リシャルトの手記 ①

 私は私の感情を記さない。

 この手記は個人的なもので、他人の目に触れる機会は私の死後にしかないだろう。私が残したいのは私の感情ではなく、ありのままの出来事だけだ。だから事実のみを記録する。

 

 死刑囚ナーゼル・ジローはよく笑った。たとえ語る内容が明るくなくても、彼は笑顔を忘れなかった。過去を語るときには虚空を見つめ、それ以外は私と目を合わせた。褐色の瞳には絶望でも諦観でもなく、肩の荷を下ろしたような光があった。

 

 二人の男性を殺害し、女性一人と未成年男子一人にも重軽傷を負わせた凶悪犯。正当なる裁判の末に、ナーゼル・ジローは死刑囚となった。

 

 私は刑務官として、彼が死罪を全うするまでの一切を管理した。この国の刑務官は死刑執行も担当するが、私が彼と初めて顔を合わせたときには、まだ誰が彼の死刑を執り行うか決まっていなかった。


 二年四ヶ月と十九日。

 それが、ナーゼルと関わった時間だ。

 





 最初は口数が少なかった。


 死刑囚は基本的に独房から出さない。世間から隔離し、ほかの囚人とも交流を持たせない。静かに反省し、祈り、おのれの罪と対峙し、刑罰に納得する。そのための孤独の時間を与えることになっている。

 

 近親者ならば面会できる。差し入れも可能だ。だがナーゼルには身内がいなかった。彼の話し相手は教誨師と、私と、数人の刑務官だけだった。

 

 二十一歳という年齢のわりには小柄な体を独房に押し込めると、ナーゼルは足元に目を落とした。背後にいた私には、そのときの彼の表情は見えなかった。


 ナーゼルはすぐに痩せた背中をピンと張って、周囲をきょろきょろと見回した。


 ベッドと洗面台とトイレ。パッと目につくのがそれだけしかない狭い個室。ここが彼の終の住処だ。

 

 短く刈った黒髪に、彫りの浅い顔立ち。背が低く、痩せてもいるが、健康状態に問題はない。問題があるとすれば精神面だと私は思っていた。この男はきっと未熟なのだろうと。

 

『衝動的で、短慮な性格』


 調書に書いてあるこの言葉を、注意事項として頭に入れていた。


 実際のナーゼルは無口で、こちらから話しかけないとなにも話さない。初日は挨拶と説明だけで終わった。

 

 翌朝、よく眠れたかと尋ねたら、ナーゼルは弱り切ったような溜息と同時に笑みを浮かべた。無口だが、無愛想ではない。

 

「悪夢ばっかり見て、寝たんだか寝てないんだか、よくわかんないです」

「どんな悪夢を?」


 ナーゼルは決まり悪そうに視線をそらした。

 

「あー……酒。飲みたいのに飲めないっていう……」

「酒が好きなのか」


 初耳だった。調書には書かれていない。飲酒は十八歳から合法となるが、彼は何歳から飲んでいたのだろうと、すこし気になった。

 

「はい、あー、あの、刑務官さまは、何歳ですか?」

「二十四歳で、名前はリシャルト。偉ぶるつもりはないから、名前で呼んでくれ」

「あ、同じくらいかと思ったんだけど、ちょっと上だった。あの、名前では呼びません。あんた、って呼びます。いまさら誰のこともおぼえたくないんで」

「わかった。それでかまわない」


 ナーゼルは目を大きくして、それから口角を上げた。

 

「それじゃあ、敬語もやめていいですかね? 苦手で、話しづらくって」

「好きにしていい」

「そりゃよかった」


 ナーゼルは笑った。今度はもっと緩んだ笑い方だった。


 同じくらいの年齢かと思った、とナーゼルは言ったが、誰と、とは言わなかった。単純にナーゼル自身と私が同年齢だと思った、という意味に聞こえたのだが、そうではなかったことをのちに知った。


 彼には二つ年上の兄がいる。その兄と私とを比較していたのだ。

 

 ――兄がいた、と言うべきだろうか。ナーゼルが事件を起こしたとき、すでに彼の兄はこの世を去っていた。


 ランドル・ジローとナーゼル・ジロー。


 貧しい移民の子。両親がこの国に来てから生まれ、取り残された兄弟。ランドルが九歳、ナーゼルが七歳のときに彼らの親は亡くなった。

 

「両親のこと? あんまりおぼえてないけど、兄ちゃんが真っ青な顔してたのは、よーくおぼえてる」


 親を亡くした当時のことをナーゼルが語ったのは一度きりだ。私が一度しか尋ねなかったからだが。

 

「川に落ちて死んだって。母ちゃんか、父ちゃんか、どっちだっけなあ……どっちかが先に落っこちて、それを助けようと飛びこんで、結局どっちも死んじゃったらしい」


 遺体は見ていない、と告げたあと、ナーゼルは笑い声をたてた。

 

「きのうまでいたのに、きょうからもういませんってね。なにが起こってるのかさっぱりで、でも兄ちゃんがいたから、あんまり悲しくもなくて。ただまあ……そっからがたいへんだったなあ」


 この国は移民に対して、二年間は経済的援助を施す。だがナーゼルの両親はすでに十年以上もこの国にいた。とっくに支援は打ち切られており、自力で生活するしかない。


 移民は職を得づらい。言語や宗教といった文化の違いが立ちはだかるし、もし雇った移民が不法滞在者だと発覚した場合、知らずに雇った側も罪に問われる。だから敬遠されやすい。


