岸本さんのこと
夏野けい/笹原千波
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視線は向けないまま、気まぐれな感じで。恋人みたいに指を絡めてみたり、表面を撫でたり。ほどほどに日に焼けた肌とピンク色の爪は、樹脂製の骨との対比でとてもみずみずしく見えた。顕微鏡の順番を待っているというより、わざと時間を浮かせているような雰囲気だった。
彼女は隣の班だけど実験机から離れて壁際に立っている。近すぎないせいで安心して観察してしまう。遠すぎないせいで動きがいちいちわかってしまう。
「
授業が終わって教室に帰る途中、
「つい」
「あんなにじっと見てたらさ」
「私みたいなのは眼中にないでしょ」
「わかんないじゃん。私といるのがすでにリスクなんだし」
入学式の日、私が高校入学組だと勘違いして声をかけてきた郁は、素朴で壁のない子だった。困り眉がばっちり出る短い前髪に、ちょこんとしたふたつ結び。快活な口調でテニス部に入るつもりだと話していた。やめておけとは言えなかった。そのくらい私たちは他人だった。
十一月の廊下の空気はもう冬の匂いがする。初めて言葉を交わしてからの七カ月は短くて長い。私は郁を友達と呼ぶことにためらいがなくなった。郁は髪を伸ばし、部活を辞め、ほの暗い用心深さを手に入れた。
「気をつけるよ」
郁を怯えさせたくはない。それなのに、私の目は岸本瑠千愛に吸い寄せられる。怖いもの見たさ、だろうか。
ショートホームルームを待つ教室で、彼女は教卓に座っている。中央最前列の机に上履きの足を乗せて。机の持ち主である
けたたましい笑い声はいつものこと。岸本瑠千愛がスマートフォンを振りかざしながら何か言うたび、周りに集まる位の高い女子たちも悲鳴を上げて盛り上がる。昨日も年上の彼氏に何かもらったのだろうか。声が通るから、ちょっと意識すれば内容まで聞こえてしまう。聞かせようとしているのかと疑いたいくらいだ。
あぁ花束。ふぅん、ドライフラワーにね。
油断していたら、岸本瑠千愛が急に振り向いた。
表情の変化は小さかった。ととのった眉の片方を少し上げて、さくらんぼ色の唇にごく浅い笑みをつくる。たったそれだけで私の血は顔に集中する。恥ずかしい、怖い、いたたまれない。彼女と目が合うと、なぜか自分がとてつもなく無価値な人間に思える。
何秒もなかったはずだ。彼女はもう、私になんか関心を持っていない。話し声が耳にさわる。郁に手首を引かれて席につく。
先生が入ってくる。彼女が教卓を下りる。取り巻きたちが教室のあちこちに散らばっていく。霜田くんがこっそりと机を拭く。彼の机のわきに雑巾が掛かっているのはこのためなのだと思う。さいわい、彼の行動が咎められたことはない。空気なんだろう。よくもわるくも。
岸本瑠千愛は肘をついてコンパクトミラーにみとれていた。なんとなく腹が立つ。窓の外をカラスが鳴きながら飛んでいく。校庭を囲う背のたかい針葉樹たちが風にしなった。
放課後を郁と過ごすのは週に一度か二度くらい。場所はたいてい私の家だ。学校の前からバスで十分ほど。最寄り駅は郁の定期範囲内だし、カフェと違ってよけいなお金もかからない。
ママがお出迎えをしなくなって以降は勝手に鍵を開けてリビングに居座ることにしていた。結局このスタイルがいちばん仕事のじゃまをしない。余裕があれば顔くらい出してくるけれど、それは私ひとりが帰宅したときと同じこと。おかげで、郁も気楽に過ごせると言ってくれる。当初は恐縮しきりだったから、このくらいがちょうどいい。
今日もママの部屋の扉にはマスキングテープでメモが貼ってある。あずき色のカラーペンの丸っこい字が挨拶がわりだ。
「いらっしゃい&おかえりなさい。佳境につきお構いできません。冷蔵庫にリンゴがありますので、いるならむいてください」
文末にさらっとリンゴと蝶々のイラストが添えられている。仕事で描いて、忙しそうなのに書置きにも癖みたいに描いて、本当に好きなんだなと思う。耳を澄ましてみたけれど、部屋からは紙のこすれる音ひとつ聞こえなかった。
小学生のころは、ママが部屋にこもっているのが不安だった。壁の向こうには誰もいないんじゃないかと思ってしまって。
音をたてないように何度ものぞいたのを憶えている。背を丸め、私には気づかず机に向かったままで、画材や紙の匂いがよそよそしかった。
ドアからメモを剥がす。マスキングテープがはりはりと抵抗しながらめくれていく。
「彩加ママのイラスト、あいかわらずかわいい」
郁がいたずらっぽく耳打ちする。
電気ケトルをセットして、冷蔵庫からリンゴを出す。絵本に出てきそうな赤さと艶だった。子午線に包丁を入れる。ざくりとした手ごたえ。変わったところはなかったはずが、現れた二等分の断面に、うっと声がもれた。
「どした?」
覗き込んだ郁も、あぁ、と言って黙る。芯の部分が
「かびっぽいね。さすがにここまでのは削ってもだめかな。クッキーでいい? いつものやつ」
