リシャルトの手記 ③

『衝動的で、短慮な性格』


 彼に関するこの評価は誤りだと思う。

 少なくともナーゼルは事件を起こすまで、マリケやエトに反撃しなかった。じっと耐えていたというよりは、「自分がうまくできなかったせいだから」と受け入れ、やり過ごしていたように思う。


 もうひとつ。


 ナーゼルは「敬語が苦手」だと私に言った。これは嘘だ。彼はラウ家の人たちに敬語で接していた。年下のエトにも敬語だったと、調書に書かれている。


 ナーゼル・ジローは嘘つきだ。


 けれどその嘘は、私に対してだけだったかもしれない。ほかの刑務官には敬語だったのだから。


 おそらく「苦手」とういうより、「嫌い」だから使いたくなかった。――なぜ、私にだけ? 尋ねる機会は何度もあったのに、私は怠った。


 ナーゼルがラウ家で敬語を使わない相手は兄ランドルだけだっただろう。


 ランドル・ジローは二十歳でこの世を去っている。死因は交通事故。ラウの事務所から徒歩で帰宅する途中の事故だった。

 

「三日も帰ってこなかった。トーンさんも帰らなかった。ラウさんにきいたら、仕事が終わらないからトーンさんを手伝ってるって。そしたらトーンさんだけ帰ってきて、兄ちゃんは先に帰ったはずだって言って」


 ナーゼルは苦しそうな顔をしたあと、無理やりのように笑みを浮かべた。膝の上では握り拳を作っていた。

 

「兄ちゃんの体は傷だらけだった。信じられなかった」


 いったん言葉が途切れた。宙を睨みつけながら、懸命になにかをこらえているようだった。

 

「なにも知らなかった。おれは、バカだから。信じたんだ。ラウさんがいい人だって。トーンさんが兄ちゃんの友達だって。疑わなかった。ラウさんは兄ちゃんの葬式をあげてくれて、おれは倒れそうになってて、そしたらトーンさんが肩を抱いてくれた。ありがたかった。ほんとに、あのときはそう思った。おれは、バカなおれに腹が立つ」


 弱い笑みを浮かべたあと、泣きそうな顔になり、声を震わせたかと思うと、瞳に怒りの色をともす。そんな複雑な表情をナーゼルは見せた。


「ラウとトーンがお兄さんの死に関わっていると思ってるのか?」


 ナーゼルは険しい顔で私を見上げ、すぐにフッと力を抜いて笑った。

 

「思ってる、じゃなくて、事実だ」


 ラウの息子、トーン・ホルテルは、詐欺集団に加わっていた男と知り合いだった。その知り合いというのがジロー兄弟を使いっ走りにしていた人物だ。


 ランドルは、自分よりひとつ年下のトーンと親しくなった。その当時、ナーゼルを置いて二人で連れ立つことがたびたびあったという。


 ジロー兄弟を心配したトーンが父に相談し、父ラウの介入でジロー兄弟は詐欺集団から離れることができた。


 詐欺集団が逮捕されたときジロー兄弟が巻きこまれなかったのは、ラウとトーンのおかげだった。恩人なのだ。この恩をランドルはとても真摯に受け止めていたらしい。

 

「神さまみたいな人たちだから、ラウさんたちの役に立たなきゃって兄ちゃんは言ってた。おれも同じ気持ちだった。ラウさんたちがいると、マリケさんの折檻もないし、エトくんが乱暴してきてもエトくんを叱ってくれるんだ。だからラウさんもトーンさんも、好きだったよ。ラウさんたちと一緒に外で働いてた兄ちゃんがどんなつらい目にあってたかなんて知らなかったからね」


「それを知ったから、殺したのか?」


「そうだよ。だって、おれ以外の誰が兄ちゃんを弔えるの? おれは兄ちゃんにとって人質だったんだ。おれがいるから兄ちゃんは逃げられなかった」


 警察に相談しなかったのか、という言葉を引っ込めた。ナーゼルは不法滞在者だ。発覚したら逮捕される。そんな状態ではラウとトーンを訴えることなどできない。


 ランドルがラウたちに搾取されていたことをナーゼルが知ったのは、ラウの事務所で清掃の仕事をするようになってからだった。ラウとトーンの会話をドア越しに聞いてしまったのだという。


