第22話 事故現場
日没後の住宅街では、車も人の往来も途絶えている。
まばらな街灯の光はいかにも弱々しく、かろうじてわずかな範囲の暗闇を外側へ押しやっているに過ぎない。小学校への通学路になっていることもあり、この界隈は日中は行き交う人や自転車、車で活気に満ち溢れているのだが、今は土曜日の晩である。各々自宅で団欒の時を過ごしている――とは思えないほど、閉ざされた窓は暗く、痺れるような、静寂。
腕時計を確認すると、午後七時をまわったところ。七時十二分まであともう少し。上着は置いてきたためYシャツ姿のシンイチは、荒い息をつきながら、額の汗を拭った。自宅からこの場所までは目と鼻の先である。
対面通行の車道を挟んだ向こう側が、テレビ画面で見た事故発生現場である。シンイチは、現場中継のリポーターが立っていた辺りに佇んでいる。一部始終を余さず目撃するのであれば、ここがベストポジションのように思えた。彼は見届けなければならないのだ。
今ならまだ間に合うのではないか。
そんな考えがちらとよぎったが、もはや手遅れであることは彼自身十二分にわかっていた。
午後七時十一分
通常陽光の下にあるべきものが闇のなかに浮かびあがる異様な光景――子供たちの登場だ。対岸から見ているシンイチの右手側に現れた小さな人影が、ゆっくりと近づいてくる。全員頭を垂れているので、黄色い帽子が無表情な顔に見える。背中にはランドセル。境界ブロックで車道から分離された歩道は狭いため、行儀よく一列に並んで、静かな行進。お喋りに興じる子は一人もいない。
本当に、手遅れなのか。
シンイチは無意識のうちに身を隠した電柱に手をついて、苦しそうに喘いだ。汗が滝のように流れてくる。
なぜ見届けなければならないのか。
シンイチの見守るなか、ぞろぞろと通過していく覇気のない子供たちの背後から、車のライトが近づいてくる。
もう引き返すことはできない。
子供たちはまだ何も気づいていない。いつも通り、彼らは狭い歩道を一列になって歩く。だが、どこに向かっているのか。小学校は、土曜のこんな時間に児童を登校させるはずがない。
車は子供たちとは反対側の車道――シンイチが立っている側――を走行している。平生この道路を通勤に使う車と同様、少々スピードを出し過ぎているきらいはあるが、何事もなく通過していくものと信じて疑いもしない子供たちからは、警戒心が失われている。子供たちの登校時間と被る朝の通勤時間帯などは、大通りへ抜ける近道だということで、制限速度四十キロのところを六十キロを優に超えるスピードを出した車が通行人をかすめるようにして往来している。これまで何もなかったのは、ただ運がよかっただけだというのに。
ライトが揺れているのは、車体がふらついているせいだ。やがて車は――父親のものと同じ黒のセダンであることがシンイチには見て取れた――大きくバランスを崩して、子供たちにヘッドライトを向けた。
急にまばゆい光に背後から照らし出されて、子供たちはその場で足を止め、光源に顔を向けて目を細めた。その顔の一つ一つを、シンイチは確認することができた。
先頭の少女は妹ハルカ。同年代の中では常に小柄なほうに属していた。当然、まだ太ってはいないが、上から押さえつけて縮めたような体躯だ。一同の中では特に幼く頼りなげに見える。
二番目はトーマ。既にこれからどんどん背が伸びる兆しが表れており、ランドセルが似合わなくなっている。意思の強そうなりりしい顔は、まだあどけない。
三番目は元カノのアヤ。超ミニのスカートから伸びた脚は膝下が驚くほど長い。恐らく、身体の急激な成長に衣服を合わせるのが間に合っていないのだ。全体的に華奢で、頭が小さく手足が長い体型はこの頃から顕著で、黄色い帽子の下から流れ出る髪は、帽子の色にマッチさせたかのような蜂蜜色だ。
四番目は、シンイチのマンションでアヤに絡みついていた金髪の男、そして五番目と六番目はすぐには思い出せなかったが、トーマと最後に会ったときに彼の部屋にいた黒髪と茶髪の女子大生――二人とも今は黒髪だ――であることがわかった。
そして七番目と八番目は、子供の顔になっていても見間違いようがなく、シンイチの父と母だった。
九番目は、女の子だ。だがランドセルが不自然に大きく重たげに見えるほど、幼い。恐らく五歳ぐらいだろう。膝丈のスカートが赤いことが街灯の灯りでかろうじて見えたが、その顔は、どこかで会った気がするものの、シンイチには思い出すことができなかった。
背後から近づいてくるまばゆい光に目を細めた全員の顔が、恐怖のためにグロテスクに歪んでいた。ただ最後尾の十番目の子供だけが、相変わらず進行方向を向いて頭を垂れたままだった。
午後七時十二分
制御を失った車がタイヤを軋ませながら対向車線にはみ出した。
まるで吸い寄せられるように子供たちに向かって突進していくその車のハンドルを握っているのは、顔中の筋肉を弛緩させ、知性の一切を失った顔で、大きく開いた口から涎を垂れ流した人物。どれだけ醜く歪み、一瞬で老いさらばえたかのように見えても、それが自分と特徴を同じくする顔であることは否定のしようがなかった。
今、自分はあんな顔をしているのだろうか
シンイチのなかの、麻痺してしまって何事にも動じない部分が冷静にそう考えていた。
ブレーキ音は一度もしなかった。
エンジンのうなる音。
縁石に乗りあげたはずみで前輪を浮かせた鉄の塊が最初の犠牲者――それは列の九番手を務めていた赤いスカートの幼女――をなぎ倒して車輪で轢いたのを皮切りに、次々と子供を跳ね飛ばした。その勢いは先頭のハルカまで達してもなお衰えなかった。民家のコンクリート塀に激突した勢いで車体を半回転させてようやく停止したとき、破壊の音はまだ微かに空気中を震わせていた。
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