エピローグ
「ナーゼル・ジローの所持品だ」
霊安室から出たリシャルトを待っていたのは、独房の清掃を終えた刑務官だった。
「執行直前に本人が希望した。差し入れで貰ったものは差し入れしてくれた人に返してほしいと。これ、そうだろ?」
目に飛びこんできたのは、表紙の角に折れ目がついた酒の本と、ところどころ色落ちしている水色のノートと、手軽に買える黒いペン。
「はい。私がナーゼルにあげたものです」
両手で受け取ると、冷たい感触がリシャルトの腕を重くした。ナーゼルの小柄な体重が、書籍やノートになって戻された気がした。
遺品を渡しに来た刑務官と、リシャルトの補佐役を務めた刑務官が言葉を交わし、立ち去っていく。廊下に響く足音を聞きながらリシャルトは立ち尽くした。
「このまま帰宅だ。あしたも休み」
ディルがリシャルトの肩を叩き、横顔を覗きこんだ。
「帰ったら、酒を飲むのもいいんじゃないか? 無理にとは言わないが」
「酒、ですか。考えてみます」
返事をしつつ、リシャルトの目は書籍とノートに落ちたままだ。ディルも去るそぶりを見せない。廊下は静かになった。
「――不要なものだったでしょうか」
沈黙に背を押されて、リシャルトは口を開いた。
「ナーゼルは読み書きができなかったんです。それなのに、こんなものをあげても意味なかったですよね。だから、食べ物を差し入れるようにしたんです。ナーゼルはしつこく『酒じゃないの?』と残念がっていました。酒のつまみなら渡せると言ったら、しょっぱいナッツがいいと言うんです。チーズは一度も欲しがりませんでした」
ディルの視線が下がる。横目でいったん宙を見やったあと、ふたたび後輩の横顔に戻った。
「あのな、よく見てみろ」
ディルは書籍を下から軽く押し上げた。端を曲げて、書籍の上にあるノートだけを浮かせる。
「ノート。横から見てみろ。手垢がついてる。使ってた証拠だろ」
はっとしてリシャルトはノートに触れた。「手垢」とディルが評した汚れに親指をあてがい、最後のページからパラパラと落としていく。
すべてのページが埋まっていた。拙い文字と、絵だ。一瞬では文字を読み取れなかったが、絵は植物や家、あるいは人を描いたものが見えた。
「文字の練習か? 飽きてきたら落書き、ってところか」
「……そうですね」
表紙まで辿り着く。今度は一ページ目から順にめくった。
たどたどしい文字で名前が書いてある。『ナーゼル』と『ランドル』。最初の数ページはこの二つの名前しか書かれていない。なかには活字を真似したようなものもあって、書籍で同じ字を見つけて写し取ったのだとリシャルトは思った。
二つの名前が続いたあと、『ランドル』の文字と、顔が現れた。
おそらくは似顔絵だ。ランドルを描いた似顔絵。写真のようになるべく実物を再現したかったのだとわかる描き方だった。
下手ではない、とリシャルトの目には映る。少なくとも一生懸命に描いたのはあきらかだ。
女の子の絵もあった。倍の背丈がある男と並んで、笑顔で立っている。男のほうはランドルだろう。さきほど見たのと同じ顔だ。では女の子のほうは誰なのか。
考えはじめてすぐ、思い当たった。
「――リッタ?」
「ん?」
「いや、この女の子、たぶん、ナーゼルが子守をしていた子じゃないかと」
「ほう?」
次のページをめくったとき、リシャルトは硬直した。
「おっと」
ディルが励ますようにリシャルトの背中を叩く。
途中まで書いて、間違った字を書いて、塗りつぶして直し、最終的に書きあげた。そんな形跡からリシャルトは目が離せなくなった。
『リシャルト』
いくつもの『リシャルト』。ぎこちない線から始まって、しだいに迷いが消えていく過程が見て取れる。
似顔絵もあった。制帽をかぶった無表情と、ちょっとだけ笑っている顔。縦に遮る線は、おそらく独房の鉄格子。それらの絵のあとに、活字を模した『リシャルト』も現れた。
割かれているのはほんの数ページだったが、余白はほとんどない。
「どうして……」
教えなかった。
教えるとは言ったが、結局リシャルトは自分の名前をどう書くか、ナーゼルに教えなかった。
ディルが両手を腰に当てて、わずかに上を向く。
「そういえば――リシャルトの綴りを教えてほしいって言われたから、手帳に書いて見せてやったことがあるな」
リシャルトが振り向くと、ディルは苦笑した。
「暇つぶしに知りたいだけ、恥ずかしいから内緒にしてくれって言われてよ。まあ特に重要じゃないし、黙ってた。俺の名前も見せてやったんだが、あのやろう、俺のは書き写さなかったんだ。やつが言うには――」
ディルが横目で白いドアを見る。
