オ感

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オ感

 たとえば、サメは海中の電位差で獲物をさがせるように。

 たとえば、ヘビは赤外線を感知して動けるように。

 人にも、五感を超えた第六の感覚があれば――。


「なんて、思ったりするよね」


 放課後、生徒が散りだした教室で、佐伯さえき朋美ともみは振り向いた。


「別に獲物を見つけられるってだけじゃなくてさ。逃げたりとか」

「逃げるって……」


 本庄ほんじょう灯里あかりが苦笑した。


「逃げたい相手がいるの?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど、便利そうじゃない?」

「便利……まぁ、便利……かなぁ……?」


 灯里は眉をへの字に曲げて、窓の外を見やった。

 校庭に運動部の生徒たちが広がっていく。


「――もし、私がさ」

「ん?」

「あるって言ったら、どう思う?」

「……え? マジ? もしかして灯里、幽霊とか見えるヒト?」


 小、中と、クラスに一人はいたし、高校にいても不思議はない。

 たいていは嘘だ。

 人は知覚できない物を怖がる習性があるのだ。

 生物として、危機を知りたがっている。

 だから幽霊が見えるという話に食いついたり、否定したりする。

 注目を集められる。

 気持ちは分かる。

 分かるけど。

 それが入学以来の付き合いの灯里となると、ちょっと笑う。


「どんな感じなの? どういう見た目?」


 もちろん、灯里はそんな子じゃない。

 つまらない嘘を言おうとしているのではなく、質問しているのだ。

 そう、朋美は思っていた。

 しかし。


「見えるんじゃなくて、感じるっていうのかな」


 灯里は諦めたように言った。


「嫌な予感……っていうのか、悪寒っていうのかな」

「……ちょっと。マジ?」


 今度は朋美が眉を寄せた。

 冗談にしては、真剣な口調だった。

 灯里はふいにこちらを向き、下唇を噛み、目を固く瞑った。

 怖がっている――の、だろうか。

 朋美は自然と背筋が伸びるのを感じた。


「な、何? どうしたの?」


 つい、声が上擦った。

 灯里が潤んだ目を開き、声を震わせた。


「実は今、めちゃくちゃ感じる。嫌な予感」

「え。嘘」


 朋美は慌てて教室を見回した。

 残っているのは二人と、もうひとりだけ。

 不思議そうな顔をし、またねとばかりに手を振られた。

 手を振り返しつつ、朋美は無理矢理に頬を吊った。


「えっと……灯里? なんもいないけど?」

「……今はね。でも、来るよ。絶対。外れたことないんだ」

「外れたことないって」

「五歳のとき、怖い思いして、それから、気付けるようになって……」


 灯里の尋常ではない様子に、朋美は喉を鳴らした。


「えと、私に、なんか、できること、ある……?」


 聞いてどうするのか。

 助ける。

 友達だし。

 でも、なにをすれば――。

 動揺する朋美に、灯里は言った。


「今日、絶対、来るから、それまで一緒にいて……くれない?」


 来る。

 何が?

 疑問が走った。

 けれど、灯里の青ざめた顔を見ると、追求できなかった。

 朋美は言う。


「いいよ。うん。じゃあ、一緒にいよ」


 努めて明るい声を出した。


「とりあえずさ。あったかい物でも飲んで、落ち着こうや」


 冗談めかした。

 灯里がなんとか笑ってくれて、朋美は内心で息をついた。

 もう春が近いはずなのに、日暮れが早い。

 赤いというより青ざめていて、人々は寒さに背中を丸めていた。

 普段はしないけれど、朋美は灯里と手をつないだ。

 ひどく冷たかった。

 奪われる体温に自身も身を震わせて、いつもの喫茶店に入った。

 耳に慣れた細やかな喧騒が嬉しく思えた。

 二人だけの定番を注文し、パンケーキをシェアして。

 ふと、朋美は気づいた。


「ちょ。灯里? さっきから私ばっかり話してるんだけど?」


 はっ、と灯里が顔を上げた。

 だいぶ顔色が良くなっていた。


「ご、ごめん。少し、緊張してて」

「……そんな怖いの?」

「怖いよ。すごく」


 もう聞けるかな、と朋美はパンケーキの切れ端を口に放り込んだ。


「さっき、来るって言ってたけど、何が来るの?」

「何って……それは……」


 また顔が曇りだし、朋美は咄嗟に声音を弾ませた。


「幽霊?」

「違う」

「じゃー、事故の予感とか?」

「それに近いかな」

「となると――」

「ヒト」


 呟くように言い、灯里は手元に目を落とした。


「怖い人が来るんだよね」

「……な、なにそれ? 人? だったら警察とか」

「初めてじゃないし、何度も行った。でも無理なんだって」

「え。なんで? 酷くない!? 公権力!」


 聞きかじりの単語を叫び、予期せぬ注目に朋美は首をすぼめた。

 灯里が、困ったように肩を揺らしていた。


「笑うことないじゃん」

「ごめん。あと、ありがとう」

「え。……気づいてた?」

「うん。だから、いつもより――」


 そこまで言いかけ、灯里は顔を固くした。

 勢い良く振り向いて、窓の外を見て、口元を手で隠した。

 嫌な、予感。

 朋美は尋ねた。


「な、なに? いたの? 見た?」

「わかんない。でも。感じる。来る」

「え。ど、どうする? えと」


 警察を呼ぶのは無理。

 なら、逃げる。

 朋美は灯里の手を取り、席を立った。

 

