第12話 シンイチ&トーマ

 トーマは若い女二人の肩を抱いてシンイチの元に戻った。一人は黒髪のロングヘア、もう一人は栗色のセミロング。車内の騒音もあり、二人とも大学生だと短く紹介した。

 これからトーマ宅で飲み直し会を開くと説明すると、シンイチは一瞬眉間に皺を寄せたものの、異を唱えなかった。もうどうにでもなれという顔をしており、実際にそのような境地にあった。

 トーマは既にロングヘアのほうと意気投合しており、二人は顔を寄せ合っていちゃいちゃし始めた。黒髪の大人しそうな見た目に反して、トーマから腰に腕を回されても抵抗しなかった。酔いが回っているのか、トーマが何か言うたびに、けたたましい笑い声をあげながら、しきりとトーマの腕や胸を触る。

 一方、茶髪のほうは、酒を飲み慣れていないのか、トロンとした目で薄笑いを浮かべ、電車の揺れによろめいた拍子にシンイチに寄りかかり、肩に頭をもたれさて目を瞑った。話をしなくて済むので助かったと、シンイチは胸を撫で下ろす。


 この調子なら、もう少し飲ませれば寝るのでは。


 あるいは、自分が前後不覚に酔っぱらってしまえば。そうすれば、このろくでもない長い一日を終えて、夢の中に逃亡することができる。今シンイチが切望しているのは、墨汁の中に溶け込んでいくような眠りだ。


「お前まさか、この状況で据え膳食わずに逃げ出すってことはないよな?」


 電車を降りる際に小声でトーマに訊かれると、シンイチは前を向いたまま頷いた。


「お前の家に酒はあるんだろうな」

「あ?」

「強いやつ」

「んん?」

「飲まずにいられるか」


 トーマは満面の笑みを浮かべると、シンイチの肩に手を回しぎゅっと握った。

 途中コンビニに寄り、缶チューハイやビールをしこたま買い込んで、四人は陽気にトーマのアパートになだれ込んだ。築五十年近い鉄筋の建物で、家賃が安いのと仕事場の工場に近いという理由から、かれこれ四年ほど住んでいる一階の角部屋。シンイチも何度か訪れたことがある。

 ドアポストから飛び出しているちらしや郵便物を掴み取り、トーマは三人を中に招き入れた。室内は意外とセンスの良い上品な調度品が几帳面に配置され、こざっぱりとしている。見た目からは窺えないが、トーマは神経質で、きれい好きだ。世話焼きタイプの女が掃除をしたがるなら黙ってさせておくが、一人きりでも室内は常に片付いていた。


「わあーすごい、レコードなの、これ全部! 実物初めて見た」

「酔っ払いは触るな」

「ええー、ケチぃ。いいじゃん、ちょっとぐらい」

「ダメだ」


 アルコール度数の高い缶チューハイを片手に、ふらふらと部屋の壁一面を占めているステレオと棚に近づいていった黒髪の手を掴んでトーマは引き寄せた。

 シンイチが初めてトーマの「コレクション」を見せてもらったのは、彼等がまだ実家に暮らしていた少年の頃で、元は父親が蒐集したものだと言っていた。大きな厚紙のスリーブケースの中から大切そうに取り出した黒光りするそれを目にしたシンイチは、受け取るのを躊躇い、言った。


「まず、手を洗ってきていいかな」


 シンイチの場合、その情熱は書物に向けられていた。彼は自分の蔵書をとても大事にしていた。汗で湿った手では触らないし、何かを食べながら読むというのも厳禁だ。コーヒーを飲みながら読むのは、ぎりぎり許容範囲内だが、水滴を浮かべたチューハイの缶を手にした酔っ払いになど、絶対に触れせたくない。そのルールを、トーマの宝物にも瞬時に適応させたシンイチは、トーマの更なる信頼を勝ち得たのだった。

 その蔵書が今どうなっているか。間男と情事に耽っているところを見つかって逆切れ気味に彼のことを詰った淫乱な元カノは彼の書物に対する愛着を十分承知しており、今猛烈に彼に対して腹を立てている――


「えっ、ちょっとぉ、やだあ」


 床に直接胡坐をかいているトーマの膝の上に載せられて、黒髪の女はけらけら笑っている。横座りしてスカートが膝上までずり上がっているが、気にとめない。レコードに対する興味も完全に失ったようだ。

 茶髪のほうは、口数少なくローテーブルの上に並べられた缶や瓶の中から日本酒のカップ酒を開けてぐいぐい飲んでいたが、気が付けばカーペットに横たわって半眼で天井を見上げている。

