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目々

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 窓に叩きつけられる風の唸りに重なるように部屋の壁が軋んだ。


 公民館の一室。それなりに広い畳敷きの部屋は白々とした電灯に照らされている。

 天井近くに掛けられた時計は夜中の二時を指していた。


「風すごい音すんね。トタンとか飛びそう」


 微かな音を立てながら熱を吐き出す灯油ストーブを背後に、膝掛けをマントのように羽織りながら、三宅は顔を廊下の方へと向けて呟く。

 俺はストーブのせいで乾く目を軽く押さえた。


「時期的にそろそろ春一番だろ──早く切れよ、札」


 俺の言葉に三宅は慌てる様子もなく、妙に達者な手つきで花札を撒き始めた。


「よくさ小学校のころはここの会館使ったよな、児童会とかでさ」

「そうだったか」

「そうだよ。あの時計とかその頃から現役だぜ多分。電池は入れ替えてるけど」


 不毛な会話を続けながら配られた手札を眺める。ロクな札がない。中途半端な種札と柳に雨の二十点札。おまけに場に出ている札は噛み合わないものばかりだから、せっかく取った親番なのに初手から捨て札を出す必要がある。


 底冷えのする春の夜、強風吹きすさぶ最中に公民館の広間で向かい合って花札をしているには一応の理由がある。

 神社前に鎮座する公民館、そこで夜更けから夜明けまで玄関と広間にだけ明かりを点け放し、その間に渡された真っ暗な廊下を見張っていること。神事というにはいささか地味な慣習だ。ただそれだけの退屈な監視業務じみたことでしかないが、男性二人という指定があるのが厄介だった。例によって過疎かつ若者の少ない田舎町ではこの手の役割をこなせるような成人男性は少なく、始めに白羽の矢が立ったのは町役場勤めの最年少たる三宅だった。厄介ごとを任される代わりに、三宅生贄にもう一人誰を道連れにするかという選択権が渡されたのが俺の不幸の始点だろう。

 結果としてこの生贄は、最近都会から出戻ってきた俺を道連れに選んだ。地元で堅実に勤め人として生活している兄や両親のことを考えればただ黙々と従うしかないのは、俺にも分かっていた。

 そうして到ったのがこの有様だ。俺と三宅は田舎町の情緒溢れる慣習及び行事の当事者として、この畳敷きの広間で火力の足りない石油ストーブを傍らに冷たい夜をやり過ごしている。


「一弘なんで帰ってきたの?」


 無造作に手から出した松の赤札を鶴札で叩き取り、前置きひとつなく三宅が言った。


「他のやつに頼まれでもしたのか」

「いや。ただの興味と時間潰し」

「人のプライバシーを暇潰しに使うか」


 口の端だけを大袈裟に歪める。三宅は気づいた様子すらなかった。


「嫌なら聞かないよ。じゃあ俺の趣味の話まだするから」


 先程まで延々と聞かされた深夜ドラマの歴史と現状にこれからの展望らしき演説を思い出して、俺は手札に目を落とす。


「雑に言や病気だよ。飯食えなくなって、動けなくなって、何もできなくなったから……連れ戻された」

「俺それ知ってるけど鬱とかいうやつで合ってる?」

「そういうことを俺以外に言うなよ。合ってても違っても刺されるぞ」


 三宅は深刻そうに見えなくもない程度に眉間に皺を寄せ頷いてから、


「じゃあ何で鬱ったの?」


 人間のこういう無神経さが嫌いだと考えてから人間以前にこいつ単体のバグかもしれないと思い直す。思い返せば三宅は昔からこうだ。背景やしがらみのあれこれに頓着しないのは長所だろうが、それと同じだけ気遣いも配慮もしない。嫌いではないし恨むような相手ではないが、まともに付き合うには気合が必要な類だ。

 気合どころか何もかも底をついたのが俺の現状ならば今更抵抗する理由もないなと俺は息を吐いた。


「……大事なもんがぶっ飛んだんだよ」

「当てていい? 彼女」

「違う」


 意図せずきつい声が出た。さすがに驚いた顔でこちらを見返す三宅に軽く頭を下げるような真似をして、小さな声で続ける。


「好きだったアイドルの──推しが引退するとか言い出してな。それでまあ、あれだ、自暴自棄っていうかな……見かねた兄貴に確保されて、出戻ってきたんだよ」


 部屋に踏み込み俺と室内の惨状を目の当たりにした瞬間の兄の顔を思い出して、俺は息を吸い損ねて咳き込む。物件の手続きや会社の諸々も任せたこともきちんと謝れていない。罪悪感だけを未練たらしく抱え続けるばかりで結局は何もしようとしない自分の無価値ぶりに、改めてうんざりする。

 三宅は少しだけ目を細めてから、


「そういうのあるんだな都会。怖いな都会って、魔都じゃん」


 お前真面目だったもんなと適当なことをしみじみと呟く様子を一瞥して、俺は場札の菖蒲に手札から同柄のカス札を叩きつけた。


 心底からくだらない話だ。端的に言えばいい大人が小娘ひとりに入れ込んでのぼせて足場を踏み外した、ただそれだけのことになってしまうだろう。誰に聞いても俺が悪いと答えるだろうし、俺もその通りだと思う。

