推しがもしシリアルキラーだったら

冬野瞠

1

 運命の転換点と言うべき出来事を目の前にして、暗がりの中、女は立ちすくんだ。

 何も見ないふりをして、立ち去った方がいい。素知らぬふりでここから今すぐ逃げるべきだ。

 心臓の強い拍動が耳鳴りのように響く中、脳裏で冷静な自分が囁くのに、女の脚は地面に縫い留められたように動かなかった。

 魅入られてしまった――のかもしれない。

 あや



「推し」という言葉がある。それは人によっては、自らの生涯を丸ごとなげうってでも応援し、支えたい存在である。

 女にとっては、推しの存在そのものが生きる理由だった。その推しは美しい顔立ちをした俳優で、深夜ドラマに端役はやくで出ていた頃からずっと注目していた。一目見たときから彼の眩さに釘付けになったのだ。

 彼が出ている作品の円盤は全部買ったし、ファンレターも事あるごとに送った。女の推し活は見返りなど求めないものだったから、ファンレターの返事が来たときは衝撃を受け、推しの認知を得てしまったことにしばらく悩んだほどだった。

 女は推しが活躍してくれればそれで幸せだった。相手から個人的なDMダイレクトメッセージが来たり、二人きりで会ったりするようになっても、指一本触れられないどころか、目線も合わせられなかった。

 そんな、女にとって世界で最も尊い存在である男が、今そこで殺人を犯している。

 男の犯行は洗練されていて鮮やかだった。標的の背後にすっと回り込み、梃子てこの原理を使って首の骨を一気に外す。明らかに、手慣れている人間のそれ。

「あれ、――さん?」男が振り返ったことに、女は遅れて気がついた。「どうしたの、こんなところで」

 だらりと脱力しきった死体の腕を鷲掴みにしながら、女の推しは世間話のように訊いてくる。

 見つかってしまっては、もうどうすることもできない。女は決然とした思いを胸に、そちらへ一歩踏み出した。女の職業は弁護士だった。


「何回もしているの、そんなこと」

「うーんまあ、そうだね。五回から先は数えていないけど」


 男はどこかのんびりと答える。女はその返答にくずおれそうになるのをなんとかこらえた。法の光に照らされれば彼が極刑になるは免れない。だから男に約束した。


「あなたを犯罪者にはさせない。私が必ず、あなたが犯罪者にならない世界にするから。それまで絶対に捕まらないで」と。


 男は小首を傾げて女を見つめた。その無垢な姿はえも言われぬほど美しかった。

 それから女は法曹界で猛然と活躍しだした。弁護士として頭角を現した後、議員選挙に出馬して初当選を勝ち取り、生来の突出した弁舌を存分に振るって女性初の総理大臣となって、目標だった刑法の改正に乗り出した。

 彼女の最推しを救うために。


 女曰く、殺人衝動は生まれつき備わった一種の個性であり、当事者も苦しんでいると。

 女曰く、頸椎けいつい脱臼による殺人は苦痛を与えないため安楽死と同等であり、罪にはあたらないと。


 当初はもちろん、とんでもないことを総理大臣が言い出したとセンセーショナルに書き立てられた。しかし、女が磨き上げた話術で粘り強く訴えていくうちに、風向きが少しずつ変わっていった。

 そのあいだにも、男は秘密裏に犯行を重ねていた。女は、男が犯行時に首の関節を外す、という殺害方法をとっていたことに感謝した。

 そして、女の念願が叶う時が来た。ついに「人を殺す際に頸椎脱臼の手法を用いた人間は、これを無罪とする。」という条文が刑法第199条に加わったのである。

 こうして推しに生涯を捧げた女と推しの男は、幾星霜もの時を超え、法的に何の問題もない状態で無事に結ばれることとなった。



 * * * *



「っていう話を考えたんだけど、どうかなあ」


 ホテルのベッドに寝っ転がりながら、身支度を整えている最中の彼女に問いを投げかける。

 既に仕事モードになっている相手の返事は色いものではなかった。


「どうって……それ、文学賞にでも応募するつもり? それならやめておいた方がいいよ、絶対に箸にも棒にもかからないから。倫理的に問題がありすぎ」

「そうじゃなくて、君がどう思うかを訊きたいんだけど。だって推しのために法律まで変えるとかさ、究極の推し活だと思わない?」


 俺はへらりと微笑してみせた。彼女の頬はにわかに紅潮し、耳まで真っ赤に染まる。

 俺はまあ、彼女の推しってやつだ。時々こうしてひとつの部屋で夜を過ごすけれど、別に男女の仲ってわけじゃない。この一室とてツインルームだし、同じベッドに入るどころか、手を握るのだって躊躇されてしまう。彼女は俺を視界に入れるだけでぼうっとなる。自分にはよく分からないが、推しとはそういうものらしい。

 俺の顔が優れていることは自覚している。そうでなきゃ、ただの下町のバーテンダーがアイドル並みの扱いをされるわけがない。顔を良く生んでくれた両親には深く感謝している。まあ、その感謝を受け止める相手はもう世界のどこにもいないわけだけど。

 裁判官を生業なりわいにしている彼女ははあとため息をひとつ吐く。


「どう思うって……私が忙しいのは見たら分かるでしょう? 下らないことに付き合ってる暇はないの」

「まあまあ、そうカリカリしないで。綺麗な顔が勿体ないよ」


 俺が眉尻を下げてみると、相手は途端にとろけたような表情になる。ちなみに、彼女の言い方がちょっとキツいのは照れ隠しで、俺の前だとテンパってどうしてもそうなってしまうとのこと。

 ぽーっとした顔で名残惜しそうに俺を見ていた彼女が出勤していくと、急に部屋がしんと静まり返った。

 やれやれ、と思いながらベッドから滑り下りる。今の話に彼女が少しでも興味を持ってくれたら、これからも一緒にいられたのに。また失踪者が増えてしまうな。そう考えると嘆息が漏れる。別に殺したくて首の骨を外すわけじゃない。やむにやまれない理由があるのだ。今までだってずっとそうだった。

 彼女のことは普通に好きだ。だから心配は要らない。死んだことも気づかないくらい迅速に、俺は彼女をあの世へ送ってあげられるから。

 ああ、俺のために法律を変えようと思ってくれるくらいの、気概のある人間はどこかにいないものか。

 そんな相手が見つかったのなら、俺もその人を強烈に推せるのだろう。机上の推し活を夢見て、これからも俺は理想を追い求め続ける。

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