 ランドルは特別な客に「貸し出されていた」らしい。しだいにランドルは指示を拒むようになり、ラウとトーンは「しつけ」をした。「うっかり死んでしまった」兄のかわりに、弟に同じ仕事をさせようと話していたそうだ。


 このナーゼルの証言について、裁判では「そうした事実はない」と結論づけている。ランドルの死についても事件性は薄いとしている。


 ランドルの死の真相を探ることは私の仕事ではない。

 ナーゼルの言葉の真偽を確かめることも私の仕事ではない。


 私の仕事は死刑囚の生活を管理し、死刑囚が罪と向き合い、刑罰に納得して「その日」を迎えられるようにすること。


 だから私はナーゼルの言葉を否定しない。少なくとも、彼にとってはそれらが真実なのだ。彼の真実を否定していたら、対話など進まない。


 ひとつ思うことは、兄の死が凶行のきっかけであったとしても、凶行の背景ではないということ。


 幼いころから直面してきた理不尽と暴力と貧困とが、彼に鬱屈した力を溜め込ませた。すべては繋がっていて、人としての不当な扱いが積み重ねられた結果、彼は私の前に来てしまった。


 犯行の詳細をナーゼルは私に語らなかった。私も質問しなかった。

 ただ、後悔する気持ちは本当にないのか、とは尋ねた。

 ナーゼルは無言で頷いたあと、「あー、でも」と虚空を見つめた。

 

「トーンさんは、エトくんを盾にしたから」


 独り言のような声は、悲しそうでもあり、怒っているようでもあった。

 

「エトくんを傷つけるつもりはなかったんだ。ちゃんと回復してるって聞いて、ほっとした。マリケさんも、止めに入るから突き飛ばしちゃっただけなんだよ。ごめんって思ってる。特にエトくんは……あの日のことは忘れてほしいなあ……自分の兄ちゃんに身代わりにされそうになったなんて、あんまりでしょ――」

 



 

 

 私が刑務官になったとき、両親は喜んだ。

 ばかにしたやつらを見返してやれ、と言われた。これで潔白を証明できるな、とも。


 そうではない、と言いたかったが、うまく説明できなかった。


 見返すために刑務官になったのではない。「犯罪者の身内だから犯罪者」と後ろ指をさされたことを原動力にしたわけでもない。もっと前向きな、もっと隔絶した理由だ。幼少時より腹の底から抱いてきた疑問を解消するための選択だ。


 祖父の孤独と、両親の疲労と。

 私が気にかけたのはそれだけで、その他大勢の他人の目ではない。


 私が刑務官になってからの六年で執行された死刑は八件。生前の死刑囚と言葉を交わすことはあったが、彼らの「その日」に関わることはなかった。


 刑務官になって六年が経ち、初めて死刑執行の担当者になった。対象となる死刑囚はナーゼル・ジロー。


 補佐役として、ほかに二名の刑務官がついた。そのうちの一人がディル先輩だ。

 

「だから言っただろ」


 辞令を受けた直後、先輩は私を見て眉をひそめた。私はいったいどんな顔をしていたのだろうか。


 死刑囚に執行日を伝えるのは、前日と決まっている。ただし、どの刑務官が執行するのかまでは伝えない。


 ナーゼルに伝えたのは私ではない。どんな様子だったのか、私は知らない。知る手段はあったが、わざわざ確認することではない。


 当日、死刑囚を独房から連れ出すのは補佐役の務めだ。ナーゼルが教誨師と面会しているあいだ、私は刑場で準備を整えた。


 小さなテーブルと椅子。テーブルには空のショットグラスをひとつ。傍らにはワゴン。ワゴンの中には掌ほどの小瓶と、琥珀色の中瓶、予備のショットグラス、数枚のタオル。

 

「あんたか」


 私を見るなりナーゼルは目を見開いた。褐色の瞳が潤んだように見えた。

 

