第2話 北畠の猫(2)
ところで、人間たちは、ほんとうに暖かい春が来る少し前に「春が来た」と言って喜ぶ風習があるようです。
その人間たちが言う「春」が来たとき、わたしはこの世に一人になっていました。
橋の下にいてももうネズミは来ません。もし来たとしても、ずっと何も食べていないわたしの体力ではもうネズミなど捕まえられるかどうか。
それで、わたしは橋のたもとに出ていました。
もし、人間が通りかかれば、うまくすれば、何かを恵んでくれるかも知れません。
そうしたわたしの前に、牛に牽かせた車に乗った人たちの列が通りかかりました。
人間のあいだでは、あの馬に乗っていた人たちよりも身分というのが高い人たちが、牛に牽かせた車に乗るのだそうです。
この人たちならば、何か食べものを持っているかも知れない。
そうでないとしても、あの車の上に上がれば、吹きつける寒い風から逃れることができる。
その一心で、わたしはその車に飛び乗りました。
布というものに隔てられた向こう、暗がりの中にいたのは、もう若くはない女の人でした。
そのひとは、じっと、その両方の目で、わたしをふしぎそうに見ていました。
くたびれているとは言え、絹の衣というものを身につけているところを見ると、人間界でいう身分というのは、やっぱり高いようです。
そして、たしかに、ここには風も当たらず、地面や橋の下、水辺にいるよりはよほど暖かく、ほっと息をつけます。
しかし、その女の人に従っていたらしい女の
「あーっ、猫っ!」
と叫び声を上げました。その叫び声にたじろいでいるすきに、童はわたしを背中から捕まえてしまいました。
やれやれ。
ずっとものを食べていなくて、動きが鈍っていたのでしょう。
いつも人間どもと遊んでいたころには、人間にそうかんたんに捕まえられるわたしではなかったのに。
童はわたしを車から投げ落とそうとしました。
しかし、その童の声を聞いてでしょう。
年端もいかぬ男の子が、車の布をまくり上げて顔を出したのです。
それは、高貴そうな顔立ちの、肌理の細かな、美しい男の子でした。
大きな声を上げて、どうしたのですか、と男の子が問うと、童は不機嫌そうに黙って男の子の前にわたしを突き出しました。
男の子も高貴そうな絹の衣を身につけているのをそのときわたしは目にしました。やはり貴い身分の人間の子なのだとわたしは思いました。
「猫か。ちょうどいい。わたしの遊び相手に連れて帰りましょう」
その子はそう言い、わたしを抱き取ってしまいました。
いったい、身分というものが高い人間というのは、わたしたち猫も含めて、獣を手に取って抱くなどということはしないものらしいのです。しかし、その子は、わたしを抱いて、その車に乗っていた女の人に言いました。
「あのいくさで、たくさんの人が身寄りを失い、生きるすべを失いました。ご覧なさい。ここは宇治関白様がお建てになった寺の向かい岸というのに、いくさ場になったがために、いまはこのありさまです。この子もあのいくさで不幸せになった者かも知れません。わたしたちにとって、けっして他人事ではありますまい」
言うことはたぶん立派だったのでしょう。でも、とても無理をして難しいことばを並べている様子がわかって、わたしは笑ってしまいそうになりました。
女の人は、弱々しい、でも優しそうな声で答えました。
「そう思うのなら、おまえの好きなようにおし」
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