 就労先が見つからなければ、違法な職場に行き着いてしまう。ナーゼルの両親も違法雇用された低賃金労働者だった。ただし滞在許可の手続きを怠らなかったため、不法滞在者ではない。この場合は雇用主だけが罰則の対象だ。


 その親を亡くした。ただでさえ困窮していた兄弟の未来が明るくなるかどうかは、周囲の協力にかかっていた。

 

「十八歳未満で保護者がいない場合は移民でも支援を受けられる。申請したか?」

「それはあとで知ったよ。ダンさんが教えてくれて、かわりにやってやるって。手続きにお金が必要だって言うから、兄ちゃんが渡した。しばらくして、金額がまちがってた、足りないって言われて、また渡して。受理されたけど今度はなんちゃらかんちゃらっていう申請が必要だからまた金を出せって。なあ、あんた、どう思う?」


 ナーゼルはニヤニヤと笑っていた。


 ダンというのは、両親の知り合いだったという男だ。親を亡くしたナーゼルたちをいっとき家に住まわせた。ところがダンの妻は承諾していなかったようで、ナーゼルたちを手酷く扱った。

 

『食事は残飯――っていうか、おれたちは生ゴミ処理係だよ。腐ってた』


 と、笑いながらナーゼルは語っていた。結局、兄弟はみずからその家を出た。


 ダンは二人に謝罪し、倒壊寸前の空き家を当面の住まいとして案内してやり、さらに働き口も見つけてやった。子供を長時間労働に駆り立てる、違法な職場だ。それでも給料は貰えていた。


 みなしごの兄弟を助けようとしているように見えるが、ダンに利己心があったのだということは疑いようがない。

 

「移民の滞在許可申請ならお金がかかるが、孤児の支援申請にお金はかからない。騙されたんだな」

「そう! それよ! さすがだねえ」


 期待どおりの回答がさも嬉しいと言わんばかりにナーゼルは膝を叩いた。


 ――この話をしたときの場所は独房ではなく、屋上だ。死刑囚は月に三回だけ、屋上で体を動かせる。周囲には高い柵が張り巡らされ、ほかの囚人はいない。


 ナーゼルは走ったり、適当に踊ったり、私とボールを投げ合ったりしたあと、「疲れた」と言って地面に座りこんだ。額にうっすら汗を浮かべて息を荒くしている姿は、窓のない独房で見る姿よりも数倍は活力に満ちていた。

 

「おれたちはバカだったからさ。でも兄ちゃんは途中から怪しんで、ダンさんに給料を渡したあと、おれに言ったんだ。ダンさんのあとをつけろって。だから仕事を抜け出してこっそりついていった。ダンさんはおれたちが渡した金でメシを食ってたよ」

「何歳のとき?」

「いくつだっけ? たぶん――おれが十二かな?」

「それで、どうしたんだ」

「兄ちゃんに報告した。次にダンさんが来たとき、兄ちゃんは断った。申請はしないからって。そう言ったからにはそうしないとね」


 ナーゼルがこれほど饒舌に話すようになるまで、半年はかかった。それまでは本当に寡黙だったし、教誨師に対しても同様だったらしい。


 教誨師との面会は通常、週に一回とされている。だが三回目が終わったときに、ナーゼルは要望を出した。

 

『話し相手は刑務官さまでじゅうぶんだからあの人は来なくていい』


 最終的に、教誨師との面会は半年に一回となった。


 その一方で刑務官と打ち解けていったのだが、どうやらナーゼルの口数が最も多くなる相手は私のようだと、ほかの刑務官と情報を共有してわかった。


 どうしてなのか。


 いずれ本人に理由をきいてみようと思っているうちに時が過ぎ、ついに機会を失ってしまった。


 もっとも、先輩のディル刑務官とは当時こんな話をした。

 

「年齢が近いからじゃないか?」


 二十代の刑務官は私しかいない。次に若いのが三十四歳で、ベテランのディル刑務官は四十六歳。それ以外の刑務官もほとんど三十代か四十代で、一番の年長が五十二歳だ。

 

「友達みたいに思ってんのかもなあ」

「どうでしょうか。先日、ナーゼルが言っていました。兄が生きていたら私ぐらいの年齢になっていたはず、と」

「兄みたいに思ってるって?」

「それもどうでしょうか。兄への思慕を口にしたに過ぎないのでは」

「おまえは淡泊だねえ」


 ディル刑務官は呆れたように笑った。それから声の調子を落とし、口元だけに笑みを漂わせた。目は、鋭く私を刺した。

 

「そのわりにはよ、十五分以内っていう面談時間を過ぎても話し込んでるよな? あんまり入れ込むなよ」

「ナーゼルは口が重いですが、いったん興が乗ると話が止まらないんです」

「やつのせいにすんじゃねえよ。おまえの話だ」


 ディル刑務官の声は恐ろしいほど真剣だった。

 

「死刑囚の言葉に耳を傾けすぎるな。その言葉が真実だとは限らない。同情をするな。たとえ自分の中で揺れるものがあったとしても、突き放せ。でないと自分が壊れる。毎日のように顔を合わせた死刑囚の「その日」を担当したあと、失踪した刑務官は少なくないんだ」


 失踪。

 その内訳は、精神病棟行きか、あるいは自殺か。真相はわからぬまでも、先輩の言いたいことはわかった。

 

「失踪なんてしませんよ」

「ま、おまえが担当になるかはまだわかんないけどな」


 自分で重くした空気を吹き飛ばそうとするように、ディル刑務官は高めの声を出した。


 結果的に、ナーゼルの「その日」を担当したのは私だ。辞令を受けたのは執行日のひと月前だった。


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