第40話 三千院・起点と終着

 午後の二時前にはバスで三千院に着いた。いつもなら此処で三人は国道から参道を避けて脇道に入るが、今日はバスを降りた観光客の後に続いた。

 桜木は夕紀とは大学内とその近郊で会ってはいたが、三千院は道子さんの本の整理で呼ばれるまで足を踏み入れてない領域だった。ましてこの参道に至っては今日が初めて歩く道だ。それだけに桜木が今までの認識をどれだけ変えられるか、彼女たちは気を揉んで一緒に歩いている。

 小さな川沿いを登りつめて左へ曲がると、直ぐに中央で石垣が切れた辺りに、少し勾配のある石段の上に山門がある。冬は特に注意を要するが、この季節は苦もなく登れる。

 高い石垣に続く土塀が、まるで城郭のようだと桜木が言えば、郊外の寺院は石垣の高さに変化があるが皆同じようだと夕紀が解説する。それに頷きながら受付を済ませて屋内へ上がり込んだ。

 先ずは中書院から客殿を抜けて宸殿に入る。そこから右に開け放たれた観音開きの扉から回廊に踏み出すと、軒先まで続く五段ばかりの板張りの階段を降りると、辺りを覆い尽くす苔を割り裂くように往生極楽院まで砂利道が続く。ここで一旦手持ちの履き物に替えるが、三人はそのまま階段に腰を下ろした。

「あの往生極楽院の中には慈悲深い阿弥陀三尊像があり、失恋当時の滝川さんはここでこうして物思いにふける処を道子さんが見つけて声を掛けた。その時は阿弥陀像に想いを託して居るようだったらしいですよ」

 と夕紀は宇田川さんの説明をここで引き継いだ。じっと座り込む桜木に美紀がその後に語りかけた。

 ーーなにか悟りましたか。

 ーー……。

 ーーどうしました。

 ーー今は言葉が浮かばない。

「ここで何を思ってよいか解らないが、無情の恋に執着心は取り除けない。かと謂って押しかける気持ちも失せて、それを彼はどう表現して良いか解らない時に道子さんが声を掛けてくれただけだろう」

「それって失意のドン底って言うんじゃあないの」

 じれったそうに夕紀が言い出すと、

「早く言えばそうか」

 早く言わなくてもそうに決まってる。本ばかり読んでないで真面な恋をしろって言いたい。

「ここで二人は一体何を話したんだろう」

「それは二人にしか解らないわよ第一に桜木君は恋をしたことがないんでしょう」

「いや、滝川さんがこの前に言った片思いも入れる恋ならそれはあるけど」

「それって相手は全く気が付いてない完全無視ではなくて多少は相手も振り向いて文句を言われたってことか」

「嫌にハッキリ言うなあ。まあそれで一生懸命に恋愛小説を片っ端から読破して行ったんだ」

「そうかそれで桜木君は文学部を志したのかでもそこでは本当の人間は知り得ないからあたしが専攻した文学の講義であたしを知って紛れ込んだのね」

「でもあたしは桜木君を一度も大学内で見かけなかったけど」

「美紀が専攻してない科目があったのよ」

 そうかと残念がる美紀を尻目にして、さあ思い詰めて高まった処でいよいよ阿弥陀仏様を拝みに行くかと三人は腰を上げた。 

 辺り一面は苔むす緑に覆われているが、正面の往生極楽院へは十メートルほど切り開かれたように一本の砂利の道が、阿弥陀如来に導くように延びている。そこだけ靴に履き替えて渡り、中に安置された阿弥陀三尊像を拝観する。これが何度見ても飽きないと寺院を紹介する雑誌には書いてあったが、あの二人もこれを見たのか。