ビニール袋にリンゴを封じる。まな板と包丁を念入りに洗っているうちにお湯が沸いた。紅茶のポットにはキルトのカバーをかける。専用の砂時計はステンレスの枠がついている。磨かれた表面はゆがんだ鏡になって、私の嫌いなところ、そばかすとか色の抜けたくるくるの髪とかをむやみに映す。砂が黒いのもなんとなく意地悪な感じ。
戸棚に常備しているクッキーの缶をあける。昨日からはあまり減っていない。佳境とはいっても、ママの仕事は順調らしかった。ひとつかみほどお皿にもらう。
ソファの前のローテーブルにぜんぶを乗せたお盆を置くと、郁がテレビをつける。音量を絞って録画リストから適当な映画を選ぶ。郁の感想は毒っ気があって好きだ。話すうちに脱線してストーリーがわからなくなるのはもっと好き。洋画のベッドシーンからブラックホールの観測方法まで三分もかからない。こんなだから本気で見たいものは映画館で見る。
廊下に続く扉はきちんと閉めて、いちおう遠慮しながら笑う。ママは気にしないでいいと言うけれど、郁が羽目を外したことはない。低く抑えた声はすべての話題に秘密の香りをつける。
映画が終わるころには日が落ちてかなり暗くなっている。夕方のワイドショーは画面がうるさい。最後のクッキーを割って分け合う私たちの手の甲に、次々と色を投げかけてくる。
深刻な顔のキャスターが、馴染んだ地名を口にする。消そうと伸ばした手が止まる。カーテンを閉めかけた体勢のまま、郁が呟く。
「近所だ」
中継に切りかわる。学校の最寄り駅だった。放課後たまに寄る地味な商店街に人だかりができている。リポーターが情報を読み上げる。通り魔。被害者は十六歳の女子生徒。死亡。刺した男は逃走中。二十代から三十代とみられる。黒の上下。
話しかたは淡々としているのに、事実が鋭く感じる。場所も歳も近すぎる。何カ所も刺されているって、それはもしかしたら私だったかもしれない、郁だったかもしれない。
とつぜん部屋が明るくなる。びっくりして振り返ると、ママが電気のスイッチに手を置いて立っていた。細い金のふちの丸眼鏡の奥に作業終わりの眠たげな目。ゆるいまとめ髪がほつれて顔のまわりで波打つ。いつも通りではない証拠に、唇は真剣に結ばれている。続報が入りました、と聞こえる。岸本瑠千愛。
「え?」
「彩加、知ってる子なの」
かすかに語尾が震えた。動揺してる。ママには珍しく。名簿には載っているはずだし、保護者会で親どうしは会ったこともあるはずだ。でもママはクラスの子の名前をいちいち覚えるたちじゃない。息を吐いて、なるべく冷静に聞こえるように答える。
「同じクラス。友達ってわけじゃ、ないけど」
「そう」
ママはテレビを消す。蛍光灯の味気ない光に照らされて、ほほえみは擦り切れて見える。
「ココアをつくろうと思うんだけど、郁ちゃんと彩加は飲む?」
郁がうなずく。私も。質問のかたちをしていても、断ってはいけないと直感していた。小鍋がガスの青い火にかけられる。お砂糖とココアの粉と牛乳を練るあいだ、ママは喋らなかった。木べらが鍋底をこする音と換気扇のまわる音ばかりが場を支配した。
できたてのココアは熱くて、ソファに並んだ私たちにたっぷりの猶予をくれる。表面の膜をいじっていたママが、決意したようにスプーンを置く。
「郁ちゃん、親御さんは何時に帰られるの?」
「六時には父親が帰ると」
「今日は車で送っていってもいいかな。お帰りの時間に合わせて」
断る選択肢はないのだ。現場は近い。頑張れば歩けるくらい。犯人は逃げている。おそらくは刃物を持って。郁とママがそれぞれ、郁の両親に連絡を入れる。お互いのアリバイをつくるみたいに。ラインの画面を閉じた郁がひそやかなため息をつく。
ばば抜きで無理やり暇をつぶす。ママの提案はアナログで古くさくて、事件から離れているにはふさわしかった。
岸本瑠千愛が死んだ。殺された。横暴な彼女と、あっけない命の終わりが重ならない。私からすれば、彼女は絶対的な強者だったのだ。ママがトランプのかげから私たちを窺っている。事件の影響を見落とさないように、傷の深さを入念に探っている。
暴かれるのは私の罪かもしれない。どっか行ってくれないかな、と思ったことはある。軽くだけど、何度もある。ここにある感情は驚きが八割、かわいそうが一割くらい。残りのぐちゃぐちゃのなかに場違いにポジティブな、たとえば喜びに似たものがないとどうして言い切れるだろう。それを発見したママがどういう顔をするかなんて知りたくない。
やっと解放されて外に出たら、あたりはもう真っ暗だった。制服の襟に風が忍びこんで寒い。街灯がひえびえと道路を照らす。車には私も乗せられた。後部座席で、郁と左右対称にシートベルトをつける。パパには彩加の友達を送っていくという簡単な書置きを残す。メールなんてどうせ見ないから。
郁のお父さんはマンションの入り口に立っていて、私たちをみとめるとまず深く頭を下げた。おかげで初めて会うお父さんの顔は覚えられそうにない。
終わらない礼をおずおずと断ち切って私とママは家に帰る。
