いつもの曲がり角を、ふと

日崎アユム/丹羽夏子

みずがめ座には予想外の出会いがあるでしょう

 結婚と同時に妻の地元に引っ越してきたので、今はまだこのあたりの土地勘がない。家の周りのコンビニ、スーパー、ドラッグストア、くらいなら一人で行けるようになったが、知らない場所がまだまだたくさんある。


 今日、いつもの散歩道、普段は左に曲がって禅寺を眺めて帰宅するところを、ふと、右に曲がったら何があるのだろう、と思い立った。すぐそこに神社と銀行があることは知っていて、その辺は歩いたことがあるのだが、さらに奥、もっと西のほうに行ったら何があるのだろう。あまり長時間寄り道をすると妻に心配されてしまうが、たまには少しぐらいいいだろう。歩きすぎたと思ったら引き返せばいいのだ。


 それは特に運命というようなことでもなく、かといって目的意識があったわけでもなく、ただ、今朝の情報番組の星占いでみずがめ座は予想外のいい出会いがあるでしょうと言われていたので、いつもよりほんの少しだけ周りに気を払っていただけだ。


 信号を待ち、角を曲がり、県道を西に進む。


 ほんの数分のところで、おしゃれな一角を見つけた。手入れされた緑のプランターの数々、シンプルな白い看板、そして背の低い黒板に列記された本日のおすすめ――ケーキ屋だ。


 そういえば、そろそろホワイトデーだ。妻に何か買いたいと思っていたのだ。バレンタインデーも僕から妻にチョコを贈り、ホワイトデーも僕から妻に何らかの洋菓子を贈るのか、と思うとちょっと滑稽だが、その程度で僕の毎日湧き起こる愛情を表現し切れるわけでもない。


 バレンタインデーは悲しい思いをした。お付き合いしていた時には行きつけのショコラティエで買っていたのに、この辺ではどこでそれなりのチョコを買えるのかわからず、近所のショッピングセンターでリーズナブルなものを購入した。それが僕のプライドを傷つけた。


 この店も、妻にとったらきっと近所の範疇だろう。でも僕にとっては冒険の結果出会った店で、やはり前言撤回、運命なのかもしれなかった。


 店に入ると、向かって右の棚に焼き菓子が並んでいて、左の冷蔵ケースにケーキが並んでいる。そして奥にイートインスペースが見える。


 ケースに並ぶケーキの数々を見た。小さなタルトだったりムースだったりするケーキは美しく、可愛らしく、何よりおいしそうだった。


 僕は当初の目的を忘れてレジにいた店員に尋ねた。


「すみません、ここでイートインでいただけますか」


 レジにいるのは白髪交じりでしっかりした体つきの男性であった。白いコックコートを着ている。この店のパティシエだろう。菓子作りとは往々にして肉体労働で、正直に言って体格のいい男性のほうが有利だ。


 店員が口を開いた。


「お一人ですか」

「はい」

「ここでケーキを選んでもらえますか」

「はい。ほなこのピンクのイチゴのケーキで」

「かしこまりました。お飲み物は?」

「ホットの紅茶で」

「席までお持ちするので奥のイートインコーナーでお待ちください」

「はい」


 店の奥に進む。こじんまりとしているがシンプルで清潔なカフェだった。椅子は四脚しかない。ここで茶を飲む人はさほど多くないのだろう。ちょっとした隠れ家を見つけた気分だ。


 椅子に座っておとなしく待っていると、先ほどの店員がケーキとティーカップ、ティーポットを運んできてくれた。


「お待たせしました」


 僕の前に並べてくれる。僕は嬉しくて自然と自分の口角が上がったのを感じた。


「ありがとうございます、いただきます」


 店員はしかしすぐには去らなかった。少しの間僕を眺めていた。僕は少し居心地の悪いものを感じて、「どうかしました?」と問いかけた。

 彼はこんなことを答えた。


「若い男性が一人でイートインコーナーでうちのケーキを食べてくれるなんて、いい時代になったな、と思っただけです」


 僕もなんとなく嬉しくなって、「ふふっ」と声を漏らして笑った。


「僕ね、ケーキ大好きなんです。最近結婚でこっちに越してきたんですけど、地元にはぎょうさんケーキ屋さんがあって、よう通ったんです」

「そうですか。どちらからいらしたんですか」

「京都です」

「いいですね。今出川通を歩いていると香ばしいおいしそうな匂いがしましたね。旅行でちょっと行っただけですけど」

「ありがとうございます」


 僕の機嫌が良いからか、店員も少し機嫌の良さの片鱗を見せた。なんだかいい感じだ。


「いただきます」

「どうぞごゆっくり」


 今度こそ店員が去っていく。


 僕はケーキにそっとフォークを刺した。さくり、という音がしてピンク色の苺チョコのコーティングが割れ、中から白いムースが現れた。とろり、としたムースを掬い取る。口に入れると甘い。ムースはあっと言う間に溶けて消えた。どうやらホワイトチョコレートのムースだったようだ。外側の苺チョコの甘酸っぱい感じとムースのただひたすら甘い感じが溶け合い、混ざり合う。最高の気分だ。


 すぐ食べてしまったらもったいない。一口食べては手を止め、紅茶を飲み、また一口食べては手を止め、紅茶を飲む。なんと優雅な癒しの時間だろう。人間は定期的にこういう時間をもったほうがいい。


 たっぷり一時間ほどかけて味わってから、僕は席を立った。


 危ない、忘れるところだった。妻にホワイトデーの菓子を買うつもりで入ったのだった。僕は自分の分も併せて妻に持って帰れるだけの焼き菓子を購入した。気持ちがいい。


「ごちそうさまでした。また来ます」

「お待ちしています。ありがとうございました」


 今日はいい日だ。いや、今日もいい日だ。僕の小さくて平和な冒険はこれからもまだまだ続く。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いつもの曲がり角を、ふと 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