第3話 アヤ
「逃げるの?」
背中を向けたまま振り返ろうとしない彼に、アヤは罵声を浴びせた。
その言葉に弾き飛ばされるように出ていった男に遅れること数秒、ふわりと閉じたドアがカチリと軽い音を立てた。恐らく、ドアはきちんと閉じていない。
大慌てで衣服を身に着けようと奮闘していた男は「なんだよ」とぼやいて、半分裏返ったボクサーパンツに片足を突っ込んだまま尻餅をついた。
アヤの方はといえば、どう足掻いても取り繕うことは不可能な行為の真っ最中に今カレに踏み込まれたショックから立ち直ることが出来ず、全裸で座りつくしていた。
「なんなのよ」
猛烈に腹が立った。腰抜け。不実な恋人を詰ることも、その浮気相手に拳の一つも浴びせることもできないとは。
もう、ただの彼女ではないのに。
アヤは下を向いて、唇を噛んだ。
シンイチとの出会いは高校時代に遡る。
県内でもトップクラスの進学校で、見た目が派手なアヤはいかにも浮いていた。元々勉強ができ、メイクやファッションにも興味があり両方を怠らなかった結果なのだが、がり勉タイプばかりのクラスで彼女は異彩を放っていた。いや、当然の如くトップクラスの大学への進学を目標に掲げる生徒しかいないような学内では、カラーボールが命中した強盗犯よりも目立つ存在だった。髪色を明るく変えると烈火の如く怒る教師も黒く染めることはむしろ推奨したいようだったが、
ばかばかしい
アヤは自分のせいでもないことで非難を受け、時に陰湿な虐めの対象とされることにはうんざりしていた。幸い、坊主頭や縮毛矯正を強要できる時代ではなくなってきていた(少なくとも彼女が通った学校では時代錯誤な校則は撤廃されていた)。彼女が目立つ理由は、髪色のせいだけではなかったのだし。
シンイチとは一年生で同じクラスになった。彼は、ぶ厚い眼鏡をかけ貧弱な体つきをした優等生で、その他大勢のクラスの男子・女子の中で普通に馴染んでいた。
それでも、シンイチは勉強はできるがコミュニケーション能力の低い他の男子とは異なっていた。物腰が柔らかく、アヤだけでなく他の女子全員に親切だった。
まだ何もしでかしていないのに、学校では早くも「トラブルメーカー」と目され敬遠されたりこっそり熱いまなざしを送られるようになっていたアヤにとって、シンイチは一緒にいて安心できる相手で、見た目からは想像もつかないようなやかましい音楽に詳しいといった意外性もあり、話をしていて楽しかった。ぶ厚い眼鏡の奥の瞳は意外と優しく、よくよく見れば地味ながら鼻筋の通った顔立ちをしていた。
そういうシンイチに密かに想いを寄せる女子もいたが、地味で奥手の彼女達が行動を起こす前に、アヤの方から積極的アプローチを試みて二人の交際は始まった。アヤはその見た目から「真面目な男子を遊び半分で破滅させようとしている」だの「援助交際をしている」だの陰口を叩かれることもあったが、県内の中学から優等生が終結した高校にあっても成績は中より上を保ち、学校内ではシンイチ以外の男には目もくれなかった。大方の予想に反して、アヤが早々にシンイチに飽きて他の男に乗り換えるような事態は、どれだけ待っても発生しなかった。
大学が別々になっても、アヤはシンイチと別れなかった。それはただ、彼が、アヤの我儘を色々と聞き入れてくれるからではない。アヤの方から、目を閉じて唇を突き出し「ハイ!」と言ってやらなければ最初のキスに踏み出すことさえできなかった頼りない男を、いささか物足りないと思いながらも、本気で好きだったからだ。
現在に至るまで、二人の交際の主導権は常にアヤが握っていた。シンイチは、交際を始めた当初から、常に受け身で、慎重であった。今回同棲に踏み切ったのだって、お互い別々の会社で新入社員として日々忙しく過ごすなか、一緒にいられる時間が減ってしまったからという名目で、アヤが強引にシンイチのマンションに押しかけてきたことによる。
それを、こんな、お遊びぐらいで。
なぜこんな時間に帰ってきたのだろう。アヤの浮気を疑っていたはずがなかった。その点、シンイチは昔からかなり鈍い方で、アヤが火遊びを繰り返しても、
「会社の子たちとカラオケに行ったら、終電逃しちゃったから彼女の家に泊めてもらっちゃった」
「わたしを信じないの?」
「あんなの、ただの遊び仲間だよ。しつこく連絡先を聞かれたから教えたけど、もうブロックしたし」
とまっすぐ目を見て言えば、どんな言い訳でも最終的には信じてしまうような男だった。決して頭が悪い訳ではないし、他のことでは細やかな気遣いもできる繊細な男にしては不思議なことであったが、それは彼がアヤのことを愛しているからだ、とアヤは思っていた。他の男とは遊びであり、本命はシンイチであると本人もわかっているから、少々の浮気ぐらいで別れるのなんのといった修羅場に発展するのは御免だと本能的に危機を回避しているのだと。
この日シンイチは、会社の先輩のバチェラーパーティー(「なにそれ?」「結婚前に独身最後のバカ騒ぎを男だけで楽しむっていう」「やだ、ストリッパーとか呼んだりするアレ? いやらしい」「いや、アメリカじゃあるまいし、そんなことしないよ。ただ会社帰りにみんなで飯食って酒を飲むだけだよ」)で遅くなる、もしかしたら明日の朝まで飲んでるかも、なんて言って出かけて行ったのだ。
相手の男は、アヤの行きつけの美容院のスタッフで、前から何度か遠回しに誘われていた。特に好みのタイプというわけではないが、既婚者で時々子供の話などもして子煩悩アピールをしてくるような男だったので、それなら後腐れがなくてよいかと、ふと思った。いわゆる魔が差したというやつだ。カラーリングの間に密会の算段をつけ、十九時あがりの男と、近くのカフェで待ち合わせた。
「彼氏が留守なら、お前んとこでしよう」
などという悪趣味な申し出をうっかり承諾してしまったのが間違いだった。相手は勤め先の顧客であるアヤの個人情報をこっそり調べており、自宅(シンイチのマンション)が美容院から近いことを知っていた。「子持ちの美容師の小遣いなんて微々たるものなんだぜ」と身も蓋もないことを、男は平然と口にした。
「ホテル代だって馬鹿にならないだろ」
マンションに到着するや否や、玄関のドアが閉まるのすら待たず、男はアヤに抱きついてきた。別に拒絶するつもりはなかったものの、後ろから羽交い絞めにされたときは、笑顔が引きつった。
「ちょっとー、がっつかないでよぉ。彼、遅くなるって言ってたし」
とはいえ、それほど精神的余裕があるわけでもなかった。シンイチはいつも飲み会の後は、「今から帰る」というメッセージをくれるマメな男であるとはいえ、彼の部屋では、くつろいだ気持には全然なれなかった。
とっとと終わらせて、帰ってもらおう。
洋食屋でテイクアウトした袋を玄関に放り出したまま、ねっとりと舌を絡め合うキスをしながら、お互いの衣服をはぎ取っていった。寝室のドアの手前、1LDKのリビングのカーペットの上に倒れ込んだのは、後々ベッドのシーツを交換したりシンイチの目につかぬようにこっそり洗濯したりする手間が省けてむしろ好都合だと、あくまでも冷静な一部の意識でそのときは思った。
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