「顔も性格もまったく似てないのに、おまえは同じ空気を持ってるんだとさ。やつの兄貴と」
聞いたとたんに力が抜けた。全身に詰まっていた氷が一気に溶けて、押し流されるように足元がぐらついた。
ついさっき、小柄な体をストレッチャーで運んだ。その重みはまだ腕に残っているし、感じた体温も消えるどころか深くなっている。
移民の子じゃなかったら、と問いかけてきた声も薄れてくれない。あの声の硬さは、リシャルトが初めて聞くナーゼルの心だった。
リシャルトの口から長い溜息がこぼれた。吐ききらないうちに腰も一緒に落ちていく。ノートを額に押し当ててしゃがみこんだ。
「おい、リシャルト」
「すこしだけ、いいですか」
「なんだ」
「本音を言ってもいいですか」
「いいに決まってる」
リシャルトの背中が揺れる。うつむいたまま息を深く吸いこみ、ひといきに吐き出した。
「私は、ナーゼル・ジローという人間と対話をしました。明るくておおらかで、真面目な人間だと思いました。もっと優しくて公平な場所が彼を受け入れていたなら、たぶん彼はここに来なかった。まっとうに生きて死ぬことができた。そういう機会を奪ったのは誰なんでしょう。彼の家族ですか? 心ない人たちですか? この国ですか? きっと全部です。すべてが積もり積もって、彼を追い詰めたのだと思ったんです。ナーゼルを追い詰めたもの全部に腹が立ったし、ナーゼルの境遇が悲しくなりました。それを同情と呼ぶのなら、同情することのなにがいけないのでしょうか」
ディルが腰を屈めた。リシャルトの顔を横から覗きこむ。
「立てるか、リシャルト刑務官」
「答えてください」
「忘れるな。俺たちは、罪のない人間を死なせる殺人者じゃない。ナーゼル・ジローは人を殺した」
「わかってます。私は法に守られ、法を守って生きる人間です。ナーゼルは違った。違いはそれだけかもしれません」
だってそうでしょう、とリシャルトは声を震わせ、さらに深くうなだれる。
「ナーゼルは法を頼ることができなかった。この国で生まれてこの国で育ったのに、不法滞在者だったんです。それはナーゼルの罪ですか? そんなどうにもできないことで捕まるのも、生まれ育った国を追い出されるのも、私なら納得できません。だからナーゼルは、たったひとりの肉親を奪われたとき、自分で解決しようとしたんですよ。この国の法律は、自分に味方してくれないと知っていたから」
リシャルトが黙ると、奇妙な気配が廊下に満ちた。
今しがたドアの向こうに押しやった亡骸のあるじがこっそり聞き耳をたてているような、薄ら寒い静寂が漂う。リシャルトは目をつむった。
「やつは人を殺すべきじゃなかった」
ディルが溜息をつく。もうどうしようもないと言いたげな声だ。
そのとおりだと思う一方で、リシャルトは思い出す。ナーゼルは言ったのだ。『おれは選んだ』と。
「たぶん諦めたんです。復讐してもしなくても、幸せになれないのは同じなんだと。だったらせめて、お兄さんの味方を貫きたかったんだと思います。誰もナーゼルの話を信じない。彼の証言は肯定されない。あの兄弟の味方は、お互いだけだった。犯罪は悪です。罪には罰があってしかるべきです。ですが私は、犯罪者だから悪人だとは思いません」
ディルがリシャルトの腕を引っ張り上げた。書籍とノートで作られていた壁を壊し、現れた後輩の顔を注意深く観察する。
「すみません。言いたかっただけです。聞いてくれてありがとうございました」
リシャルトは口角を上げた。無理やり浮かべた笑顔には、疲労の色が濃い。
「勝手に終わらせてんじゃねえよ。いいか、人間は間違える生き物だ。そんな人間が作った法律や制度が絶対的に正しいなんてことはない。たとえばおまえのじいさんも、本当に無実だったかもしれない」
リシャルトは息を詰めた。祖父の話はしたことがない。この先輩はいつから知っていたのだろう。
「あってはならないことが起こりうる。そこに直面した人間を、俺らの立場で救い出すことは難しい。それでも、訴えを信じてくれる誰かがひとりでもいれば、それだけで解決することもある。俺はそう信じてる。だが引きずるのはだめだ。自分のためにな」
反論する言葉は出てこなかった。
まだ気分は塞いでいるが、リシャルトは「はい」と返事をした。
「失踪だけはするなよ」
「しませんよ」
「ゆっくり休むんだぞ」
「わかってます」
揃わない足音が廊下に響く。人がいた気配はしばらく残り、やがて完全に消えた。
〈了〉
私があげた毒杯と、もらった嘘について 晴見 紘衣 @ha-rumi
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