リシャルトの手記 ②

 ナーゼル・ジロー。

 貧しい移民の子。


 親を失ってからは移民の滞在許可申請をせず、兄と一緒に違法就労を繰り返した。ほとんど無報酬に近いときもあれば、どうせなにをしても逃げ出さないと足元を見られて、暴力的に扱われたこともあったという。職種は建築現場、清掃人、農園での収穫作業、詐欺集団の使いっ走り。


 この詐欺集団からジロー兄弟を引き離した人物が、当時五十歳のラウ・ホルテル。ランドルが十八歳、ナーゼルが十六歳のときのことだ。

 

「ラウさんは、親切だった」


 ナーゼルはそこで言葉を切った。視線が私から外れ、灰色の床に向けられた。


 私の質問は単純だが曖昧なものだった。

 

『ラウ・ホルテルはどんな人物だったのか教えてほしい』


 経歴。人柄。容姿。家族や友人とのつきあい方。なにをどう答えるかはナーゼルに委ねた。


 ラウ・ホルテルをナーゼルは殺した。ラウの息子、トーンも殺した。トーンの妻マリケには軽傷を、ラウの末子で十三歳のエトには重傷を負わせている。


 このことについて語るのも、語らないのも、ナーゼルの自由だ。すでに裁判は終わっている。これは事情聴取ではない。ナーゼルが罪と向き合うための取っ掛かりを与えたかっただけだ。

 

「いい人だった」


 それだけを口にして、ナーゼルは笑った。そしてすぐに伏せた。


「きょうは眠いな」


 そう言うとベッドから腰を浮かせ、ゴロンと横になる。


 こういう態度を咎める刑務官もいるが、私は注意すらしない。座って話そうが寝転がって話そうが好きにすればいいのだ。それぐらいの自由は許されている。


 許されているものがあってこそ、罪と向き合うための精神を整えることができるのだと、教誨師が言っていた。


 枕元に書籍が見えた。書籍の下には水色のノートもあった。どちらも私が彼に贈ったもので、一緒にあげたペンも書籍の下に隠れているのだろうと察しをつけた。


 ソフトカバーの書籍はそこそこ厚みがあり、ノートも同じくらいの厚みがある。日記帳にでもしてくれればと思ったからだ。

 

「本は読み終えたか?」


 話題を振ると、ナーゼルは横たわったまま片手を上げた。

 

「わからない言葉がいっぱいだ」

「言葉の意味がわからないのか? 言葉が読めなくてわからないのか?」

「読めなくてわからない」

「どれがわからない?」

「いいよ。どうせつまらない本だ」

「酒の本だぞ。写真もいっぱい載ってる」

「読まなくたって知ってるから、いい」

「どんな酒が好きなんだ?」

「本じゃなくて本物を持ってきてくれる?」

「空き瓶でよければ。渡すことはできないが、匂いはかげるぞ」

「それじゃ拷問だ」

「読み書きができると言っていたじゃないか」

「そうだけど、自分の名前と兄ちゃんの名前しかわからない」

「だったら、私の名前も教えよう」

「いらない。おぼえない」

「それなら、ノートはどう使ってる?」

「らくがきしてるよ」

「絵が好きか?」

「べつに」

「あさっては酒瓶のラベルを持ってきてやる」

「あしたじゃないのか」

「あしたは休みなんだ」

「あー……」


 私は腕時計を確認した。規定の十五分はとっくに過ぎていた。


「時間だ。ノートは文字の練習に使うのもいいと思う」


 私が言い終わるのとほぼ同時に、ナーゼルが起き上がった。立て膝をして私に向けた顔は、不機嫌そうだった。

 

「おれに名前の書き方を教えてくれたのはラウさんだった」


 ぼそっと放たれた言葉を、私の耳はしっかり拾った。黙って続きを待った。


 独房のドアは上側が鉄格子になっていて、中にいる死刑囚と話すときにはこの窓越しでの会話となる。ベッドは独房の片側を占めている。狭い個室だから、ドア越しでもナーゼルはすぐ近くにいた。