「あたしの所へ鍵を取りに来たときには滝川さんはなんか言ってたの」

「あの時は道子さんから色々と聞いて貰った後だったから気持ちがスーと入って行けたけれどこの前はなんか拒絶されてるようだったと言っていたなあ」

「最近、道子さんと一緒にお参りした宇田川さんっていう人から聞いた話だと道子さんはここにはずっと昔に初恋の人と来た時と同じ共感が今でもするらしいって言われたそうよ」

「何だそれはその道子さんが亡くなる前に見た同じ阿弥陀仏を滝川さんが見ても全く反対の反応なのは何でだろう、夕紀はどう思う」 

 二人に対しての想いの違いかしら、それは想う人に対してのお互いの拘りだと夕紀は云う。想う人に対しての拘りとは何だ、とまた今度は此の言葉に桜木は極度に反応する。

「受け入れてもらえなかったって事なのかしら」

「それでは目の前に千年以上も無言で居座る阿弥陀如来と何ら変わらんじゃないか」

 阿弥陀如来は極楽浄土へ導いてくれる仏さんで人への想いは聞き届けてくれませんよ」

 と夕紀どころ美紀までも腹の中で笑ってしまった。

「それぐらいは解ってるよ、俺が言いたいのは宗教全般だ。信仰心の問題か、いや、あの二人が何を信仰しょうが差別はいかん」

 阿弥陀如来が誰ら差別するのかしらと二人は笑いを堪えた。

 桜木から真面目くさって言われると、この人は本当に女心の解らん変な理屈っぽい学生だ。益々認識すればするほどあのお年寄りとの対応との不可解すぎる差、ギャップをどう分析してよいのか困る。これが桜木の裏表のない素性なら人間学を通り越して、心理学の対象に十分なり得る。

「道子さんはもっと二人の生活を大事にして欲しいって事なんでしょう」

 道子さんの家にも滝川さんの部屋にも、特定の宗教に肩入れするような物は一切置いてなかった。それは桜木も見ているはずた。

「阿弥陀さんと睨めっこしてもしょうがないから行くか」

 と美紀が二人の会話を遮る。確かに美しい仏さんだ。その美しさの対象は信仰でなくて芸術の分野だろう。しかし千年前にはそうでなく信仰心から作られた。だけど万能の科学の発展が信仰よりも美的センスを尊ぶようになった。しかしこれと同時代に書かれた恋物語は今も何ら変わず、その価値観は常に不変だと桜木は言って往生極楽院を離れた。

 それから桜木は仏像より建物とその庭を観賞して三千院を去る。出た後の彼の足取りはもと来た道から離脱して、人気ひとけの少ない方へ勝手に足が向いているようだ。その半歩後ろを夕紀と美紀は付いて行く。

 心の疲れを更に癒やす参拝者は、俗化された参道とは別な路を選ぶ。その道には素朴に咲き誇る草花がある。更に心をゆだねると、一軒の喫茶店が目に飛び込んで来た。それが夕紀の父が営む店だった。三千院のはずれ道ながら桜木がなるほどと頷くのも無理のない立地条件にあるのだ。

 丁度足の疲れも心に比例していた頃合いでもある。それがまたドアに手を掛ければ、カウベルの心地よい鐘の響きが招き入れてくれる。

 いらっしゃいませと若い男の子が、三人が座ったテーブル席に、グラスに入った水を波風の立てぬように上手く置いていく。

「何だ前は居なかったなあ新人か」

 夕紀が弟の秀樹だと紹介した。

「話には聞いて居たけれど三浪を辞めてここで働くの」

 美紀が紙ナプキンで手を拭きながら訊ねる。

「何に拘るかは人それぞれ勝手でしょう」

 と夕紀が弟を擁護する。

「それもそうだが人のおもむきは代わっても恋物語は千年以上も変わらん。これは永遠のテーマだなあ」

 これがあの往生極楽院を前にした二人の拘りだと夕紀が言い出すと、なるほどとやっと桜木は頷いてくれた。

                             (完)

 

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京都大原三千院はずれ道 和之 @shoz7

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