玄関をあけると炒め物の匂いが漂っていた。ママと違って市販の合わせ調味料に頼りたがらないパパの、変わりばえしない塩と胡椒とごま油の匂い。胸の底が泣きそうにゆるんだ。
「おかえり。何かあった?」
パパは電車で本ばかり読んでいる。リビングのテレビは消えたままだ。ニュースは知らないのだろう。日常そのままで能天気。事件ひとつで簡単に変わってしまった自分を意識する。
「彩加、お風呂入ってきたら」
ママが言う。いないあいだに説明するのだろう。私がお風呂から出たときにはパパもこっちの人間になっているはず。同級生の死そのものよりも、壊れるだろう平穏に感じる悲しみのほうが
* * *
学校はひとまず一日休みになることが決まった。朝早くから連絡がまわってきてばたばたしている。学校から一斉メール。かと思えば家にも電話が来る。連絡網なんてまだ使うんだ。ママは郁のお母さんと電話しながらトーストを焦がした。うちは融通がききますから、というせりふで押し問答を戦っている。私はもくもくと菓子パンをかじる。
パパの出勤前にママが郁を迎えに行く。娘をひとりで置いておくのが危険だってことは、最初から動かせない事実になっていた。私にも郁にも誰かしら大人がついているように、予定が組まれていく。
エンジンの音が聞こえて外に出る。にびいろの雲が空をうごめいて、冷たく湿った空気がジーンズの裾に溜まる。制服より肌は隠れるのに、私服のときの寄る辺ない感覚はなんだろう。ママは小声で、私が玄関をあけたことを叱る。その後ろを小さく硬くなった郁が歩く。伏せた瞳が細かく揺れていた。パパが入れ違いにいなくなる。
「おはよ」
「お世話んなります」
「こっちこそ。私も心細かったから」
「怖すぎだよね。あんま眠れなかった」
「うちで寝たらいいよ。ソファは郁にあげるから」
郁は弱く笑った。
リビングは暖房が効いていて、こうこうと電気がついていて、カーテンが閉められている。安全で整った部屋。ローテーブルにはママが置いていったお煎餅やビスケットの大袋が並んでいる。うちにこれほどお菓子が隠されていたとは知らなかった。
「これから打ち合わせで電話しないといけないから、しばらくふたりでよろしくね。緊急のときは呼んでちょうだい」
ママはあわただしく仕事部屋に消える。もともとは外で会う予定だった。頼み込んで変えてもらったに違いない。融通がきくというのは嘘じゃないけれど、きくからといって好き勝手にできるわけでもない。
ソファに沈んだ郁から上着を預かる。急だったから課題もない。宙ぶらりんの時間が横たわっている。
テレビに視線が行く。ママの打ち合わせ中なら、変に意識しないで報道を見聞きできる気がした。郁だって取り繕わない意見をくれるだろう。唾を飲んで電源に指をのばす。ポップな色彩で飾った画面は、遠い町の火事を知らせている。聞こえるか聞こえないかのぎりぎりまで音量を下げる。郁と私は床に座って肩を寄せた。
「やるかな」
「やるんじゃないかな。ほかに大事件でもなかったら」
私たちが望んだとおり、事件は特集された。一夜明けて、少しずつ詳細があきらかになってきている。集まった情報はアナウンサーのはっきりとした発音で、ひとつながりに語られた。抜けたピースを憶測や証言で埋めながら。
「犯人、まだ逃げてるんだ」
郁は抱えた膝に頬を乗せる。ただ事実を確かめているような、温度のない声だった。
「防犯カメラの映像も出てるのにね。似顔絵もあるけど、これってどこまで似てるんだろ」
「最後に映ってたっていうA駅って何県?」
「N県らしいよ、ほら」
スマートフォンは簡単に知りたいことを教えてくれる。検索エンジンがまばたきのあいだに結果を集め、駅の所在地のみならず近隣の施設や名物までを並べてみせる。
「ふぅん。けっこう田舎じゃん。どこまで逃げるつもりかな」
「さあ」
「名前とかもまだわかんないんだ?」
「言わないね」
警察が追っているとはいえ、逃げた男の素性は知れない。情報は伏せられているのか、つかめていないのか。加害者のことはあっというまに語りつくされてしまう。かわりに画面を埋めるのは岸本瑠千愛の背景だった。
昨日は名前と年齢くらいだった。今日は写真から通う学校から、あらゆる個人情報が無造作に放送されている。白っぽく凹凸を吹き飛ばした自撮りに、誰かと並んで掲げるピースサイン。彼女以外の人間はモザイクで守られている。きらきらした写真に郁は眉をくもらせた。
「すんごいね。加工しまくってるし。そういや岸本のインスタって鍵かかってたっけ」
「いいや。私も見たことあるよ」
「さすが観察係。もはや大好きじゃん」
「好きぃ? ありえないって。ストーカーみたいに言わないでよ人聞き悪い」
「誰も彩加を疑ったりしないでしょ。逃げてんの、男なんだし」
「だからってさ。あの人殺されちゃってるんだもん。冗談で好きとか、こんな話、聞かれたら不謹慎だって言われるんじゃないの」
「たしかに死んじゃった人に関することを冗談みたいに使ったらいけないのかもね、まっとうな人間でいるには。テレビだってじゅうぶん悪趣味だけど。卒アル流したの誰だろ」