 この調子なら、じきに寝てしまうだろうとシンイチは胸を撫で下ろし、自分も前後不覚になるべく、普段は飲まない梅酒を紙パックからコップに注いで飲んだ。

「あ、梅酒ー」と寝転がっていた茶髪がむくりと体を起こし、シンイチの手からコップを奪って飲み干すと、「やだ、部屋がぐるぐるまわってる」とシンイチの膝の上に倒れ込んだ。


「なんだよ、もうダウンか。そっちの部屋に移ってもいいんだぞ。お前も顔真っ赤だし」

「いや、まだ大丈夫」


 トーマの言う「そっち」とは、襖で仕切られた寝室だ。シンイチは膝の上に突っ伏した茶髪の頭をそっと下してクッションをあてがった。水を飲ませてやりたいが、元気を回復されては困るので、放置しておくしかない。明日の朝最悪の頭痛で目覚める程度で済みますように、と祈る。


「その子、お酒に弱いのよぉ」とこちらはトーマの膝の上に載ったままの女が、今はワインを口に運びながら、言った。

「だから、朝になったら何も覚えてないと思うよ、そこの眼鏡男が何をしたとしても」


 それはよかった、とシンイチは薄笑いを浮かべ、調子をあわせた。


「その子、大学デビューなの。今割といけてるのは、全部あたしのお陰なんだ。でも、どっかあか抜けないっていうか……それで、ずーっと彼氏ができなくて。信じられる? 今時さあ」

 

 呂律が相当怪しくなっており、これはもう「泥酔」と呼んでいい状態だろう。トーマはシンイチの視線に気づき眉を上げて見せると、女のグラスにワインをなみなみと継ぎ足した。


「飲めよ。友達の悪口を本人の前でぶちまけるようじゃ、酔いが足りねえな」

「友達じゃないもーん。試験前にノートを借りるのに便利だし、一緒に居たら、ほら、あたしが引き立つじゃん?」黒髪がけたたましい笑い越えをあげ、ワインがこぼれて剥き出しの腿にかかったが、彼女は気にしない。

「うるせえぞ、お前。ちょっと黙れ」


 トーマはグラスを握る女の手を掴み、強引に口元に持っていくと、ワインを勢いよく口の中に注ぎ込んだ。女はごくりと大きく喉を動かしたあと、激しくむせた。

「なにするのよう」

 涙目で訴える女の顔に、トーマは優しくティッシュを押し付け、それから太腿のストッキングに染みを付けたワインを丁寧に拭った。


「ああ、悪かった。だが、悪口はもうたくさんだ。これ以上言ったら放り出すぞ。今日はむしゃくしゃしゃしてるんだ。楽しく飲ませてくれよ」

「うん、わかったー。なんでむしゃくしゃしてんの? 誰かにフラれた? そんなワケないか。あんたをフる女なんていないよね」

「そうでもないさ。まあ、飲めよ、いい子だから」


 既に機嫌を直した女は、ワインを啜った。顔を輝かせて「そうだ」、と一声、グラスをテーブルの上に置き、トーマの膝の上から立ち上がると、無造作に放り投げてあったバッグに向かって一歩踏み出した途端に、よろめいた。 

「飲ませ過ぎだ」と静かに呟いたシンイチに、トーマは肩をすくめて見せた。

 派手に転んでスカートがまくれ上がったのも気にせず、女は体を起こしながら伸ばした手でバッグを掴み、トーマの隣まで這いつくばって戻った。


「いいもの持ってんだ、あたし」


 酔っ払い独特の口の中に何かを突っ込まれているかのような口調で、女は言う。真っ赤な顔でカラーコンタクトが片方だけ外れ、瞳孔が開いた瞳が危険なほどギラギラ光っていた。化粧道具の入ったポーチやスマホ、財布などを放り出しながらバッグのなかを探っていた女は、にんまり笑って、手のひらサイズの包みを取り出した。


「今日の合コン、しょぼい男しかいなくてがっかりだったんだけどぉ、あたしをヤる気満々だった野郎から、これ、せしめてやった」


 ローテーブルの上に載せられたアルコールドリンク類を乱暴に押しのけてスペースを作ると、女は透明なジップ付プラスチック・バッグに包まれたものを置いた。バッグの中には、さらに一回り小さい透明バッグに封入された干からびた何か、チューンガムに似た平べったい紙の包み、そして百円ライターが入っていた。


「これで、いやなことぜえーんぶ吹っ飛ぶんだって」

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