忘却の淵 解き明かし

 ……真っ暗闇の中、何かのざわめく音がする。

 わたしは誰かに背負われている。

 わたしを背負う誰かの呼吸の音、何かから必死に逃げているらしい。

 ばりばりと、何かの折れるような音。しかし、何かのざわめきの方が耳障みみざわりだ。


「っ……」

 不意に誰かが立ち止まる。

「××?」

 わたしは今、何と言ったのだろう。わからないけれど、多分おぶってくれている誰かの名前を呼んだのだ。

 誰かは、言った。

「ごめんなぁ……。○○……ごめんなぁ」

「やだ……やだよ、××!」

 わたしは誰かに叫ぶ。

 しかし、誰かは「許しでくれなあ……」と涙声で言って、わたしを、背中から降ろした。

「××! ××!!」

 視界には逃げ去っていく誰かが見えた。

 わたしは、なぜか地面を這うだけで動けない。

 背後からざわめきが接近してくる気配がした。しかし振り返ることができない。

「なんで……」

 ぽつり、わたしは呟く。しかしつかの間に、わたしは、ざわめきに飲み込まれた。


 さむい、つめたい、くるしいくるしい。

 なんで、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんで……。


 ぐるぐる思考がめぐる。しかし徐々じょじょにそれもうすれて……。









「う……」

 天井の木目もくめが見える。少し下に電灯。右上には、たしか小さかった頃の母がもらった賞状がある。

「絵梨!」

 枕元まくらもとから、私の名前を呼ぶ声がした。

「ん……? あ、ママ……」

「よかった……」

 母はぐったりとこうべれ、私の手を握った。

「ママ?」

「おお、目ぇ覚ましたが?」

 そう言ったのは曾祖母だった。

「もう、二日も寝たきりだったのよ」

「え?」

 日めくりカレンダーを見る。海に入った日から二日が経っていた。

「私……どうしたの?」

「こっちが聞きたいわよ。びしょ濡れの絵梨を、明梨がおんぶして帰ってきたの」

「明梨が?」

海坊主うみぼうずでも出たがね」

 一口大に切ったスイカを差し出して、曾祖母が言った。

 フォークにささったそれを食み、私は思い出す。

「海で、誰かに抱きつかれたの」

「え……?」

 母が眉をひそめる。

「後ろから……明梨だと思ったんだけど、明梨じゃなくて、わかんないけど……、なんで、なんでって言ってた」

 あの時の、腕の冷たさがよみがえる。ぞわりと背中の産毛うぶげが逆立つような感覚に、また襲われる。

「すごい怖くて……」

 意図いとせず、涙がにじんだ。

 考えたくはない。考えたくはないけれど、きっとあれは。


 沈黙ちんもくを破ったのは、曾祖母だった。

「むがし、梨子りこも同じこと言ってたな」

 梨子というのは母の名前だ。

「おんなじこと?」

「海さおぼれそうになったことがあってや。聞いたらば、後ろからきつがれたって」

「そうなの? ママ」

「覚えてないけど……でもおぼれそうになったことはあった」 

 額に張り付いていた濡れタオルが落ちる。

 どうすればいいのだろう。このままでいいとは思えない。

 すると、膝に手をついて、曾祖母が立ち上がった。

「お墓さ、行ごう」




 高熱の抜けた身体は少しだるさがあった。

 けれど二日じっとしていた反動か、身体を動かすのは心地よかった。

 別室で昼寝していた明梨も伴い、母、曾祖母の四人で山の上にあるお寺に向かう。

「絵梨、大丈夫?」

「大丈夫」

「お姉」

 こちらに近づこうとした明梨の手を母が握る。

「手ならママが握ってあげるから。疲れた?」

 母が聞くと明梨は「んーん」と、どこか不機嫌そうに首を横に振った。

 私のほうを見てほしいという願いがある意味でかなった形だけれど、あまりいい気分ではなかった。

 