「小学校のってあたりがなんか意味深だよね。中学のもあるはずけど、誰も渡さなかったのかな」
「お父さんが怖いんじゃないの。それでみんな今まで岸本に強く出られなかったんでしょ」
「寄付金?」
「そう」
「噂じゃん」
「金額は出てないけど毎年広報誌に載ってるよ、寄付した人一覧」
「だからって生徒と保護者全員が」
「ま、それだけじゃないだろうけど。偶然だっていうならそうなのかもしれないし」
「ねぇほら岸本の家。ほんとにこうやって押しかけるんだ」
「うわ、けっこうな豪邸」
軽い口調と裏腹に、郁は苦く目を逸らした。
取材陣が岸本家の玄関先にひしめいている。豪華で重厚な門が檻みたい。見るからにお金が掛かっていそうな建物だった。壁も扉も窓枠も、ずっしりと中身が詰まっている感じ。
沈黙していた玄関扉がひらいた。フラッシュがいっせいに光る。カメラが位置を争ってうごめく。出てきたのは男の人だった。年齢からいってお父さんだろうという予想は、遅れて出た字幕で当たりだとわかる。スーツにネクタイ。きちんとした格好をしていても、体格がよくても、やつれていることはあきらかだった。つられて心臓がぎゅっと縮む。
つぎつぎに質問を浴びせられる。父親が事件の真相を知っているわけもない。だから、訊かれるのは感情のことばかりだ。
今の気持ちは、犯人に対して思うことは、お嬢さんはどんな子で、どんなふうに生きてきたのか。お父さんは少ない言葉で応じる。鼻のかたちが意外と似ていて、岸本瑠千愛にも親がいるんだということを唐突に実感する。
記者たちの声が止まないなかを、お父さんは会釈と共に去っていく。ガレージでは黒光りする車が準備万端で待っている。走り出す車をカメラが追う。
場面が切り替わる。別の人のインタビューだった。顔を隠して、声も変えている。よれた長袖Tシャツとダウンベストの、いかにも普段着な服装。いろんな意味で、お父さんとの落差がすごい。
その人は岸本瑠千愛についてよく喋った。友達が多くて、明るく挨拶をする子だった。部活でテニスをやっていて一年にしてレギュラーだった、練習に試合に一生懸命だった。成績だって良かった。彼女を奪われてこんなに悲しい。悔しい。
ほかにも何人かがマイクを向けられ、似たようなせりふを吐いた。気の毒そうな調子でいきいきと彼女とのつながりを主張する。お父さんのときと違って、聞くのは苦しくない。
「私ていどの経験者に怯えていびり倒すような人が、レギュラー取れないわけないじゃん。私、下手だったよ。だって小学校のころちょっとかじっただけだもん。ねぇこれも死人を悪く言うってことになるのかな」
郁の声は崖を転がるように速く、不安定になっていく。
「みんなほんと、理想の人間みたいに言うんだね。誰のことなんだろってくらい完璧。笑っちゃう」
郁は言葉どおりに笑おうとして、失敗して左の目から涙を落とした。片腕で顔を覆いながらローテーブルの定位置にあるティッシュを取る。縮こまる肩に手を伸ばしかけて、やめた。リモコンでテレビの画面を切る。郁は私の腕をつかんで電源を入れ直す。
「勝手に消さないで」
「泣いてんじゃん」
「泣いてない。人並みに被害者をかわいそがるのも出来ないのに」
「私も、あの人がそんなに善良だったとか優秀だったとか、思ってない。でもたぶんマイク向けられたら黙るか、似たような当たり障りないことしか言えない。相手は死んじゃってるんだし。あの人のためじゃなくて、自分が死人を叩くようなやつだって思われたくないから」
「彩加は答えないよね」
「答えないだろうね。ああいうの、もとから嫌いだし」
スタジオではアナウンサーが話をまとめにかかっている。未来ある若い命が、どうたらこうたら。
「私たちもさ、殺されたらあんな風によその人に惜しまれるのかな」
「若いってだけで未来があって希望にあふれてるみたいに言われるんじゃない。そういうので感情を動かそうとするんでしょ。実際どうだったかなんてささいなことみたいだよね。だったら郁のほうがまだあの人を人間として見てたんじゃないかな。立体的っていうか」
「悪い意味でね。忘れられないから。思い出して、教室にもいるし、見たくないのに見ちゃってさ。その繰り返しで記憶ってどんどん強くなるんだよね。あのすっごい嫌な目とか、言われたこととか。あぁだめだな。悪口になっちゃう」
「相手が死んだからって、されたこと全部許さなきゃいけないなんてないよ」
「どしたよ。なんか気ぃつかってる?」
「我慢とか、そういうのきついじゃん。死んだってやったことがなくなるわけじゃない」
郁には岸本瑠千愛の罪を糾弾する資格があるはずだった。けれど彼女は諦めまじりに頬をゆるめるだけだ。
「終わったことなんだよね、もともと。最近は平和だったし。今回のでもっと終わったんだなって思った、から。別にもういい。ありがと」
コマーシャルが始まって郁はソファによじ登る。ひじ掛けにのせた顔に髪がかかった。こぼれた黒は表情を隠す。その下から、声がそっと放たれる。
「どんなふうに感じるのが正解なんだろね」