 突然ナーゼルは歯を見せて笑った。体勢を直し、あぐらをかいて背筋を伸ばす。

 

「いい人だったんだよ。トーンさんとマリケさんの子供はまだ小さいんだけど、トーンさんもラウさんも同じ仕事だし、マリケさんも実家の仕事を手伝わなくちゃいけないから、三人とも昼間はいないんだ。だからおれが子守をして、兄ちゃんがラウさんの仕事を手伝うっていう条件で一緒に住まわせてもらった。掃除をしたり洗濯をしたり、エトくんと一緒に留守番したり。おれには給料じゃなくて小遣いしかくれなかったけど、ラウさんの家におれたちの部屋があったんだ。ごはんもラウさんたちと一緒に食べた。おいしかったよ。神さまみたいな人だなって思ってたんだ。――なあ、あんたは」


 ナーゼルが目を細めた。眩しいものでも見るように私を見上げた。

 

「あんたはどうして刑務官になったんだ」


 突然の話題転換に頭が追いつかず、即答できなかった。試験解答のように表向きの正義感を口にするべきかと考えた。そこに嘘はないが、すべてでもない。私は迷った。


 そのうちに気がついた。ナーゼルが私について質問するのは初めてだ。それなら正直に向き合おうと決めた。

 

「縁があると思ったからだ」

「なにそれ。どういうこと」

「私の祖父は、犯罪者だった」

「へえ」


 ナーゼルの瞳に興味の色が浮かんだ。

 

「おれとおんなじ?」

「いや、強盗罪で服役した。獄中で死んだが、病死だ」


 へえ、とナーゼルは小さく笑った。がっかりしたような様子に、言わなくてもいいことを口走っていた。

 

「祖父は、最後まで罪を認めなかったらしい」

「らしい? あとから知ったってこと?」

「そうじゃない。私は祖父に一度も会っていないんだ。両親が会わせてくれなかった」


 私の両親は身内に犯罪者がいることを恥じていた。だから祖父に会いに行かなかった。私は祖父の顔を知らない。写真すら見たことがない。


 だが、――ではなく、だからこそ、かもしれないが、想像していた。想像し、天秤にかけた。


 獄中で冤罪を訴え続け、遺体の引き取りも家族に拒まれ、葬儀屋によって共同墓地に埋葬された祖父の孤独と、「犯罪者を身内から出した」と親戚や知り合いから糾弾され、孤立を深めた両親の疲労とを。


 いったいどちらが重く、どちらが軽いのか。


 私が刑務官になったのは、答えが欲しかったからだ。孤独も、疲労も、それは仕方のないことだと諦めるしかないのか、それともなにかが間違っていたのか。

 

 あるいはただ、祖父に会いたかっただけかもしれない。祖父の名残に触れたかった。

 

「あんたのじいさんも、孫に会いたかっただろうな」

「そうだろうか」

「さあね。わかるわけないさ」

「私もわからない」

「あんたは……」


 ナーゼルは目元を緩め、唇を閉じ、鼻から息を吹いて笑った。なにかしらの言葉を飲みこんだのはわかったが、それがどんな言葉なのか推測できなかった。

 

「ラベルなんていらないよ。拷問だからな」

「そうか。なにが欲しい?」

「本物の酒! なんでもいいから、きっついやつ!」

「酒類は持ち込みも差し入れもできない」

「知ってるよ! もういいから、とっとと消えろ!」


 ナーゼルは大きな声を出したが、顔は笑っていた。鉄柵の向こう側で鎮座する姿は暗がりにあってもなお、健やかに見えた。



 


 

