Act.9

 腕の中の温もりに、引き上げられるように目を開けた。二度、三度、瞬きをして、焦点を合わせる。昴の目の前に、瞼を下ろしたクロセの顔があった。体の下には、枯れた芝生。互いを抱え合ったまま、冬枯れた庭園の片隅に転がっていた。

「クロセ!」

 呼びかけると、閉ざされた瞼が、かすかに動いた。ゆっくりとひらき、夜空の瞳が覗く。昴は、ほっと息をつき、それから、はっとして言った。

「クロセ! 大丈夫か⁉ 怪我は……っ」

「……大丈夫だ」

 昴の勢いに、クロセはいささか驚いたように瞬きをして、

「お前こそ、無事なのか……?」

 食い入るように、昴を見上げた。

「俺は平気だ。見てのとおり、頑丈だからな」

 擦り傷のできた頬を笑みの形に緩めて、昴は大きく頷いてみせた。

 抱きしめていた腕を解き、体を起こす。

 屋敷は跡形もなく崩れ、瓦礫の山を炎が包んでいた。悲鳴も呻き声もなく、ただ火の粉のぜる音だけが響いていた。中にいた人間は、全員、死んだのか。何人、脱出できたのだろう。燃え盛る炎に、昴は、そっと目を伏せた。これでは、身元の確認はおろか遺体の回収さえ難しいだろう。家族のもとへ帰ることのできる亡骸が、いったい、どれだけあるのか……。

 それから、ふたり、何も言わずに、少しのあいだ、互いの肩にもたれ合って座っていた。

「そういえば、クロセ」

 言葉が見つからない沈黙に区切りをつけるために、努めて明るく軽い口調で、昴が話しかけた。

「なんだ?」

 クロセが軽く首を傾けて振り向く。

「お前、よく無事だったな。三階から落ちたのに」

「ああ……」

 ナイフの男のことを思い出したのだろう、クロセは僅かに眉根を寄せて、

「ちょうど二階部分に張り出したテラスがあって、そこに落ちたんだ。さすがに、まともに三階から落ちていたら危なかった」

「そうか。それはラッキーだったな。命拾いだ」

「……命拾い……」

「そうだよ。俺も……あのとき、お前が来てくれたおかげで助かった。ありがとな」

 心からの笑顔を、昴はクロセに向ける。

「……俺のほうこそ」

 ありがとう、と続いたクロセの言葉が、雪のひとひらのように、そっと舞った。

「クロセ」

 すっと、昴が静かに立ち上がる。クロセに手を差し伸べて、

「選んでくれ」

 優しく、それでいて凛と確かな意志を宿した微笑をたたえて、

「このまま《運搬人ポータ》の車に戻るか、それとも、俺と一緒に、あの橋を越えるか」

 昴の向こうに、ここへ来るときに望んだ大きな橋があった。東の果て。知らない街へと続く橋。

「お前が、どちらを選んでも、俺は、お前の傍にいる」

 お前が、俺を、望んでくれる限り。

「……シラハ」

 クロセの瞳が揺れる。その深黒に、星のような、光が灯る。

 昴を見上げて、見つめて。

「俺は……お前と行きたい」


――お前と、生きたい。


 伸ばされた手を、強く握った。固く、かたく、結び合った。

 クロセの手は、今も、冷たい。けれど、それでもいい。温めるから。ずっと、温めつづけるから、離さないでくれ。

 ふたりで肩を並べて、橋に向かって歩き出す。東へ。陽の昇るほうへ。

 朝はまだ遠く、世界は冷えていた。けれど雪は止んでいて、吹く風は、かすかに、春の匂いがした。

「知らない街に着いたら、何をする?」

「そうだな……お前さえ良ければ、一緒にカフェをしよう。朝に店を開けて、夜に閉める。昼間に働くんだ」

「……良いな。名物は野菜のパンか」

「ああ。健康第一だ」

 それから……と昴は、クロセを振り返って、微笑む。

「店先には、たくさんの花を植えよう」

「花……?」

 昴を見上げ、クロセは瞬きをする。

 昴は大きく頷いた。

「花は、陽の光を浴びて、育つものだからさ」

 温かな光と、優しい水を与えて、育てていくものだからさ。

「……そうか」

 ふわり、と、クロセの頬が、かすかに綻んだ。

「シラハ」

 まっすぐに、昴を見つめて、

「花は、俺に育てさせてくれ」

 クロセの笑顔が、ひらく。春の風に、花弁が、ひとひら舞うような微笑だった。

「もちろん」

 頷いて、昴は繋いだクロセの手を、強く、つよく、握った。


 東に架かる橋へと、歩いていく。

 着く頃には夜明けを迎え、融けた雪は橋を濡らし、雫は朝陽を浴びて輝くだろう。

 その橋を、ふたりで渡っていくのだ。

 朝の光の中へ。


 一緒に、笑顔を、咲かせて。

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Flutter In Dawn ソラノリル @frosty_wing

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