館内を出る。大きな扉を閉めて、帰宅を開始する。

 扉が閉まる瞬間に見えた、星の散りばめられたあの夜空の空間は、明日も見られるだろうか?

 きっと、見られることでしょうね。

 そうしたら、またルルフと一緒にお茶でもしながらあの星空を眺めましょうか。


 二人だけの秘密の空間で、静かに本でも読みながら。

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