 死刑の方法は、昔は首吊りだった。

 もっと昔は首切りだった。

 今は毒を飲ませる。刑務官が三人で取り囲み、劇薬の入った飲料を死刑囚に渡すのだ。


 これはつまり、自殺の強要だ。


 たとえ相手が若く、なんの病気も患っていない、怪我もしていない健康な体であっても、「今すぐ毒に侵されろ」と強要するのが私の仕事だ。


 自殺の強要は数ある殺人方法のうちのひとつだから、私は人殺しだ。合法であろうと、やっていることは人殺しなのだ。死刑囚が劇薬を拒んだ場合は銃殺となる。それも、人殺しだ。


 罪を犯した者に罰が下されるのは道理だから、「殺人罪は死刑」というこの国の法律に反対はしない。反対はしないが、絶対にそれが正しいとも思えない。


 世間では、死刑を廃止するべきか否かが論争されている。現役の刑務官である私がそれに加わることはないが、関心はある。


 犯人が死んでこそ被害者も遺族も納得できるのだという主張。死刑は野蛮で残虐であり、暴力に暴力を返すのは幼稚で前時代的だという主張。


 結論がどちらに傾くのかはわからないが、もしも死刑が廃止になるのなら、その理由の第一は、刑務官の負担軽減であってもいいと思う。


 私は私の感情を記さない。だが、意見は残しておく。



 

 

 

 ラウの家での暮らしがどんなものであったか。

 端的に言うと二人は差別されていた。食事の時間はラウ家と一緒だが、同じ食卓に着くことはなく、食事の量もジロー兄弟だけは少なかった。

 

「腐ってないから、ちゃんと食べられるやつだから文句なんてなかったよ。それに兄ちゃんが夜食を買ってきてくれるから、それが楽しみだった」


 何日もかけて、ナーゼルはラウ家について断片的に語った。

 

「ラウさんはお金持ちだからさ。おれたちは下男として雇われたんだ。おれは家のほうで、兄ちゃんは事務所のほうの下働きだよ。掃除も洗濯も時間どおりに終わらせないといけないんだ。できないと折檻される」


 料理だけはラウの義理の娘マリケが作っていた。具を取り除かれたスープでも「味はしみてるからおいしかった」そうだ。


 折檻をしてくるのはマリケだけだったが、義姉の振る舞いをエトも真似した。エトの場合は特に理由もなく、遊び半分でナーゼルを襲った。


 マリケやエトから受けた暴力について、詳しいことをナーゼルは私に語っていない。


 裁判を受ける前に彼が告白した内容では、叩かれたり、転ばされたり、庭にいる彼を狙って窓から物を落とされたり、体臭を指摘されて何度も謝罪を要求されたり――調書を読んで知っていたが、ナーゼルに直接の確認はしなかった。


 話題がそこに及びそうになると、ナーゼルは困ったように笑って、「痛かったり、つらかったりしたこともある」と濁した。

 

「でもリッタの面倒を見るのは好きだった」


 マリケとトーンの娘について話すとき、ナーゼルは柔らかい表情をした。

 

「動きまわるから目が離せなくてたいへんだったけど、抱っこしてて寝ちゃうと、おれがこの子を守ってるんだって気持ちになった」


 リッタがいかに可愛いかを語りはじめたナーゼルは、ふいに話をやめた。笑顔が沈みこんで目線を下げる。固く閉じた袋の紐をほどくように溜息をつき、小さな声で言った。

 

「リッタには、ごめんって思ってる。リッタのお父さんを、お父さんとおじいちゃんを、奪っちゃった」


 ナーゼルは口を噤んだ。


 この日以降、彼は何度か「悪いことをした」と罪の意識を口にしたが、リッタとエト、マリケに対してのみだった。ラウとトーンを殺害したことに関しては、一貫して反省も後悔も見せなかった。

 

「感謝してる部分はある。でも謝ることはない。おれは、おれがやったことに納得してる。死刑も納得してる。だって、おれもそれをやったんだから」

「殺さなければ、リッタに悪いと思うこともなかったんじゃないか? そこは後悔するところじゃないのか」

「そうだね。だから、おれは選んだってことなんだよ」


 ナーゼルはほんの少し蔑むような笑い方をした。


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