「正解なんてないって言われるんだろうけど、模範解答くらいはありそう」
「うん、だって、明らかに怒られる反応はあるわけでしょ」
「あるね」
お昼どきになってママが部屋から出てきた。私たちには目もくれず台所に直行するや、缶のクッキーを手づかみでむさぼる。無糖の炭酸水で流し込んで、小さく咳き込みながらやっとこっちを見た。
「急いでやらないといけないことがあって。彩加、悪いんだけどお昼適当にお願いできるかな」
「了解。こっちは気にしないで」
「助かる」
ママは髪を結びなおす。ふぅっと長く息を吐く。自分で頬をぺちぺち叩きながら部屋に戻っていく。
「郁、お昼パスタでいい? ソースはレトルト」
「むしろ好物。手伝うよ」
大小の鍋を水で満たして火にかける。小さい片手鍋が沸騰したらミートソースのパウチをふたつ投入する。郁が菜箸を持って見張りをしてくれる。お皿とフォークの準備。それと、ざる。
「慣れてるね」
「ママが勝手にやってって言うときはだいたいこれ」
茹であがるまでのあいだに、冷蔵庫からプチトマトのタッパーを出してつまむ。
「パパが野菜も食えってうるさいから」
すすめると郁もひとつふたつと口に放り込む。
「じゃ、彩加パパが用意してるの?」
「そ。洗ってヘタ取って」
「まめだねぇ」
「ママがおおざっぱだから気にしてんの」
「娘の健康を」
「味より栄養。パパの料理はいっつも薄味です」
タイマーが鳴る。スパゲティをざるにあける。ゆだった麺はぬらんと鍋からすべり落ちて、台所には湯気がたちこめる。シンクがべこんと音をたてた。郁が肩を跳ねさせて驚く。
郁とこっちのテーブルにつくのは初めてかもしれない。おやつならローテーブルで済むから。ママの椅子で律儀に手を合わせていただきますをしているのが新鮮だった。私は粉チーズを山のようにふりかけるのを笑われて、郁の口角についたソースをおおげさに指摘する。飽きるほど食べた味なのにおいしく感じるのが我ながら単純である。
「彩加と一緒にいられてよかったよ。ひとりで家にいたらどうにかなってたかも」
「それはお互いね。ママたちに感謝しなきゃ」
「助けられてばっかりだ。覚えてる? 彩加のうちに初めて来たときのこと」
「部活さぼってお茶しに来いって言ったんだよね。冷静に考えるとひどいな」
「おかげで辞められた。頭冷えたもん。しがみついたままだったら、もっと岸本のこと嫌いになってただろうし、自分もつらかったと思うんだ」
郁がゆるく持ったフォークで皿に溜まったソースを引っ掻く。舌の先が唇を舐める。話しにくいことを話そうとするときの癖だ。相槌を引っ込めて続きの言葉を待つ。
「もしかしたら、あのままだったら私、岸本に死ねって思ってたかもしれない。そしたらさ、ほんとに死んじゃったらちょっとだけでも自分のせいみたいな、そんな気がして耐えられなかったんじゃないかな」
「思うだけで?」
「犯罪じゃないけど。死んでほしいとまでは思ってなかったって言い切れる今だって、ちょっと怖いから。自分がどっかで望んでたことでこうなった、みたいな、一ミリでも関係あるんじゃないかって感覚、あって」
「郁は悪くない」
「わかってる。わかってないかもだけど」
わだかまる気持ちを取り除けたらいいのに。現状として、私の手は空になったお皿を片付けるくらいしかできない。
「映画、見よっか」
いつになく静かに映画を見た。砂を
ママが戦い疲れた様子でリビングに現れたのは二本目がエンドロールにかかったときで、カーテンの向こうはまるっきり夜になっていた。ママがあちこちの関節を鳴らして伸びをする。
「ようやくひと区切りついた。紅茶淹れるけど、いる?」
同じ道具を使っても、ママが淹れる紅茶は私がやるよりずっといい香りになる。渋すぎないし、変な苦さも出ない。
カップとポットを温めて、茶葉を入れて、お湯を注いで、ふたを閉めたらキルトのカバーをかける。砂時計のステンレスもママの手のなかならちょっとだけ親しげに輝く。カップとソーサーが触れあうかすかな音。ママの小指は繊細に陶器の肌に添えられている。
私たちはテレビを消して、ビスケットを選んで大袋を破る。ちっぽけな個包装を落ち葉みたいに集めてそれぞれの前に積んだ。ママは昨日と違って親らしい顔をしていない。仕事が終わった気楽さで、郁とは友達みたいに話す。郁は仕事のことを聞きたがる。ママの喋れる内容はぼんやりしたものばかりだけど、長い前髪のしたの瞳には喜びと好奇心がぴかぴかと宿る。
置いたままだったトランプで七並べをした。郁がふつうに笑うから、私もなんでもない顔をしていた。涙の形跡はもうない。トランプで遊ぶのが初めから日常だったかのように時間は過ぎる。
郁にお迎えが来たら夕ごはんの準備にかかる。ママが中華炒めの素で豚肉と大量のピーマン、彩り程度のパプリカを調理する。野菜多めはパパとの約束、らしい。何度となく聞かされた定番のかけあいだった。二人の動きまで完璧に思い出せる。
パパが手を洗って着替えて食卓につくのと同時にごはんをよそう。私も卵のスープを作ったから湯気がいっぱい。
