人生、1/4未満

憂杞

non-alcoholic and non-sweet life

 成人してから二年ぶりに飲むお酒は、相変わらず苦くて不味いだけだった。

 日曜日のお昼、外出中の両親に内緒で買いに行ったレモンサワー缶。近所のスーパーに百円ちょっとの品が置いてあって、意外と安いじゃんと思いつつカゴに一つ放り込んで、誰もいない自宅のキッチンで口をつけてみた結果がこのザマだ。ひたすら苦くて、喉をちくちく痛める微炭酸すら不快だった。一パーセントだけ含まれるレモン果汁は申し訳程度に香るだけで、かえって強すぎる苦味をいっそう際立たせていた。

 見下ろした視界にシンクの排水溝がちらついて、飲み残しを全部流してしまいたくなる。けれど環境汚染いけないことに加担する罪悪感がわずかに勝って、思い留まる。

 なぜ大人はこんな苦いもので楽しくなれるのか、私には未だに理解できない。当然ながら酔いも回らないし。――いや、酔えないことには私にも非があるけれど。

 お酒はお酒でも私が飲んだのは、ノンアルコールのレモンサワーだ。一度は酔うという経験をしたいがために行動に移したけれど、過剰に摂取して体を壊してしまうのも怖かった。ラベルに『度数ゼロ』の表記があってもコンマ以下はアルコールが入っていると知っていたから、ひとまずそれで妥協して飲んでみようと思ったまでだ。

 そのせいで酔えずに不快になるくらいなら元も子もないのに。要するに中途半端な気の迷いに過ぎなかった。結局、私は何のためにこのサワーノンアルを買ったのか疑問に思う始末。ストレス解消のつもりが後悔と苛立ちを募らせる結果となった。

 車を駐める音が屋外から聞こえてきて、親が帰ってきたことに気付く。それからの私はどこに缶を隠すかばかり考えていた。


 翌日、鬱陶しい月曜日の朝を迎える。起き抜けに頭痛でもするのではないかと心配――あるいは期待をしていたけれど、目立った不調はなく私はいつも通り出社した。手に提げたリクルートバッグにはわずかに重みを感じるけれど、それ以外は憂鬱な気持ちで電車に揺られるいつも通りの出社だ。

 会社に着いてからの朝礼が長いのもいつも通り。先週請けたという急ぎ案件のせいで残業が確定しているのも、いつも通り。

 オフィスでパソコンに向かっている間、同じくデスクワーク中の上司の後ろ姿が見えた。マウスを触らない手でボトル詰めの小粒チョコをしきりに摘まむ様子に、私はさぞ冷ややかな視線を向けたことだろう。私はお酒と同じくらい甘ったるいものも好きではないから、粛々と仕事するさなかに間食を  そんなもの  嗜める彼らが心底羨ましかった。

 集中力の持続やストレス軽減など、糖分が仕事に対しプラスに働くことは知識として知っている。もしかするとアルコールにも似たような効き目があるのかもしれない。けれど私の体は、少なくとも舌はその両方を受け付けない。口の中に入ればむしろ集中は掻き乱されストレスは倍増する。その既成事実はすぐにでも身を以て証明できる。

 私はペットボトルの水を一口飲んで、しゃあない、と言わんばかりに作業の手を動かす。

 お酒の旨さもお菓子の素晴らしさも、知らない人は人生を半分損していると世間ではよく言われる。実際その通りかもしれない。両方とも理解できない私はつまり、半分のさらに半分も得していないというわけか。

 程なくして昼休憩のチャイムが鳴った時には、すでに早退を考えるくらい疲れていた。


 午後の仕事を始めようとした時、私は大きな失敗をしたことに気付く。上書き保存のし忘れによるデータの抹消。あまりに初歩的なコマンドを怠ったまま作業中のウィンドウを閉じてしまい、自分が午前中の四時間を費やした成果がパアになってしまった。

 担当の上司には恥を忍んで報告した。明らかに動転したような顔をされた後、仕方がないので最初からやり直すように、とだけ指示を受ける。短納期の中で進捗率に痛手を負わせた割には、思いのほか寛大に流されて拍子抜けしてしまう。いっそ一思いに怒鳴られたい気持ちでいっぱいだったのに。けれど冷静に考えれば怒る方がエネルギーを浪費するから、それこそ私の一方的なわがままだった。

 何にせよ同案件を明日までに収める契約は変わらない。定時が近付いたところで、私は上司に残業時間を終電ギリまで延ばすようせがまれた。今日一番の戦犯として、応じたい気持ちは山々だったけれど。

「すみません、今日は……体調が悪いので」

 物がつっかえたような喉から声を絞り出す。しんどいのが嫌だからという理由も勿論ある。ただそれ以上に私が恐れていたのは、また同じ失敗を繰り返すことだった。体調が優れないことは事実といえば事実だったし、あんなケアレスミスをしたのは体調のせいだとも本気で思っていた。糖分不足という他に言わせればしょうもない裏付けも、自分を騙すためだけなら辛うじて機能した。

