第39話 光明

 今から突然押し掛けてもあいつは居るだろうか、と美紀は急に気弱な事を言う。なら電話したらと言えば、断られれば困るから否定する。桜木がどう反応するか美紀はかなり意識している。これが愛の原動力だが、しかしこれは極端な憎しみにもなる。それをコントロールするのも愛だ。だからこれほど厄介なものはない。美紀はそのあやふやなものを手に入れようとしている。

 美紀がどう豹変するかは全て桜木次第なのに、今はその結果を怖れない。この感情が乱れ出すと取り返しがつかない。だが美紀の足取りはおぼつかないまでも歩みをめることは無い。冷たくされればこんな冒険は避けて拒むべき処だ。真意を隠したまま迎入れる桜木に、その気がないのなら罪作りなのは桜木だろう。

 このままルンルン気分で向かう美紀を夕紀は危惧した。あたしは免疫があるが恋に免疫がない美紀はズタズタになる。

「美紀、浮かれていると危ないわよ」

「どう危ないのよ。夕紀は相手にしてもらえなかったんでしょう」

 あたし個人にではない。あいつは女に対する認識がキッチリ出来ていない。その点だけなら米田の方がまだしっかりと女を見ている。

「実在の女性から目をそむけているあいつの女性像は小説の中でしか存在しないんだ」

「それは夕紀の体験談であってあたしは別よ」

 あの手の男性はちょっとなよっとしている女よりも、男みたいに一本筋の通った考えを持った女性が、彼の対象相手になり得ると夕紀は見ている。美紀はそれには当てはまらない可愛いだけの女だった。とにかくあいつは読書することに依ってのみ、自分の世界に逃避出来る。ただその悦びにいつも浸っているだけの男だと、結論付けても美紀は一向にその歩みを止めなかった。

 京大の北西角、東大路と今出川通りが交差する百万遍から今出川通りを真っ直ぐ歩いて鴨川にかかる橋が賀茂大橋。橋の下からすぐ先辺りで高野川と賀茂川が合流している。橋から二百メートル先が京阪出町柳駅で、合流地点の逆三角形が鴨川デルタと呼ばれている。桜木のハイツは賀茂川の手前で駅裏の込み入った辺りにある。そこまで桜木の女性観を一方的に美紀に語ったが生返事ばかりされている内に着いてしまった。

 居るだろうかとまた不安げな眼差しをする美紀に、新学期だけどまだ授業は始まってないからきっと部屋で本でも読んでると言ってやった。すると美紀は急にどうしょうと言い出す始末だから、さっきまでの自信は何なのと言いたい。とにかく階段を上がり直ぐ横の部屋の前に二人は立った。

 躊躇ためらう美紀がじれったくて、夕紀がドアチャイムを鳴らすと、面倒くさそうに半開きで夕紀の顔を確認すると、急に閉めかけるのを素早く、夕紀は片足を踏み入れて阻止した。夕紀の片足を見て観念して桜木はドアを開けた。

「何だ急にどうした」

 と苦笑いしながら二人を招き入れた。どうも彼にすれば昨日の今日で、二人ともやって来るのを予感できない男だった。それが証拠に夕紀を見てから後ろの美紀を見つけると、顔付きがわずか一瞬ではあるが、一部の表情筋が微妙に動いたのを夕紀は素早く捉えていた。

「どうしたの授業が始まらないと大学には出られないの」

 と招かれて半畳ほどの三和土たたきから部屋へ上がりながら桜木の背中に向かって夕紀は語った。

 入り口のあの邪魔くさそうな表情から、既に一転して緩んだ顔で簡易のテーブルを出してくれた。ヤカンに水を入れて湯を沸かす動作を見ているとさっきまでの道中で夕紀が述べた女性観は吹っ飛んでいる。忠実まめに世話を焼いてくれる実に思いやりのある桜木の情感に美紀はスッカリ気に入っている。

 お湯が沸くまでにカップ茶碗を用意して、あの本だろうと片隅に積まれた中から二巻を探し出して美紀の前に置いてくれた。お湯が沸くと紅茶も出してくれる。

 桜木には来るなら来るで連絡しろよと、何も用意してないから慌てて仕舞うだろうと言われる。別にこっちはそんなものは期待していない。あの年配者に見せたように、此処でももっとナイーブな女心に、寄り添ってくれると夕紀は期待したい。

 抜き打ちでやって来た美紀には、桜木は面倒がらずに紅茶を出してくれる。このおもてなしに秘めた優しさは朗報だろう。だがその桜木の優しさが曲者なんだ。彼は書物から得た男女の心の駆け引きが愛で有り、それにそぐわない男女の行動は理解を知り得ない。それを夕べは夕紀が桜木に問うたが、彼は終点の八瀬駅まで見送ってなおもその答えに窮していた。そんな奴が、そう簡単にこの訪問の意味を知るわけがない。

「お陰で今日はあの本が全部売れちゃった」

 夕紀は取り敢えずこの一件が完遂したと報告する。そうかやっと一段落したかといつものように桜木は砂糖なしで紅茶を飲み始める。

「それにしても解りにくい関係の二人だった」

「そうかしら至って解りやすい二人だと思っているのに」

 と何処どこが解りにくいのか訊ずねても、桜木は返事に困っている。すると夕紀は一般論からすると、女は子供を産み育てることを考えるが、男はそれより自分は何をしたいのか考える。その接点の中でお互いがこの人と居れば、と先ず考えるところから愛ははぐくまれる。

「失踪した後もその想いが持続していたと考えれば二人の取った行動に合点が行くでしょう」

「だから夕べも言ったようにそこが解らない。それならどうして道子さんは来てくれるかも知れないと謂う痕跡を残さなかったのだ」

「だから会いたいけれどその想いだけで生きられたのよ」

 そんな想いを抱えた人が、三千院から真っ直ぐ帰らずにちょっと寄り道をする。そのはずれ道に在るから、この店にやって来られると父は言っている。

 そう言えば最後に俺たちは滝川さんと一緒にあの店へ寄った。先ず入り口のカウベルからして牧歌的でなごましてくれる、と滝川さんはいたく気に入っていた。そしてあの絶妙にブレンドされた珈琲はあそこでしか味わえない、と遠い初恋に想いを託して居るようだった。

「あの珈琲はお父さんが五年も掛かって作り上げたのよ」

 父はあの場所で店を開くには、恋に疲れた女が浸れる味は何だろう、といつも試行錯誤して開店にこぎつけた。

「あのはずれ道で飲むから味わえるのよあの珈琲は」

「そうか」 

「そうよ、処で桜木君は三千院の山門は潜ったことがあるの?」

「ない」

 ウッソーと美紀が感嘆の声を上げ「それはないでしょう。如何どうして行かないの」と続けた。

「あの寺院は本やネットでよく知ってるから第一に市内から遠すぎて半日も潰せないよ」

 日がな一日あそこは終日ひねもすように佇める。だから恋に疲れた旅の人が寄り道するらしい。それで桜木が、じゃあ二人の恋を知るためにも行くかとなった。

  

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