いただきますとごちそうさまをいちばんはっきり言うのはパパだ。そのパパが、炒め物を飲みこんでから、厳かに口をひらく。
「逮捕されたってな」
「なにが?」
ママが首をかしげた。通じていない話がぽっかりと宙に浮かぶ。
「例の、通り魔」
「そうなの」
「知らなかったのか」
「ニュースも見てなくて」
ふだんネットニュースなんて見ないパパが、気にして調べてくれていた。
「パパのほうが情報早いとか珍しい」
「彩加は人を化石みたいに」
「いいんじゃない、ちょっとシーラカンスっぽいところあるし」
「
「生きてなきゃ困るでしょ」
ママは大まじめだった。いつもの我が家だな、と思う。
ふっと怖くなった。私もママもパパも、岸本瑠千愛と同じ、刺されれば死ぬ人間なんだ。刃物の想像が迫ってくる。どこへともなく鈍い痛みが走る。よりどころがほしくて自分の肘をさすった。とりあえず、笑っておく。テーブルの上の平和に私の声がとけていく。
* * *
すこんと晴れた朝だった。校門の前に詰めかけたマスコミの人たちが、運動会かなんかに見えるくらいのいい天気。ラジオを止めて、ママは車をいったん路肩に寄せた。
「行かなくてもいいんだよ」
「平気。行くよ。送ってくれてありがと」
勢いをつけてドアをひらく。つかまって話をしている子も何人か。その子たちを見るのも、記者と目が合うのも、カメラに映るのも嫌だった。うつむいて小走りに校門を抜ける。誰も声をかけてこなかった。乱れた息で昇降口にたどり着く。潜水の準備みたいに肺いっぱいの空気を吸う。
教室がざわついている。廊下からでもわかるくらいに。気が重いのを我慢して手をかけようとしたとたん、ドアがひらく。はちあわせたのは秋山くんだった。
「っと、ごめん」
「こっちこそ」
よけてくれた秋山くんの横を通ろうとしたとき、岸本瑠千愛のとりまきだった
「お前がやったんだろ!」
「違う」
叫び返したのは霜田くん。沼田さんより声は小さいけれど、日ごろのおとなしさからすれば驚くような剣幕だった。岸本瑠千愛と仲のよかった女子たちが、沼田さんをなだめながら霜田くんをにらんでいる。ほかはみんな遠巻きに様子をうかがうくらいで関わろうとはしない。
廊下で駆けだそうとしていた秋山くんを呼び止める。
「何があったの?」
「ネットの、掲示板かなんかに岸本の悪口が書かれてたって。そんで犯人が霜田なんじゃないかって」
「それっぽい内容だったってこと」
「いや、ほんとに誰でも書けるような感じっぽい」
「じゃなんで」
「たぶんだけど、机拭いてんの見て火ぃついた」
「あぁ確かに、ちょっと。でも、だったら今日は汚れてないよね。そんな余計な」
「癖みたいになってんのかね」
「怒るのも、ま、わかんないでもない。けど、さ」
「とにかく俺先生呼んでくるから」
「ごめん。じゃましちゃったね。ありがと」
「ん、いや」
ちょっと手を挙げて、秋山くんはあっという間に遠ざかっていく。沼田さんは霜田くんに殴りかかりそうな勢いだった。
「瑠千愛死んじゃったんだよ! なんでそんな、ひどい」
彼女は振りあげかけたこぶしを下ろして泣き崩れる。付き従っていた女の子たちが寄ってたかって背中を撫でる。霜田くんは行き場を失って
どこか、劇みたいだった。あからさまでわかりやすい感情表現は、わかりやすいからこそフィクションめいている。
私も彼女たちからすれば冷たいんだろう。悼む気持ちがあるとかないとかじゃなくて、最大限に悲しまなくちゃあの人たちにとっては正しくない。うかつに仲裁すれば今度はそちらに食ってかかるのではないか。机を拭いたのだって、結局はきっかけにすぎないのだから。
立って息を殺している郁のほうへじりじり寄っていく。袖を引くと、怯えたように身をすくめる。
「私だよ、郁」
「うん」
手足の力は抜けても緊張がとけた様子はない。
「顔色悪いけど」
郁は小さく首をふるだけで応えた。自分の席は近くにあるのに、座ろうともしないでじっとしている。動けば撃たれる、とでもいうふうに。
先生が慌てた感じで入ってくる。まだ泣いている沼田さんを連れ出しながら教室ぜんたいに張りのある声で指示を投げる。
「もうすぐ集会始まるから席に座っていなさい。移動はクラスごとに担任が先導します」
ついていこうとした仲間が先生と少しもめて、ひとりだけが一緒に出て行った。
誰かが椅子を引いた。音につられてまた別の誰かが席につく。彼女たちに集中していた視線が散らばって教室の空気は平坦になる。ささいなことで波立ちそうな雰囲気はあっても、大人が呼ばれる事態にはなりそうにない。最後に残った空席三つがそれでも無言の主張をつづけている。
放送で全校集会が始まることを知らされる。先生が戻ってくる。沼田さんともうひとりの姿はない。
列を作って体育館に移動する。始業式や終業式と大差はないけれど、先生は暗いし生徒はみんな居心地が悪そう。集会はいつもと同じく待ち時間が長い。どんな顔をしていればいいんだろう、どこを見ていればいいんだろうって、黙って考えている。