「出よう」

「うん」


 灯里が目に涙をためて頷いた。

 逃げる、とは言ったものの。

 これから街の通りの人気ひとけは失せていくだろう。

 人が来るのだとすると、簡単には入れないところに行くしかない。

 できれば監視カメラがあり、人がいて、簡単に入れないところ――。

 

「……カラオケだ」

「え?」

「カラオケボックスなら部屋ごとにカメラあるし、店員さんいるし」

「でも――」

「で、なかから灯里のお父さんかお母さん呼ぶの。どう?」

「お母さん……!?」


 びくり、と灯里が顔を歪めた。

 手にかかる重みが急に増した気がした。


「何? どうしたの?」

「ち、ちがくて、その――」

「じゃあ、行こう」

「わ、分かった」


 駅に、そして交番に近い店を選び、二人はからだを寄せ合った。

 景気づけに歌うような余裕まではなかった

 朋美は、灯里の震える肩を抱いてやるくらいしかできなかった。


「とにかく、家に連絡して迎えに来てもらおう?」

「う、うん」

 

 灯里がスマートフォンを出したときだった。


――ゴン。


 とドアが叩かれ、灯里がスマートフォンを取り落した。


「き、来た……!」

「え!?」


 我知らず、朋美の手にも力がもった。

 灯里が息を大きく吸い、朋美の手を握りしめた。


「――私に、合わせて」

「わ、分かった」


 合わせる?

 何を?

 疑問を抱いた瞬間、扉が開かれ、


――ガン!!


 と勢い余って壁にぶつかった。


「やっぱり。灯里だったー!」


 おばさんがいた。

 普通の格好のおばさんだ。

 どこにでいる、普通の、おばさん。


「お母さん、絶対、灯里だと思って、つい追いかけてきちゃった」


 楽しげな口調だった。

 おばさんは気安い様子で近づいてきて、手をぱたぱた振った。


「あら。灯里の、お友達? 邪魔してごめんなさいねー?」


 ……なにそれ。

 朋美は、おばさんの人懐っこそうな笑みに、どっと息をついた。

 嫌な予感って、


「オカンかい!」


 突っ込みを入れつつ、パン! と灯里の肩を叩いた。

 灯里はマネキンのように硬い笑顔になり、おばさんに向き直った。


「追ってくるって、邪魔しないでよ」

「邪魔だなんて! そんな酷いこと言うのねー」


 おばさんは心外そうに言って、手を伸ばした。

 

「ここのお金お友達の分も払ってあげるから、一緒に帰りましょ?」


 かすかな違和感。

 なにか、おかしい。

 変な会話。

 違う。

 奇妙な気配。

 なんと言っていいのか分からない。

 嫌な、予感がした。

 

「お金とか、いいから」


 灯里が、痛みを感じるほど強く朋美の手を握ってきた。


「友達と遊んでから、帰るから」

 

 言って、目線を部屋の天井に投げた。

 つられて、おばさんも顔を上げた。

 丸い透明な装置。

 監視カメラだ。

 向き直ったおばさんは、笑みを浮かべたまま、言った。


「……あんまり遅くならないようにね? 晩ごはん冷めちゃうから」

「……うん、分かった」


 おばさんが背を向け、部屋の扉に手をかけた。

 出ていく、間際。

 振り向いた。


「――ヒッ!?」


 朋美は喉を引きつらせた。

 表情が、なかった。

 まるで朋美がそこにいないかのように、灯里だけを見たのだ。

 そして。


「チッ」


 と、廊下に漏れる歌声に紛れるように舌打ちをし、出ていった。


――ググリ。


 と、朋美は喉を鳴らした。

 必要以上に大きく聞こえた。

 すぐ隣で、灯里は細く長い息を吐き出した。

 握られていた手の力が緩んだ。

 真っ赤に、手形がついていた。

 朋美は手首を撫で擦りながら言った。


「お、お母さん、ちょい、怖くない?」


 失礼だとは思った。

 けれど。

 言わずにはいられなかった。


「あの、ぎゃ、虐待とか、あるなら――」


 もしそうなら、大変だ。

 友達としてなんとかしてげないと。

 朋美は自分のスマートフォンを出した。


「だとしたら、ウチのお母さん呼ぶから――」

「違うよ」


 即答だった。

 深刻かもしれない。

 朋美は言った。


「あの、そういうの私わからないけど、家族だからって――」

「そうじゃないんだって!!」


 ほとんど悲鳴みたいな声に、朋美は凍りついた。

 灯里は涙の粒を落としながら言った。


「あの人、お母さんじゃないんだって……!」

「……は?」


 一瞬、言葉の意味が取れなかった。

 お母さんじゃない?

 じゃあ――、


「じゃあ、誰なの?」

「知らないよ……!」


 灯里は頭を抱えた。


「ずっとだよ! 五歳のときから、ずっと!!」

「あ、灯里!? 落ち着いて! どういう意味なの!?」

「五歳のとき、連れ去られそうになってから、ずっとなの!!」

「……連れ、去り……?」


 灯里は、朋美に縋りついた。


「私、五歳のとき、知らないおばさんに連れされそうになって」

「……うん」

「そのときから、、分かるんだよ……」

「…………うん」

「七歳のときはキャンプ場で。十歳のときは遊園地。十一歳は……」


 今日で、七回目。

 トラウマのせいだと人はいう。

 事前に分かっていても、誰も信じてくれない。

 知らない人には嘘を吐くなと叱られて。

 不安がる灯里のために、他県から越してきたのに――。


「ぜんぜん、便利なんかじゃないよ……!」


 灯里は、諦念の滲む声で言った。

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オ感 λμ @ramdomyu

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