第5話 シンイチ
バチェラーパーティーの主役である先輩が当日になって四十度の高熱を出さなかったら、風呂にも入らず一晩中そこらをうろつきまわったために悪臭を放つ体に昨日から着っぱなしのよれよれのスーツを身に纏い、土曜の午後に繁華街を彷徨うなんてことにはならなかったのに、とシンイチは思う。そう濃い方ではない髭もうっすら伸びている。まばらな無精髭は、ただでさえ気が弱そうなシンイチの顔を一層貧相なものにしているはずだった。
それでも手で撫でた感じが意外とさっぱりしているのは、先ほどの定食屋のおしぼりで拭いたからだろうか。だが先の定食屋でおしぼりが出たのかどうか、シンイチには思い出すことができない。
そんなことは、今は全く重要ではなかった。
目下の悩みは、人ごみを縫うように歩かねばならないことで、それがとても煩わしかった。
宴の主役が当日に会社を欠勤したとき、シンイチを含め有志一同騒然となった。しかし、当の先輩が幹事役に電話をかけてきて「夜までに熱を下げて必ず行くから」と言い張ると、大慌てで彼を説き伏せたのだった。
「アホですか、先輩。結婚式を間近に控えて体を壊したりしたら、奥さんに殺されますよ、おれら」
四十度の高熱は気力でどうにかできる範疇を超えている。先輩は「せっかくみんなが準備してくれたのに」と電話の向こうで文字通り涙を流しながら詫びたという。幹事は大慌てで予約していた店にキャンセルを入れた。
結婚式は来月に予定されていた。先輩の婚約者がジューンブライドを望んだので。
「絶対に雨だぜ。日本の気候には合わないんだよジューンに結婚なんて。まあ、結婚式は、女の一世一代の晴れ舞台だからなあ。気のすむようにさせてやらないと、死ぬまで文句を言われ続けることになる。だから、向こうの言いなりだよ」
先輩は口ではそんなことを言いながら、幸せそうだった。お色直しは三回、白無垢もウエディングドレスも両方着て、新婚旅行はヨーロッパ一周。すべて、新婦側の意向を取り入れた結果だ。
「いったい、いつの時代の結婚式だよ」
「豪勢だなあ」
「なんか、奥さんの家が金持ちらしいよ」
「逆玉かあ。うらやましい」
「早くも尻に敷かれてるじゃんか」
「でも、当人喜んでるぜ」
「ドMかよ」
陰でそんなことを言い合い、結婚は人生の墓場、自分は当分気楽な独身生活を謳歌すると宣言する同僚もいたが、(新婦が資産家ということは抜きにしても)シンイチは羨ましかった。
バチェラーパーティーは日を改めてセッティングすることになったものの、せっかくの金曜日で、ノー残業デーでもあった。シンイチは会社帰りに数名の仲間とパーティーをするはずだった店で夕食をとり(ドタキャンを少しでも埋め合わせるためだ)、軽く飲んでから家路に就いた。「ここにも尻に敷かれてる奴が居るよ」という冗談を笑顔で聞き流しながら。
シンイチは元々酒に強い方ではない。付き合いでは飲むが、うまいと思ったことはないし、アルコールで気分が高揚することもなかった。中学生のとき、酒などうまいと思ったことはない、嫌なことを忘れるために我慢して飲んでいるという坂口安吾の随筆を読み、なるほどとひとりごちてから、酒を楽しむ努力をしようなどという気持ちはなくなっていた。
誰もかれもが、嫌々飲んで、楽しんでいるふりをしているのだ。
だが、大人になってみるとそれは必ずしも真実とはいえないかもしれない、と認めざるを得なくなった。特に、先輩の結婚を祝うといった、めでたい席で、皆で少々羽目を外すぐらいであれば、それを心置きなく楽しめた方がよかろう、と。
しかし、ほどほどに留めておくこと、それは言うほど簡単ではなく、常に「この辺でやめておこう」などとほどよく自制をきかせられるとは限らない。悪酔いして失態を演じる大の男や女を見ると、自分はああなりたくない、とたちどころに冷めてしまう。酒に限らず、「中毒」になって溺れることにシンイチは多大なる恐怖を抱いていた。