校長先生の話は朝礼と変わらないくらいつまらなかった。なにもかもがわかりきっているから。生徒が殺されてしまったときに言うべきこと、という筋があるかのようだ。単調な話しかたは乱れない。伏せた目で原稿を確かめながら、たまに私たちを見渡す。
大人であれ、先生であれ、できることは私たちとたいして変わらない。悲しく、悔しいと言うしかない。
集会を開いたり、カウンセラーを置いたりすることはできるけど、そういうのはあくまで周りのことであって、死そのものに触れてどうにかできる人はいないのだ。
教室に帰ったらすぐ授業が始まる。日常の感触に肌が慣れない。
沼田さんが戻ってこなくて、今の空席は二つ。岸本瑠千愛の席はいつまであるんだろう。空っぽの机は不在をやたらに強調する。絶対的な上位だった彼女の立場は誰が継ぐんだろう。階級がなくなるとは信じない。小学校から今まで、教室に勢力図のなかった時期なんて思い出せないんだ。
後ろから、耳にさわる笑い声が聞こえた。幻聴なのはわかっていた。全身を極細のワイヤで縛られるような、肋骨を内側から引っ掻かれるような、いつも上から降ってくる声。
振り向いても、岸本瑠千愛はそこにいない。
* * *
日曜日のお通夜に行くことになった。午後の三時には当たり前のように起こされて、当たり前のように制服を着る。テーブルにはラップをかけたオムライスが置かれている。
「言っとくけどそれ昼ごはんのつもりだったんだからね。ほっといたら全然起きなくてどうしようかと。はやく準備しなさいよ。髪、跳ねてるし」
ママは化粧をして喪服をまとい、真珠のピアスをつけようとしている。口紅がなくてもよそゆきの顔だ。
「行かなきゃだめかな」
柔らかい茶色のアイシャドウを置いた目が私をとらえる。観察するときの瞳の感じ。
「どうして?」
「私なんかが行っても嬉しくないだろうし」
「彩加。お葬式ってね、そういうものじゃないんだよ」
「行くのが常識、ってこと」
ママは私の隣に座った。クローゼットの奥のにおいがする。
「仲、悪かったの?」
「悪いとかじゃ。どっちかっていうと、歯牙にもかけない、みたいな」
「その子のこと、怖かった?」
「わかんない。私はなんかされたってわけじゃなかったし」
「そっか。学校ってそういうところかもね」
ものわかりのいい母親ふうの口ぶりが、私は嫌いだ。ちゃんとしてないときのほうがずっと好き。
「亡くなった人の気持ちは生きてる人間には伝わらないよ。お葬式に行くのと行かないの、どっちが喜ぶかなんて知りようがない。だけどね、お別れの場を整えてもらえるのはこの一回きりなんだよ。できるかぎりのことはしておいたほうが、私たちも後悔は少ないんじゃないかな。彩加が望まなかったとしても、縁のできてしまった人なんだから。区切りをつけるっていうのは大事。相手を覚えておくにも、忘れるにも、ね」
こういうモードのときのママはすごく正しい。正しすぎて、反論しようとしたら私が間違うしかない。間違っていてもママは怒らないし、いくらでもわたしの主張を聞いてくれる。言葉を尽くしてわかりあおうとしてくれる。だからこそみじめになるのだ。私が子どもで、単に聞きわけがないせいでママに歯向かっているのだと思わされる。だからスイッチを切るように短く答える。
「ごめん」
「お葬式なんて楽しいものじゃないからね。深く考えすぎなくて大丈夫。私もついてるし」
ママは私の後ろ髪をちょいと引っ張って離れていく。
「けっこうしぶとそうだね」
「目立つ? 癖毛のいいとこは寝ぐせがばれにくいってことくらいなのになぁ」
「うーん、ぎりぎりアウト」
「ドライヤーで頑張ってみる」
振り向いて、ママは親指を立てた。急に喪服が似合わない。
会場にはバスで向かう。夜に沈んだ町を、街灯と民家の窓の光が心もとなく照らしている。窓に映る自分の顔は青ざめてみえる。
降車ボタンの赤紫色がいっせいに点る。停留所はセレモニーホールの目の前だった。車内では気づかなかったけれど霧雨が降っている。細かな水滴で頬が冷えていく。ママが天をあおいで、てのひらを頭上にかざした。
「傘使う?」
「いい。すぐそこみたいだし」
入り口のあたりに、カメラが黒っぽく群れていた。三脚や脚立の無機質な木立に暗い服の人たちがとまる。彼らの持っている照明は街中にある様々な光よりよそよそしく思えた。さすがに話しかけるそぶりはないけれど、レンズは大きな一つ目で私たちを追う。
駐車場とロータリーのあるエントランス前はホテルの玄関に似ている。岸本家式場、という筆文字の立て看板。喪服と制服の人々が自動ドアに吸い込まれていく。スーツの職員さんは入ってくる人にお辞儀をする。示された奥のほうには扉があって、その先に廊下が続いている。
行き止まりが広いロビーになっていた。集まった人たちが折り重なるように列を作る。遠くのほうに受付が見える。
「彩加、受付終わるまで持ってて」
サブバッグを渡される。ママは墨色の鞄をごそごそしている。