 それでも浅ましいことに未練とも恨み言とも分類のしようのないわだかまりを抱えているのが俺の現状だ。わざわざこいつにその辺りの細々とした内容を話してやる義理もない──そもそも聞かれたとして、どう説明すべきなのかを俺自身も未だよく分かっていない。

 三宅がまた手出しの赤短で場から花見の二十点札を合わせ取った。


「何推してたの? メジャーなやつ? 俺も知ってる?」

「知らないと思う」


 俺の返答に三宅が怪訝そうな顔をする。


「地下アイドルだったから」

「地下。いるんだやっぱ都会は」


 驚きと憧れの混じった返答と共に三宅は頷いた。


「こっちだとご当地アイドルはいるんだよね、けど地下以前にこう、大手の舞台がそもそもないからさあ」


 地下以前に上物うわものがないよなと関係者が聞いたら叩き殺されても仕方がないようなことを呟く三宅から、俺は目を逸らした。


 卒業。引退。新たなステージ。どう言い換えようとも彼女は俺の知っているアイドルとして存在することを放棄したのに変わりはない。


 代り映えのないライブに参戦し続け、目立って上達もしないパフォーマンスに声を張り上げ、日常では使い道のないグッズを買い漁る。俺の立場は外野からは養分とも奴隷とも呼ばれるものだろう。

 養分になれるのならばそれで満足だった。出来のいい兄から逃げるように都会に出たものの、目だった才覚も個性も主義も持たない俺はただ擦り切れるように日々を送るばかりで、何かを為すことも得ることもできずにいた。そんな何も持てない自分が、金を積み献身することで彼女──アイドル推しの役に立てる。『アイドルとして歌い続けたい』と舞台ライブで言い切った瞬間、彼女は俺の推しになった。その夢を望む姿が、俺にとってはひどく眩しく尊いものに見えた。冷え切っていた血が胸を巡り、経験のない熱を灯したのを覚えている。

 取るに足らない無価値な自分を、その夢のために正しく使い潰して欲しかった。そのためならば幾らでも貢げたし、どれだけでも熱狂し続けるつもりだった。推しがそれを望むのならば、推しの役に立てるのならば俺は満足だった。

 憧れていたからこそ、憧れるに足る存在で居続けてほしかった──それなのに彼女は唐突に卒業した。舞台照明が照らし切れずに淀む足元の影に呑まれるような絶望感だけを、俺は鮮明に覚えている。


 『普通の女の子に戻ります』という最早古典となった文句から始まった卒業の口上を、あの宣言のときと同じ衣装で口にされたのが一番こたえた。


「裏切られたと、思ったから──もう駄目だった」


 それだけ告げて黙れば、三宅は数度目を瞬かせてから手札に視線を戻した。

 風は少しだけ収まったようで、室内には時計の針音が響く。時刻は花札を始めた頃からさして進んでいるわけもなく、夜明けまではまだ随分遠いのだな、と今更に憂鬱な気分になった。

 ぎしりと床の軋む音がして、俺は反射的に廊下の方へと顔を向ける。


 開け放しの引き戸。煌々と明るい大玄関。

 真暗な廊下を制服姿の女生徒はすたすたと歩き去った。


 吠え声に似た風音にびりびりと窓ガラスが震えた。


「今の──今の見たか、一弘」


 三宅は毛布を羽織ったまま、妙に平坦な声を出した。


「見たよ」

「足通ったよな」

「足っつうか丸ごと通ったろ」

「丸ごとは見てない。足見てうわってなったから……」


 本当に通るんだなと三宅は両腕を抱えた。


「あれなんだろうな」

「……神様なんじゃないの。近くに神社あるし」

「知らないのか」

「通るものがいるっていうのは行事の前に聞いてたけど、どういうものかとかは全然。聞けるわけないだろそんなもん」


 三宅はひざ掛けを頭から被って丸くなる。俺はその姿を眺めて、いつのまにか取り落としていたらしい手札をおざなりにまとめる。この様ではさすがのこいつも勝負を続行する気もないだろう。


 三宅の様子や花札の勝敗よりも、俺は重大なものを見た。


 開かれた戸口の間を悠々と渡り切り、俺たちの視界から消え失せる刹那。 廊下の暗闇に浮かび上がる白い顔を横向けたまま、通り過ぎるほんの僅かな瞬間だった。

 奈落のように黒々とした目は確かに俺を見ていた。


 あの目を俺は知っている。底無しの欲と執着を湛えた目。あのときアイドルになりたいと言った、彼女の目と同じだ。


 俺は夢想する。今度こそ裏切らず、変質も変節もせずに、俺に崇拝され続ける存在になってくれるだろうか。人間ではないのかもしれないし、神様でも何でもないのかもしれない。そうだとしても構わない。俺の崇拝と献身を受け止めてくれるのかということだけが重要だ。

 『通るものがいる』と伝えられていた以上、三宅はともかく町の年寄り連中にはある程度の知識はあるのだろう。もしかしたら兄も知っているかもしれない。だとしたら都合がいい。彼女それをどう扱うべきか、あの異物が望むものを知っているのではないか。

 彼女推しのために俺ができることがあるのではないか?


 期待に高鳴る鼓動の強さに背中が攣るのが分かる。胸を灼く懐かしい熱に浸るように、あの推しの顔を焼きつけようと、俺は目を瞑った。

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