脅迫のミルク粥
一年後、デリツィオーゾ城は陥落した。
北の戦が終息して、わずか一ヶ月後だった。
食材供給が安定する、と喜んでいた俺は愚かだった。北を制した「暴君」テオバルド王は、勢いのまま南方――俺たちの国へ攻めてきた。
凄まじい速さだった。国境侵犯の初報が朝に来て、夕方にはもう郊外に敵軍が現れた。城壁が突破されたのは夜半だった。歴戦の北方兵は、平和慣れした守備隊を一方的に
なすすべなく俺たちは捕らえられた。手枷をはめられ連れ出されてみれば、外は明るかった。街が燃えていた。
俺は敵本陣に連行され、テオバルド本人の前に引き据えられた。小太りの身体に獣じみた目を光らせ、奴は俺を見た。
「おまえが料理長ラウルか……デリツィオーゾの美食、ぜひ試したいものよ」
頬に冷たい物が押し当てられた。兵士の剣だと気付いた瞬間、背に震えが走り抜けた。
こいつらは、人の命など何とも思っちゃいねえ。断れば俺の身は――
思った時、聞き慣れた声が耳に響いた。
(あなたの皿は極上の宝石です。至宝には相応の場所が要る)
低い笑い声まで響いてくる。居るべき場所は
すべての力を目に籠め、俺はテオバルドをにらみつけた。
「俺はフェルディナンド陛下の料理長だ。デリツィオーゾの料理人だ」
テオバルドは嗜虐的に笑った。ねばつく視線から、剥き出しの欲望が絡みついてくる。
振り切ろうと、低い声を出す。
「陛下の敵に、麦一粒も煮てやる
「ほう。ならば――」
テオバルドは舌なめずりをした。獣じみた仕草に、全身が総毛立つ。
「――奪えばよいのだな。おまえが義理立てるものすべてを」
獣が、高く笑った。
三日後、フェルディナンド国王陛下と王族全員が処刑された。
公開処刑の日、敵兵が俺を広場最前列へ連れて行った。ぎらつく真昼の陽の下、開けた石畳の中央に、粗末な麻服を着せられた陛下がひざまずかされていた。毎日目を細め、俺の皿を嬉しそうに平らげていたお顔が、見る影もなく泥に汚れていた。
陛下の頭上、大斧が振りかざされる。
とっさに下を向いた。見てはいけない、気がした。
レナートの生死は不明だ。だがどうか、この有様は見ていてくれるな――心から、そう願った。
敵兵に引き立てられ広場を去るまで、俺は、顔を上げることができなかった。
夕方、俺は城のテラスへ連行された。待ち受けていたテオバルドは、眼下の市街を剣で指し示した。夕陽に染まった街並は大半が焼け焦げ、至る所に侵略者の旗が翻っていた。
「おまえの王は死んだ。街は我らの物となった。ならば、おまえも今や我が物よ」
剣の切っ先が、俺の喉元に突き付けられた。
「冗談じゃねえ」
今度は即答できた。
「命の切れ目が縁の切れ目じゃねえよ。それに」
脳裏に焼き付いたレナートの冷笑が、氷の視線が、告げる。
(その男に返答すべき言葉は……当然わかっていますね?)
あいつが忠誠を、毒見の舌を捧げた相手を、目の前の奴は手にかけた。ここで膝を折ったなら、あいつは俺を見限るだろう。その時どんな顔をされるか……想像できねえ。想像したくもねえ。
可笑しい。俺はどうやら目の前の剣より、生死さえ分からねえ人間の失望が怖いらしい。
「裏切れねえ奴は他にもいる。諦めな」
テオバルドは剣を収め、不気味に笑った。
俺はデリツィオーゾ城の地下牢に閉じ込められた。以来、最低限の食事や監視以外は、不気味なほど何もない日々が続いた。
暗い獄中、日にちの感覚がなくなってきた頃、突然俺は連れ出された。
陛下の執務室だった部屋で、テオバルドは革の椅子に座っていた。横の床で、手枷をはめられた捕虜が一人、うなだれている。
「レナート……!」
思わず声が出た。
頬がこけた顔にも、骨が浮いた青白い手にも、肌の艶がない。黒髪は乱れ、手足の傷や痣は手当された形跡もない。
テオバルドが、にたりと笑った。
「やはりこの男か。捕らえたメイドどもの言葉は正しかったようだな」
全身から血の気が引く。
裏切れない奴がいる――半分は自分への言い聞かせだった。が、囚われた使用人は大勢いる。俺が誰と特に親しかったか程度、すぐ調べられるはずだ。迂闊だった。
立ち尽くす俺へテオバルドは、おそろしく嗜虐的な笑みを向けた。
「ここ十日ほど、この者には薄いミルク粥しか与えておらん。このままでは衰弱して死を待つばかりであろうな……そこでお前に相談がある」
低く笑いながら、奴はレナートの肩を乱暴に揺すった。
「ラウルよ、儂とこの者に料理を作れ。同じものを二皿だ。どちらをどちらが食べるかはわからん、毒を盛ろうとは考えるなよ……そしてお前が断るなら、以後この者に食事は与えぬ」
「断りなさい、ラウル」
レナートの声は毅然としつつ、ひどくかすれていた。
「あなたは私に見せようというのですか……あなたの皿を楽しむ、この外道の姿を!」
握りしめた拳が震える。
俺は、レナートを見殺しにするのか。それともレナートの目の前で、侵略者の獣欲を満たしてやるのか。
選べねえ――と思った瞬間、何かが俺の頭に降ってきた。
神の啓示か、悪魔の囁きか。どちらだとしても酷だ。それを俺にやれっていうのか。だが、できることはもう他にねえ。
「条件を飲もう。料理、作ってやるよ」
「ラウル!」
悲鳴のような声を、無視する。
「俺からも条件を出す。作るのは三皿……あんたとレナート、加えて俺の分だ。作る料理と食材は俺が決める。食材調達の間、俺は自由に動かせてもらう」
「構わんが、逃げればこの者の首は落ちるぞ」
「逃げねえよ」
俺はレナートを見た。痩せた肩が震えているのは、怒りのためだろうか。
「ラウル、あなたが本気なら……まず私の目と耳を潰しなさい。あなたがこの悪魔に屈する
「すまねえ。だが、しばらくあんたの命、俺に預けてくれ」
無理に俺は笑顔を作った。
「天才料理人の腕前だけ……信じて待ってろ」
それ以上、レナートは何も言わなかった。
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