三人先に郁がいた。今日はお母さんと一緒だった。あっちも気づいたみたいだ。かすかにうなずきあう。列はとても静かだった。
お寺を思い出す匂いがしていた。前の人について進む。聞こえるか聞こえないかだった音楽のようなものが、お経らしいとわかる。
受付でママがお香典を出して台帳に名前を書く。ご愁傷さまです、という言葉が本来の意味で使われるのをはじめて聞く。ホールの扉は解放されていた。その向こうに白い花を飾った祭壇が見える。整然と置かれた椅子にはあまり人がいなくて、真ん中の通路に行列は続いている。
ホールに入れば花の香りが強くなる。きょろきょろするのは良くないだろうからと前の人の背中ばかりを視界に入れる。一歩ずつ進んでいくことがもう儀式みたいだ。
順番が来る。花のなかの、岸本瑠千愛の遺影が私を見下ろす。巨大といってもいいはずの額も祭壇の壮大さのせいでちんまりとして感じられた。着飾った彼女の笑顔にはとげとげしいところがない。かわりに、憎たらしいほどの奔放さも影をひそめていた。嫌いだった。でも一枚のポートレイトよりは多くを見てきた。大好きじゃん、と言った郁の声がよみがえって、苦い羨望のかけらに今さら気づく。写真からは私が想像していたような、世にはばかる大人になった彼女に線を結ぶことなどできそうにない。
ママを横目で確認しながら祭壇の横の席に頭を下げる。次に正面に一礼して、置かれた箱から木くずのようなお香をつまむ。顔に近づけて、もうひとつの箱の、煙の上がっているところに落とす。
手を合わせる。ママは数珠を持っているけれど、私にはない。空っぽのてのひらと同じくらい、頭には祈る言葉がない。
同情できるほど私は強い立場じゃなかった。嘆くには後ろめたかった。折り合いがついていない。納得がいっていない。私の心の半分はまだ、岸本瑠千愛が君臨していた教室にいて、あの視線に呼吸を奪われている。安らかな眠りを願おうとするほど彼女の実在感がじゃまをした。
遺影から逃げるみたいに腰を折る。横の席にもう一度。
上げた視線がその席の人たちに当たった。岸本瑠千愛の家族なのだとすぐに察する。胸の骨を鉄のかたまりで殴られるような衝撃があった。理屈じゃない、説明できる単純な表情や態度じゃない。ホールのどこよりも濃く煮詰められた、重苦しい感情が渦巻いている。顔を真っ赤にして拳を握っているのはお父さん。隣にはお母さんらしい人。白いハンカチを持った手が小刻みに震えている。
早朝の雪原みたいな肌をした、きれいな人だった。岸本瑠千愛によく似ていた。パーマのかかった栗色の髪は首のなかほどで整えられ、薄い化粧でも目鼻立ちはくっきりとしている。泣いてはいない。うつろに平らな眉毛と、乾いた、底のない瞳をしていた。すべての力が消えうせた顔を折れそうな首に乗せて、背筋だけを棒のように伸ばしている。
ママが祭壇を離れるのに遅れそうになった。全身が熱い。私がどれほど軽い気持ちで来てしまったか、できごとの表面だけを撫でてわかった気になっていたか。遺された家族に伝わってしまったんじゃないか。ばちが当たるんじゃないかと、お経に追い打ちをかけられながら思う。
悲しみも憎しみも怒りも、どんな名前のついた気持ちも安っぽい。出口に案内されて、ママが紙袋を受け取る。ここから持って帰らなきゃならないものがあるのが怖い。
扉の外は、入ってきたときと似た廊下だった。しばらく歩くと壁がガラスになっているところがあって、その前に郁がたたずんでいる。所在ない背中のとなりに寂しい中庭が見えた。植え込みと、白い砂と、ぼんやりしたライトだけがある。
「お母さんは?」
「トイレだって」
郁が指さす先には化粧室のドアがあった。やっと気づいたママが戻ってきて、郁に他人行儀な
「彩加、私たちも行っておく?」
「私はいい。行ってきたら。郁と待ってるし」
「そう。あんまりお喋りしないようにね。中に聞こえてしまうとよくないから」
「うん、わかってる」
なるべく声を落として答える。ママは神妙な早足でトイレに消えていった。郁は庭に向きなおって、だらりと下ろした左腕を右手で抱く。
「ばかだった、私」
岸本瑠千愛の死から今日まで、郁とはいちばん話してきたから、同じ教室にいたから、噛みしめたささやきの意味は嫌というほど理解できる。賢いつもりで考えたことも、わかったようにきいた口も、私と郁しか知らない。けれど、事実は決して消せない。
「私も」
初めて身近に現れた死に舞い上がっていただけだ。インタビューに答える野次馬と五十歩百歩。出会い頭に殴られるように見てしまった感情は、なまぬるい考察をいくら重ねても意味がないと叫んでいた。
郁は窓にひたいを寄せた。唇が小さく動く。聞こえない吐息がガラスを曇らせる。言えることも言っていいこともない。郁のそばに寄って、手に触れる。迎えられて握りあう。いくら目をこらしても、中庭に雨が降っているのかはわからなかった。
岸本さんのこと 夏野けい/笹原千波 @ginkgoBiloba
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