今日、不登校中の児童の列に……
春泥
第1話 シンイチ
キラキラと光る蝶が、虚空で二、三度円を描いて、ふわりと床に降り立った。
ほんの少し、踊るように小刻みなステップを踏んだが、僅かに
* * *
はじめは、ああ、またか、という感想。
昼時だというのに閑散とした定食屋で、シンイチは壁際に設置されたテレビに背を向ける席を選んだ。
どこにでもあるような、小汚い外観とそれにマッチした内装。古びた木製のテーブルと椅子は角ばって重苦しい。全体的に薄汚れているという印象は、壁やメニュー、テーブルといったあらゆるものが油っぽく黒ずんでいることによるもので、恐らく見た目ほど不潔なわけではない。こういう店は、おいしいうどんや丼ものをリーズナブルに提供するか、恐ろしくまずいものをほどほどの値段で押し付けて来るかのどちらかだろう。
床をこすり不快な音を立てながら椅子を後ろに引いたシンイチは、心ここにあらずの状態に置かれている。そしてほとんど無意識的に、尻ポケットからスマートフォンを取り出すと、一瞬躊躇したあと、ディスプレイを下にしてテーブルの端に置いて、大袈裟な溜息とともに腰をおろした。
ダークグレーのスーツに白のワイシャツ姿、しかしネクタイはしておらず、シャツのボタンは三番目まで外れて、白い下着が見えている。よく見ると、一番上のボタンが千切れて糸が飛び出していた。丁寧になでつけてあった髪も、今はだらしのない印象を免れないほど乱れている。座り心地の悪い椅子の背もたれに弛緩しきった体を預けた姿からは、二十四歳という年齢にそぐわない疲労が色濃く滲み出ていた。
まばらな客のなかでスーツ姿はシンイチ一人であったが、誰も彼に注意を向けない。店員ですら、この飛び入りの客に興味が持てないようであった。シンイチ自身、捨て置かれることを望んでいるように見える。
ああ、またか。
背後から聞こえてくるテレビの音声。どうやら先ほどから同じニュースを繰り返しているようだ。
しかし、アナウンサーが機械的に読み上げる言葉は、シンイチの耳に入ると同時に零れ落ちてしまい、彼はそこに内包される意味を汲み取ることが出来ないでいる。まるで、異国の言葉を聞かされているようだった。
ダレダッテヤッテルワ
夕べの記憶が一瞬甦ってくる。あれも、シンイチには理解できない言葉。そして、意味を成さない光景。
慌てて居住まいを正したシンイチは、目の前に湯呑が置かれ、猛然と湯気を立てていることに気付いた。両手で包み込むようにすると、陶器の表面から伝わる熱に指先を焼かれて、少し平静さを取り戻した。
機械的にテーブルの上に置かれていたメニューに手をのばし、つまらなそうな顔をした店員に何やら注文した記憶はあったが、それが天ぷらうどんだったか親子丼だったかは思い出すことができない。食欲がないのでザルそばなんぞを頼んだかもしれない。食欲なんかあるわけがないのだが、朝食を抜いてしまったし、食べないわけにはいかない。明日も明後日もその先も、彼は生きていかなければならないのだから。
だが、何のために?
聞こえよがしに大きな溜息をついたのが自分であることに気付き、シンイチは少しうろたえた。一体何のアピールか。そんなことをしても、誰も助けてはくれないのに。
ああ、また同じニュース。
これだけ繰り返されれば、聞く気のないシンイチにもおぼろげながら事件の全体像が把握できていた。
それは疑いようもなく悲劇的かつセンセーショナルではあったが、昨今ではそれほど珍しくない事故だった。登下校中の小学生の一群に車が突っ込んだと、ひとは生涯において何度耳にするものだろう。
一度そのような事件が発生すると、連鎖反応のように類似事件が相次いで発生する。原因は高齢者による運転ミスから違法ドラッグの乱用による錯乱まで様々で、今回の事故は、シンイチが覚えているだけでも今年に入って三件目だった。
幼い命が犠牲になった痛ましい事故とはいえ、大抵の視聴者は「またか」という以外にはもはや特別な感慨を抱けないでいるのではないか、と彼は思う。無論、そんなことを口に出してはいけないのだが。
しかしテレビでは、シンイチのような一視聴者の興味の有無には頓着せずに、先程からこのニュースを繰り返し伝えていた。実況リポーターが現場から生中継しているが、新たな情報はなかなか入らない。それで結局、同じニュース映像を繰り返し再生しているような、怠惰な感じに陥っていた。
そら、また、はじめから。
「先ほどからお伝えしているように、今日午後七時過ぎ、乗用車が歩道に乗り上げ、不登校中の児童の列に突っ込み、二人が撥ねられました。二人はいずれも、搬送先の病院で死亡が確認されました」
若い男性アナウンサーが、感情を交えず淡々と原稿を読み上げた。
今回はたった二人かなどと考えてしまう自分にシンイチは嫌悪を覚える。いくらこの手の事件が最近多いとはいえ。ただ道を歩いていただけの子供だ。その子の親にとっては、かけがえのない我が子。
遅ればせながらニュースに興味を持ったシンイチが、テレビが見えるようにテーブルの反対側の席に移動したところで、くたびれた感じの中年女性がシンイチの目の前に生姜焼き定食を置いた。ご飯と味噌汁、サラダとお新香付き。シンプルだが、かなりのボリュームだ
豚肉があまり好きではない自分が本当にこれを注文したのだろうか、とシンイチはしばし湯気の立ちのぼる皿を見据えたが、軽く首を振ってから割り箸に手を伸ばした。あまり好きではないといっても食べられないほどではない。食べ物の好き嫌いはしないように、その辺は割と厳しく躾けられてきた。面倒を起こすより、さっさと食事を済ませてここから出たかった。
テレビ画面では、カメラが現場からの中継に切り替わり、興奮気味の男性リポーターが、車の往来の激しい対面通行の道路を挟んだ此岸から、彼岸で歩道に乗り上げて大破した黒塗りのセダンを右手で指し示しながら、大袈裟な身振りを交えて、言う。
「今日の午後七時過ぎ、こちら側を走っていた乗用車が何らかの理由であちら側に進路を大きく逸れ、そのまま歩道に乗り上げ、不登校中の子供達を次々と撥ねました。撥ねられた二人は病院に運ばれましたが、搬送先の病院で二人とも死亡が確認されました」
なんだって?
シンイチは、咀嚼中の豚肉のことを一瞬忘れた。
今、なんと言った。「今日の午後七時過ぎ」? まだ昼間だというのに、一体何を言っているんだ?
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