 林の中、しんとした空気が漂うそこに、私たちの御先祖様が眠っている。

 いつもはお花を並べ、水を換え、まんじゅうを置いて手を合わせるだけなのだけれど、この日は違った。

「絵梨」

 曾祖母が手招てまねきをする。

「ここ、わがるか?」

「んっと……。リツってかいてある」

「そう。柏井リツ。ばあちゃんの、妹だ」



 お寺の中で腰を下ろし、曾祖母は教えてくれた。

「昔、ひでえ台風が来だ。台風が来るど、海が高くなる」

 高潮たかしおという名前があるのは後で知った。

 台風は低気圧になると起こる。低気圧になるということは、海を抑える大気の力が弱くなるという事だ。だから海の高さが上がる。そうして起こる災害を、高潮という。津波と同じくらい大きな被害を及ぼすこともあるのだという。



「夜に波が上がって来で、ばあちゃんたちは皆このあだりまで走った」

「ここまで?」

「んだ。なんも持たねぇで、背中にリツをしょって、ただ山の方に」

 夢の光景が蘇る。

 背負われたわたしと背後からのざわめき。

 あれは、波に追われる曾祖母とその妹だったのだ。


「おばあちゃんは、助かったんな?」

 母が言った。曾祖母は黙ったまま頷く。

「リツさんは……」

 言いづらそうに母が言った。

 曾祖母はそれには反応せず、私の方を向いた。

「嘘って思われるかもしれないけど、私、夢でリツさんになってたかもしれない」

「……」

「何でって、さむいつめたいって、やだって言ってた」

「絵梨!」

 母が顔をしかめてわたしを咎めた。しかし、仕方がないじゃないか。それが事実なんだから。


「梨子も同じこと言ってだで」

「そう、なの?」

「んだ」

「じゃあ、ママも見たんだね、あの夢」

 しかし、母は首をひねるばかりだった。

 私自身も、いずれ忘れるのかもしれないと思った。結果的にはそうはならなかったけれど。

 曾祖母はいつも以上に小さくなってしまったようだった。

「自分が助かるために、あの子を置き去りにしたんだ……」

 曾祖母はつぶやく。一度だってそんな悲痛ひつうそうな顔は見たこはなかった。

「自分のためなら、どこまでも残酷になれる。そいが人間なのがもしれねな」

 重たい一言だというのは当時でも認識できた。

 母も私も何も言えなかった。

 ただ一人、妹だけが例外で、曾祖母の側に座った。

「おばーちゃん、おまんじゅ食べたい」

 勇者だなあと思ったのを覚えている。

 曾祖母は微笑みながら饅頭まんじゅうを渡し、しわくちゃの手で妹を撫でた。

 その手がしかし、にわかに止まる。

 さっきと同じ、重たい表情で、曾祖母は呟いた。

「リヅが呼んでるのがもしんねなあ」




 それから一年後、曾祖母は砂浜で倒れた。

 幸い、一命はとりとめたが、少し発見が遅れていたら危なかったという。

 いたずらに幽霊と結びつけることはしたくない。曾祖母にも、リツさんにも失礼なことだと思うから。

 

 しかし、後で知ったことだけれど、母があの夢を見た時には曾祖母の母、つまり私の高祖母で母の曾祖母が、やはり海の近くで亡くなっているのが見つかったという。

 もしかしたら、そういう因果いんがは存在するのかもしれない。


 今となってはもうわからないけれど不思議なのは、25歳になり、結婚もした今でも、あの夢と、あの腕の温度と声をはっきり覚えていることだ。

 何かの啓示なのだろうか。

 

 ……ううん、そうだとしても、私にはどうしようもない。

 私にできることは、祈りをささげるだけだ。 


 リツさんが成仏したことを。

 私の娘が、あの夢を見ないように、と。




【参考文献】

 磯田道史『天災から日本史を読みなおす』 (中央公論新社、2014)

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忘却の淵 蓬葉 yomoginoha @houtamiyasina

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