第3話 北畠の猫(3)

 そんなわけで、わたしはその男の子の飼い猫になりました。

 わたしは、生まれた橋の下から、ずっと遠くまで連れて来られました。

 そこは、長い土の壁が続き、そのなかに大きなお屋敷という人間のすみかがある、そんなお屋敷が行っても行っても建ち並ぶという、それまで見たことのないような町でした。

 人間はその街を「京の都」と呼んでいます。

 そういう屋敷の一つにわたしは落ち着き、その子や、その子に付き従う男の子や女の子の遊び相手になりました。

 その子は間もなく「元服」の儀式というものを経て、土御門つちみかど雅家まさいえという名を名のるようになりました。

 男の子がその新しい名まえをもらってからも、わたしは、主人となった雅家様のもとで大切に育てられました。

 雅家というような名ではありませんでしたが、わたしも屋敷で名をもらいました。

 その名は「十日とおかの君」というものです。

 わたしが雅家様にめぐり会ったのが、つまり、拾われたのが、人間のいう「睦月むつきの十日」だったから、ということによるらしいのです。


 やがて、人間として、そして人間の貴人として、一人前にお育ちになった雅家様は、土御門の館を出て、新しく新居に移られることになりました。

 雅家様には兄様がいらして、その兄様が土御門のお家を継がれたとのことで、雅家様は家を出られたのです。

 その新居は、その京の都の北にはずれたところにありました。

 京の都というのもふしぎなところで、都のなかにはそのお屋敷というのがずっと並んでいるのですが、少し外にはずれると、まわりには畑が拡がっているだけなのです。

 雅家様に付き従っていた人間たちはとても嬉しくないという顔つきでした。

 人間の貴人や、貴人に使える人たちのの考えかたでは、貴人は、そんな畑のまんなかの屋敷になど住むものではない、ということらしいのです。

 でも、わたしにとっては、それはとても嬉しいことでした。

 畑が多いということは、そこには作物の屑がいっぱい落ちて、その作物を食うネズミもたくさんいるということです。

 もう年老いたわたしですが、またネズミを相手に自分の技がどれだけ通用するか、試してみたくもなった、というものです。

 雅家様も、兄様といっしょの屋敷に弟として暮らすよりは、この畑に囲まれた家に暮らすことのほうがよほど心地よいようでした。

 まもなく、雅家様は、土御門という名を名のるのをやめられ、新たに「北畠きたばたけ雅家」と名のるようになりました。

 雅家様のまわりの人間たちのなかには、眉をひそめて

「おやめなさい、そんな名字みょうじは」

と言う者もいました。しかし、雅家様は

「何を言う。京の都の北の畑に住まうのだから北畠でよい。からの国の新しい学問では、名を正しくするということを何より尊ぶという。北畠と名のる以上に名を正しくする名字があろうか」

と答えて、心地よさそうに笑ったのです。

 まわりの人間たちは、どう答えていいか、困り果てていましたけれど。


 その新しい屋敷、北畠の屋敷に移って間もなく、雅家様に従って来た人間たちにざわめきが拡がりました。

 それは、人間のことばで言う「不穏」な気を帯びていました。

 また、あのいくさとかいうものが始まる、というものなのかとわたしは思ったほどです。

 しかし、その一人が雅家様にささやいたのは

「院がお隠れになったらしい」

ということばでした。

 わたしにはよくわからないのですが、人間のなかにとりわけ貴い「院」というひとがいて、その方が亡くなった、ということのようです。

 それを聞いた雅家様は、周りにいた人間たちに遠くに行くようにいい、かわりにわたしを抱き上げました。

 「聞いたか? 院がお隠れになったらしいぞ」

 貴人が亡くなったというのですから、わたしは悲しそうな声を上げたほうがいいかと思いました。

 でも、なぜかそんな声は出ず、ふだんと同じ、ニャア、という声を立てただけでした。

 雅家様は、その声を聞いて、続けて言います。

 「あのいくさで、わたしたちのお仕えした院はお敗れになり、遠い島へと流されてしまわれた。むごい仕打ちだ。そして、かわりに尊い位に即かれたのが、いまの院だ。その方がお隠れになった」

 雅家様はわたしの頭を人差し指で軽く撫でました。

 「わたしがおまえと出会った日を覚えているか?」

 もちろん覚えています。

 あの日、わたしが、後に雅家様となる男の子と出会わなかったら、わたしもあの橋のところで死んでいて、この世にはいなかったことでしょうから。

 そして、その日は……。

 「承久四年正月十日」

 雅家様は、そして、京の都の北、この北畠の地よりもずっと遠くの空を見上げました。

 「それからがひとまわりして十二年、しかし、ほんとうに名を正すためにはまだ百年の歳月がかかるかも知れぬ」

 雅家様はしばらくことばを切ってから、続けました。

 「猫は百年生きるという。おまえは、これから百年生きて、その日を見届けてはくれぬか?」

 わたしは驚きのあまり、ニャア、と大きな声を立ててしまいました。

 それには「抗議」というものも含まれていたかも知れません。

 人間は猫は百年生きるなどと言うけれど、「年」というのが冬から次の冬までを指すのであれば、たいていの猫は五年ほども生きないのです。わたしが長生きできたのは、雅家様のところでたいせつに育てられたからなのです。

 その「抗議」という気もちに、雅家様は気づいたのかも知れません。

 「冗談だよ」

 そう言って、わたしの顔を優しく見て――。

 そして、雅家様はまた北の空へと顔を上げたのでした。


 (おわり)

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北畠の猫 清瀬 六朗 @r_kiyose

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