「座って」


 椅子を引いて促し、座らせた。ディル刑務官に手錠を外されたナーゼルは、ニヤッと笑って私を見上げた。

 

「おいしいといいなあ」

「甘いと聞いている」

「酒は辛口が好きなんだけど」

「酒もある。先に飲むといい」


 琥珀色の中瓶を持ち上げてみせた。「え」と口を開けたナーゼルの前で、私は説明しながら栓を開け、ショットグラスに近づけた。

 

「好みがわからなかったから適当に選んだ。というより、店員に選んでもらった。なんでもいいからきつい酒を、と」


 ナーゼルは犬か猫のように顔だけをグラスに近づけて、匂いをかいだ。


 死刑囚の好物を執行直前に刑務官が提供するのは、定められたことではないが、咎められることでもない。


 ナーゼルから好みの銘柄を聞き出せなかったため、店員に選んでもらうしかなかった。私が酒に詳しかったなら、自分で選んでいたのだが。

 

「なあ――」


 ナーゼルは体を起こし、戸惑いを含んだ目で私に笑いかけた。

 

「ひょっとして、おれが酒を持ってこい、なんて言ってたから?」

「そうだ」

「あー……」


 背もたれに体を預け、ナーゼルは天井を仰いだ。

 

「そっか。ありがとう。だけどこれは、おれが悪いな」


 仰のいたままのナーゼルが視線を私に向ける。申し訳なさそうな顔をしていた。

 

「酒が好きだと言ったのは嘘なんだ。酒好きだったのはおれじゃなくて、兄ちゃんだ。おれは兄ちゃんの真似をして、兄ちゃんのかわりに好きだと言ってただけなんだ」

「それなら、お兄さんのかわりに飲んでやれ」

「いや、いらない。おれは、おれだからね」


 ナーゼルは姿勢を戻した。

 深呼吸を一回。それから軽く視線を周囲に巡らせる。最後に私を見上げて、気軽な調子で注文した。

 

「甘いやつをちょうだい」


 私は予備のショットグラスをテーブルに置いた。グラスには目盛りがついている。そそぐ量は決められている。小瓶の中身を傾けた。

 

「飲んだらすぐに死ぬ?」

「いや。五分はかかる」

「苦しい?」

「まず意識が混濁する。だからそれほど苦しさを感じないはずだ」

「そっか」


 ナーゼルは毒杯を煽った。ためらわずに、一気に飲み干した。私の顔を見つめ、「カハハッ」と笑い声をあげた。

 

「あまいなあ! 砂糖を入れすぎじゃない?」

「砂糖は入ってない」

「体に悪い甘さだよ」


 ナーゼルの瞳が凪いだ。

 

「五分後には、おれはもういない。この世のどこにも。あんたの目の中からも。あんたはおれが最後におぼえた人間だ」


 ナーゼルは笑って片手を上げた。手を振ろうとしたのだろうが、不自然にそれは止まり、指先を握り込んで下ろした。


「おれが移民の子じゃなかったら、おれも刑務官になれたかな?」


 ナーゼルの唇は震えていた。震えながら笑っていた。問いかけには、答えられなかった。


「酒も飲んでいいんだ」

「飲んでほしい?」

「自由だ」

「なら、いらない」

「酒は好きじゃないのか?」

「そうだな。本当は嫌いだ」

「なら、なにが好きなんだ」

「なにもない」

「なにかあるだろう」

「なにも思いつかないんだから、なにもないんだよ」

「そうか。これは、私の失敗だな」

「おれの好物を用意できないことが失敗?」

「そうだ」

「しょうがないなあ。あんたの好物は?」

「チーズが好きだ。チーズならなんでも」

「気が合うね。おれの好物もチーズだ」

「嘘をつくな」


 ナーゼルは返事をしなかった。

 小柄で健やかな体を私は抱きとめた。床に直撃するのを見ていたくなかった。



 


 

 ――以上。

 ナーゼル・ジローについて書き残す事柄はもうない。

 これは記録だ。

 私が最初に手がけた殺人の記録。

 ただ、それだけだ。

 

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