笑顔のベリーソース

 五日後の昼、俺はデリツィオーゾ城にいた。

 食卓の上座に、得意満面のテオバルドと痩せ細ったレナートが着席している。日々の食事で国王陛下と王妃陛下が座していた席だ。俺でさえひどい違和感があるのに、レナートにはどれほどの屈辱だろう。

 背後の給仕に目配せすると、透かし彫りの盆に乗った、三皿の同じ料理が運ばれてきた。


「『仔グリフォン肉のソテー、ベリーソース添え』……肉は中央山脈産の最高級品だ。ソースは、城に残ってた最高等級ワインに、ベリーを色々合わせた。ラズベリー・ストロベリー・ブラックベリーを基調に、山で採った野生の実も少々……その節は護衛どうも」


 最後に皮肉を混ぜたが、テオバルドは平然と笑ってやがる。食材調達の間、兵士数人が俺を尾行してたのは知ってるんだぜ。ま、山じゃあ全員早々に脱落してやがったが。おかげで必要な物は揃えられた。

 甘い匂いを漂わせる皿が、テオバルドとレナート、そして反対側の空いた椅子の前に置かれる。テオバルドは、すぐさま自分とレナートの皿を入れ替えた。

 見届け、俺も空いた席に着く。ナプキンを着けてレナートを見遣れば、端整な顔に眉間の皺が深く刻まれていた。


「俺の最高の得意料理スペシャリータだ……肉の香りを活かすためスパイスは最小限、ベリーソースも主張させすぎず。主役を本気で『立て』てある」


 久しぶり、だ。

 店ではいつからか、主役を隠す偽物ばかり作っていた。

 王宮に入ってからは、野生の実を採る暇などなかった。

 だから、レナートはこれを食べたことがない……いや誰一人食べていない。今の俺は、昔の俺とは違う。あんたに導かれた「今の」俺は、この得意料理スペシャリータを初めて作る。

 さあ、食えよ――

 俺が口の端を上げてみせると、レナートは緩慢にナイフとフォークを手に取った。深紅のソースがかかった肉を、少し切って口に入れる。

 瞬間、レナートの動きが止まった。

 見開かれた目が、どこか呆然と宙をさまよう。

 肩がわずかに震えている。

 ようやく噛み始めた口の動きが、鈍い。

 長い咀嚼そしゃくの後、喉がやっと動いた。切れ長の目が、俺を正面からにらむ。


「あなたは……酷いですね」


 背筋が凍る。

 何かへまがあったのか――内心で冷汗を流す俺へ、さらに震え声が投げかけられる。


「今の私の状態は……ご存知でしょう。長く飢え続け……今は、わずかなミルク粥さえ天上の滋味」


 目尻に涙が滲んでいる。


「幾度も、あなたの皿を夢に見ました。あなたが作るどんなものでも、今なら無上の美味であるはずなのに」


 レナートのナイフが、震えている。

 やっと切り取った大きさは、さっきの半分ほどだ。ごく小さな肉片を、何度も頷きながら噛みしめ、飲み込む。


「『最高』のものを『今』出すなど……酷い。あなたは酷い……」


 かさついた頬を、涙が一筋、下る。

 レナートは笑っていた。笑いながら涙を流していた。

 ぐしゃぐしゃの笑顔を前に、俺は少し心配になった。俺の意図は伝わったのか。あいつの舌は、ちゃんと働いているのか。


「なにもかも、今は……完璧としか感じられない。肉の芳香と合わさるワインの渋味も。ラズベリーやブルーベリーの甘味も。野生ベリーのえぐみさえも。……おいしい。あまりにもおいしい……」


