第4話 アヤ
男の方はやたら興奮していたが、アヤはいつもと違う荒々しい手で体をまさぐられて普段より大袈裟な声をあげながらも、美容師は金髪に近い髪を肩まで伸ばしているため、あとで念入りにカーペットにコロコロをかけ、消臭スプレーもかけなければならないとか、部屋の空気を入れ換え、絨毯やクッションに染みこんだ体液をふき取らなければ等々事後処理のことばかり気になってしまい、やはりラブホテルかカラオケボックスにでも行けばよかったという後悔の念に苛まれ、期待したほど盛り上がれなかった。
そもそも、シャワーも浴びずに……というのがアヤには不満だった。相手がシンイチならばまだ我慢できるのだが、シンイチもアヤ同様事前に体を清潔にしておくことを好むタイプだから、こんな不快な思いをすることは、まずないのだ。
しかし、行為が進む内に、玄関のドアが開く音に気付かない程度には、アヤも熱中していたのだ。もし気が付いたとしても、玄関のドアを開ければリビングは丸見えなのだから、成す術がなかったのだが。
せめてチェーンをかけておけば、時間を稼ぐことができたのに
午後八時半、シンイチは予想外に早く帰宅した。
玄関にサラリーマン風の若い男が立っていることに先に気付いた男の方が「うわっ」と叫んで乱暴に体を引きはがした。
明かりは点けたままだった。
汗や他の体液にまみれててらてらと艶めかしく光る体を無様に晒す自分に対して、シンイチの方はシャツやズボンを履いている(当たり前だが)、それがアヤを激高させた。
「なに見てんのよ!」
放心して立ち尽くしているようにも見えるが、眼鏡のせいで表情がよくわからないシンイチを睨み付け、アヤは吐き捨てた。
「このぐらい、誰だってやってるわ」
無言で背を向けたシンイチに、アヤは更なる追い打ちをかけた。
「逃げるの?」
そんなことを言える立場でないことはわかっている。でも、他にどう言えばよいのだ。くだらない男との情事のために一番大事な物を失ったバカな女は。
間男が這う這うの体で逃げ帰っても、アヤは全裸で座りつくしていた。シンイチが戻って来る前に荷物をまとめて出て行かなければならないと思うのだが、体が動かなかった。
土下座して謝れば許してくれるだろうか、泣いて縋りつけば、あのお人よしのことだから、最後には許してくれるかもしれない。だが果たして、それで元の関係に戻れるのだろうか。
無理だ
いくらなんでも、それは無理だろう。アヤにだって、それはわかっている。
シンイチと初めて体の関係を持ったのは、高校の卒業間近の冬だった。
交際を始めて丸二年も経過していた。勿論、誘ったのはアヤの方。母親がパートで留守の間に、アヤの部屋で。シンイチは初めてのことに緊張しすぎて青い顔をしていたが、他の男たちのように、自分本位でアヤを乱暴に扱うことはなかった。いやじゃないか。痛くないか。そんなことを気にかけてくれる男は初めてだった。
あのとき初めて、本当に心からシンイチのことを好きになったのかもしれない、とアヤは思う。そう、愛だとかそんな、アヤが子供の頃から軽蔑してきたものの存在を、認めざるを得なくなった。
それでも、たまに息抜きをすることは、その後もやめられなかった。シンイチは真面目すぎるのだ。だけど、あのときからずっと、本当に好きなのは、シンイチだけだった。いちいち数えていないので、一体何人と関係を持ったのかわからないが、どんなイケメンでも、どんなお金持ちでも、どれだけアヤを気持ちよくさせてくれたとしても、アヤはあの、はにかんだ笑顔を浮かべるシンイチと一緒にいるときが一番落ち着けるし、幸せだった。だからこそ、こんなことは今回で最後にしようと思っていたのに。
だけど、もう手遅れ
つい浮かれて、はしゃいでしまったのだ。嬉しかったから。普段の自分はここまでうかつではないのに。心の底から己の軽率さを悔やみ俯いたアヤの目が、キラキラと光るものを捕えた。
蝶々
それは、行為の最中はキラキラと光を反射しながらせわしなく飛び回っていたくせに、今は体の横に力なく垂れ下がったアヤの手にとまったまま、動かない。
アヤは無意識的に、右手で耳たぶに触れた。
普段大人しい人ほど本気で怒らせると怖い。そう聞いたことがある。ならば、怒りに燃えたシンイチが戻って来て、キッチンの包丁を手に取り……なんてことも、あり得るかもしれない。とにかく友人の家にでも一旦避難して、お互いに頭を冷やすべきではないのか。
それでもアヤは動けなかった。
いっそのこと、怒りに我を忘れたシンイチに二、三発殴られて鼻の骨でも折れば、正気に返った彼の方から「すまない」と詫びてくるかもしれない。シンイチは女性に暴力を振るった自分を許さないだろう。浮気をしたアヤ以上に、野蛮な己を呪うはず。それでもいい。そんな歪んだ関係でも、シンイチを失わずに済むのなら、自分は耐えられる。
そうしてアヤは、電話の着信がないか、メッセージが届かないか、あるいは本人があのドアのところに現れないかと、クッションを抱きかかえて泣きながら待った。
ただひたすら、待ち続けた。
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