可能ならば酒とは縁のない生活をしたかったが、社会人の身でそれはほぼ不可能だった。それでも、煙草やギャンブルなど、中毒性が高いものには一切手を出さないことにしていた。「お前みたいな真面目なやつが」と誰もまともにとりあってくれないが、一度でも手を出してしまえばたちまちのめり込んで身を滅ぼすのではないかという恐怖は、少年の頃から常にシンイチの中にあった。
堕落の末の身の破滅は個人の不幸だけに留まらない。当然周囲の人々、家族や恋人、友人まで巻き込んで不幸にするだろう。
そんなことには、絶対に耐えられない。
人知れずそんな不安におののきつつ生きているシンイチが、自分もそろそろ身を固めようかと考え始めたのは、このたびの先輩の結婚の影響が大きかった。シンイチには、温かく心休まる家庭を築きたいという夢があった。「二十四ではまだ早い」と言われることが目に見えていたため、誰にも相談していなかったが、何歳になろうとも自分にはアヤしかいないと思っていた。
それなのに、あの裸体が
午後八時半、主役を欠いて盛り上がりに欠ける会合は早々にお開きになり、シンイチは予想外に早く帰宅し、マンションのドアが薄く開いたままになっているのを発見した。足音を立てないように近づいて耳を傾けると、微かに切れ切れの物音が漏れてきた。一方はアヤの声で、誰かと話をしている様子だった。内容は聞き取れない。たちまち動悸が激しくなり、耳の奥でどくどくと鳴るやかましい音以外聞こえなくなった。
空き巣? 強盗?
不吉な予感に顔を引きつらせ、静かに、しかし素早くドアを引き開け中に踏み込むと、すぐ正面のリビングに、全裸でからみあう男女の姿があった。話し中でも、強盗に脅されて助けを請うている最中でもないことは、一目瞭然だった。
アヤの性行為中の姿を客観的に見るのは初めてだった。
当たり前だ。
今時の若者なら、スマートフォンで簡単に動画を撮影できてしまうため、割と気軽に恋人との情交を記録したりするのかもしれないが、保守的なシンイチはそんなことをしたいとかしようとか考えたことがなかった。リベンジポルノ云々の心配以前に、単に彼にはそのような行為に対して耐性がなかった。ヌード画像ぐらい、今日日はネットに氾濫しているが、好きな人の裸というのは、流出の危険があるような脆弱な媒体に保管してよいものではないと思っていた。大事なものなら、記憶に留めておけば十分だ。
だから、高校生のときに自撮りした下着姿の写真をLINEで送ってきたアヤを、シンイチは日頃穏やかな彼に似合わずこっぴどく叱りつけた。
「酔っぱらってふざけただけだよ」
「高校生のくせに、酒なんか飲むのか」
「カクテルをちょっと啜っただけだよ」
「バーなんかに行ったのか」
「付き合いだよ、友達が年上の彼氏を見せびらかしたいっていうから。会社員なんだよ」
「どういう彼氏なんだ、未成年に酒を飲ませるなんて」
「あーもう、真面目すぎていやんなっちゃう」
そのときの写真は、すぐにシンイチの携帯から消去し、アヤにもそうさせた。当時二人の間にはまだ肉体関係がなかった。高校生男子である。女性の体に興味がなかったわけではないが、軽率な女だと、このときは微かに不快感を覚えた。
「ぼく以外の男にも、あんな写真を送ったことがあるのか?」
「あるわけないじゃん、バカじゃないの? ちょっとふざけただけなのに」
あのとき自分は、信じたいから彼女の言葉を信じた。
しかし、実際はどうだったのだろう。アヤの浮気を疑うことは度々あった。悪い噂は、幾度も耳にした。親切そうな助言も何度か受けた。それでも、今回のような決定的な現場を目にしたことはなかったために、アヤが言う通り、ただの遊び仲間――カラオケや飲みに行ったりするだけ――なのだろうと、最終的には納得していた。
だが、今となっては、噂はただの噂ではなかったのか、と思わざるを得なかった。
あいつは、内心嘲笑っていたのだろうか。同棲中の彼女に間男を引き入れられても気付かない間抜け、と。
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