 安心した。あいつは今でさえ「神の舌」だった。

 レナートは、肉をまた小さく切り分け噛みしめた。テオバルドが、いやらしく笑いかける。


「忠臣も飢えには勝てぬか。主君の仇のための皿が、そうも美味いとはな」


 嘲りの視線に、熱が混じり始めている。客たちが俺の料理にナイフを入れる瞬間、いつも見せていた目の輝き――あれと同種の興奮が、確かに見て取れた。


「そりゃあ美味いはずだぜ。誰に作らせたと思ってんだ、あんた」


 俺は鼻で笑ってみせつつ、自分の肉を小さめに切り分けた。ソースをたっぷり絡め、いただく。

 ――味は狙い通り。本物のグリフォンのかぐわしさを、果実がしっかり受け止めている。


「ああ、いい感じだ。脂の匂いとソースの風味、口の中で混ざると最高に美味い」


 肉とソースのかぐわしく甘い匂いの中、何度も頷きつつ、喰らう。

 態度で、熱を含む瞳へ訴えかける。

 食えよ。うまいぞ――


 ようやく、テオバルドがナイフを取った。

 粗く切り、大口で喰らいつく。


「ふむ、確かに美味い……甘いだけでなく、辛味や渋味が少しあるのも良いな」


 テオバルドはそれきり黙った。

 肉塊とソースが、次々口へ消えていく。フォークとナイフと顎だけが、ひたすら動く。

 横でレナートは、震える手で細かく肉を切り分けていた。何かを堪えるように、涙を零しながら、小さな一片を幾度も噛みしめていた。

 滴る雫を見つめながら、俺も自分の皿を、ゆっくりと……味わった。






 空の皿を前に、テオバルドは大きなげっぷをした。鋭さの消えたまなざしが、まだ食べている俺を見つめてくる。

 やがて俺がフォークを置くと、テオバルドは尊大に宣言した。


「ラウル、お前を我が宮廷料理人に任ずる。これからも儂とこの男に料理を作れ」


 俺は椅子から立ち、深々と一礼した。


「レナートが一緒なら喜んで。この命の続くかぎり、お仕えしますよ」


 レナートの皿はまだ三分の一ほど残っていた。横の会話にも反応せず、黙々と食べ続けている。

 俺はあらためて軽い礼をした。


「主。最初にひとつ、頂きたいものが」

「申せ」

「今日の日没まで、俺とレナートにいとまを。共に外の風に当たりたく」


 少し考え、テオバルドは頷いた。


「城から出ぬなら構わん。中庭ででも涼め」


 俺は何度も頭を下げた。






 食べ終えたレナートに肩を貸しつつ、中庭へ向かう。元から細かったレナートの身体が、少し押せば倒れそうなほど軽い。時折よろめく足取りを支えながら、俺たちはどうにか階段と廊下を抜けた。

 中庭の木々は、外の動乱など知らぬ風に茂り続けている。衛兵から見えづらい一本を選び、根元にレナートを座らせた。俺も隣に腰を下ろす。


「なあ、レナート」

「なんです、ラウル」


 幹に身体を預けたレナートは、疲れた、しかし明るい声色で答えてくれた。まだ話はできそうだ。


「あの皿の……本当のところが聞きたい」

「私を、疑っていますか?」


 涙の跡が生々しく残る顔で、レナートは屈託なく笑った。


「先の言葉がすべてです。空腹のソースが加わった極上の一皿……美味は到底表しきれません。肉もワインも、ラズベリーもストロベリーも――」


 笑みが不意に変質した。細めた目に、いつもの皮肉が混じる。


「――も。すべて完璧でした」


 俺は声をあげて笑った。

 だよな。あれはブルーベリーだ。よく似た何かドクウツギなんかじゃ、決してねえ。真実は俺とあんただけのものだ。

 適量の分配は手間だった。十粒も食えば死ぬ猛毒とはいえ、一皿に十粒は少々多い。だから粒は少しだけ、残りはペーストにした。

 あと、いっぺん試してみたくはあった。あの実に特有の青臭み、グリフォンの鋭い香気と噛み合うとは思ってた。あんたも完璧と感じたか。意見の一致、嬉しいぜ。


 レナートが身を震わせ、大量の血を吐いた。

 廊下から喧騒が聞こえる。「陛下が――」と叫ぶ声。

 無駄だぜ。あいつが食べ切るのは早かった。とうに手遅れだ。

 あらためてレナートに感謝する。俺の企み、半ばは博打だった。テオバルドが疑いを持ち、手を止めれば一巻の終わり。俺たちが先に倒れてもだめだ。奴が食べ切り消化を終えるまで、すべてを隠す必要があった。

 一口目で虜にする自信はあった。だがそこまでは賭けだった。

 レナートはすべてを読み取り、奴の欲を煽った。自分の飢えさえ目眩ましに使って……そしてごくゆっくりと食べ、空の胃が毒を取り込むのを遅らせた。

 うまくやってくれると信じてはいた。だが、極限の空腹に最高の美食――欲を抑えきった意志の力は計り知れねえ。


 痙攣けいれんするレナートの身体を、俺は抱き寄せた。空いた方の手で、肉のない手を握る。

 俺の身にも、じんわり悪寒がこみあげてきた。


「逝こうぜ。一緒に」


 昼下がりの陽の中、震えながら笑い合う。

 さあ、旅立つか。人殺しと共犯者が堕ちる地獄へ。

 ちっとも怖くはねえ。あんたさえ一緒なら、俺はどこまででも行ける。

 灰の林檎も硫黄の苺も、望むように料理してやるぜ。最初はダメ出しだらけだろうが、人の寿命からさえ、俺たちはもう自由だ。究極の料理――空腹のソース抜きでも完璧な一皿、作れないはずはねえ。

 天才料理人に、不可能はねえんだからな!




【終】

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笑顔のベリーソース 五色ひいらぎ @hiiragi_goshiki

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