 私が頑張ったところで足を引っ張るだけだ。そう自分に必死に言い聞かせて、渇いた口から謝罪と弁明を吐いて並べた。


 結果として私は体調不良を認めてもらえたらしく、予定していただけの残業時間で帰してもらえた。通用口から外へ出ると深く心地良い夜闇が身を包んで、澄んだ空気とかすかな排ガスが鼻を撫でる。こうして表通りのアスファルトを踏みしめている間にも、窓からこうこうと光が漏れている上階のオフィスでは、年上の数人が黙々と私の尻拭いをしている。

 私は退勤路から大きく逸れた道を歩いて、人目につかない路地裏で足を止めた。しゃがみ込んでバッグから手探りで取り出したのは、家からこっそり持ち出していたお古の水筒。中は昨日のうちに缶から移し替えたレモンサワーで満ちていた。

 おそるおそる飲み口を咥えて、一気に傾ける。もともと仕事中にひっかけようとして躊躇した私が悪い。そう脳内で悔やみつつ弱すぎる毒で喉を痛めつけていく。けれどあっという間に口から溢れ出して、気管にも入れてしまい激しく噎せ返る。慌てて含んだ水もすぐさま気管に入って、しばらくまともな呼吸を忘れさせた。

 それでも咳が収まった後の私には余裕があって、バッグから出したハンカチでびしょ濡れの衣服を平然と拭えた。したたり落ちるほど大量に零してはいないようだから、座らなければこのまま電車に乗ってもいいかなと高を括る。多少周りの目は気になりつつも、私は人工光に満ちた駅への道に戻ろうとする。

 悪魔に出会ったのはその時のことだった。

 遠くの街灯に照らされたアスファルトの路上に、ありきたりなノック式の黒ボールペンが一本横たわっている。見るからに落とし物のようで、誰かが踏んづけたら危ないと思って拾い上げたら、いきなり隣に二メートルほどの人影が現れた。

『俺と契約しろ』

 困惑のまなざしを向ける私に、黒衣をまとった人型悪魔――契約というワードから悪魔を連想した――は不躾に言い放つ。段取りも何もないキャッチセールスを思わせるけれど、そんなちゃちな者でない雰囲気くらいは私でも察せた。悪魔は私の右手にあるペンを指差して告げる。

『そのペンで氏名を書かれた人間は死ぬ。どんな権威ある者の生命も奪えるし、死因も自由に書き換えられる』

 死ぬ。異様な言葉の響きに心臓が縮まる。サワーをがぶ飲みしたせいで幻覚でも見ているのかな、なんてちっぽけな思考に逃げようとするけれど、手には確かに普通のボールペン以上の重みがあった。ノックする部分を親指で半分押し込んでみると、スズメバチの針に似た鋭い先端が覗く。

『お前にもいるだろう? 殺したいほど憎い奴や、楽にしてやりたい誰かが』

 立ち尽くす私と悪魔は石ころにでもなっているみたいで、何事もないかのように通行人が近くを過ぎていく。甘いささやきを受けて真っ先に浮かんだのは、無茶な仕事を請けた営業部長の顔だった。次にそれを受け入れた上司と社長と――足手まといな、私自身。

 誰か一人でもいなくなれば、何かを変えられるかもしれないけれど。

 そっと誘うように白紙を差し出す悪魔に、私は努めてやんわりと一言返す。

「……いらない、です」

 予想以上に震えた自分の声に、自信が削がれるのをぐっと堪える。相手は凶暴そうな悪魔で、機嫌を損ねたら何をされるか分からないから、お気持ちは嬉しいですと言わんばかりに口角を上げておいた。

『あ? いいのか? こっちはただ暇潰し……じゃなくてお前のためだと思って』

「結構です。大丈夫ですので。他をあたってください」

 ここで誰とも関わらないでと言えたり、ペンを叩き折れたりできればより良かっただろうけれど、今の私にはその場しのぎが精一杯だった。ふぅん、と鼻を鳴らした悪魔は、私の手から汗で濡れたペンを摘まみ上げると、それと一緒に夜闇に溶け込むように姿を消した。


 私は手汗を握りしめたまま一歩も動けずにいた。人を殺す、私を殺す――そんな馬鹿げた行為に少しでも惹かれた自分が怖かった。

 どれだけ社会に振り回されて疲れても、死にたいと思ったことは一度もないはずだった。秘密裏にでも誰かを殺してしまって、やがて罪悪感に潰されることにも怯えていた。そんな自暴自棄なんかで壊れる自分を想像したくなかった。

 だから、そう。人殺しなんて馬鹿げている。そういつでも言い張れるうちは、私は大丈夫なんだろうと思う。悪魔を追い返すための一言として吐き出せたように、私はまだ大丈夫だ。

 お酒の酔いに浮かれるよりも苦さを嫌がれるように、お菓子の癒やしを求めるよりも甘さを嫌がれるように。死をいつでも嫌がれるうちは、私はまだ大丈夫。大丈夫だ。

 大丈夫……なんだよね?

 危ない誘いをちゃんと断れたことを誇りつつも、私は心のどこか奥底で、また同じ路地裏に迷い込む日を恐れていた。

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人生、1/4未満 憂杞 @MgAiYK

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