第2話 シンイチ
改めて壁際、天井に近い位置に設置されたテレビ画面に目を向ける。画面は小さく、眼鏡を外したらシンイチには何も見えなくなるだろう。無意識のうちに細い指がこめかみをさすっていた。
中継先の事故現場では、既に日が暮れて暗くなっている。問題の事故車は、ライトアップされた光の中で、フロント部分が大破した無残な姿を晒していた。車の往来が途絶えた道路には、寂寥感が漂っている。
「ブレーキ痕はありませんでした。撥ねられた二人の児童は、病院に運ばれましたが死亡が確認され、いずれも即死だったということです」
溜めていた息をゆっくりと鼻から吐き出したシンイチは、思い出したかのように豚肉の咀嚼を再開したが、味は全くしなかった。
勿論、これには論理的な説明がつくはずだ。
この事件は今日の出来事ではなく、昨晩発生したもので、昨日録画・放送された実況中継が今再放送されている、とか。なにしろ自分は、夕べはテレビを見るどころではなかったから、ビッグニュースを今まで見逃していたとしても不思議はない。
あられもない姿で絡み合う男女の姿が暗い奥底から湧き上がってくるのを、シンイチは素早く押し戻した。今は、考えたくない。
しかし、スタジオのアナウンサーが現場中継のリポーターと会話を始めたので、シンイチの仮説はたちまち覆されてしまった。これは録画ではない。生放送、生中継だ。
「タナカさん、最近同様の事故が立て続けに発生していますね」
「はい。つい二週間前にも、集団不登校中の児童が三人撥ねられて亡くなるという、痛ましい事故が埼玉であったばかりです。そして、二ヶ月前にも、不登校児童が犠牲になる事故がありました」
シンイチの咀嚼がまた止まった。眉間に深い皺が寄っている。
今、「不登校児童」と言ったか? 不登校中の児童? 登校中ではなくて? 不登校児童とは、何らかの理由で学校に行かない児童という意味のはずで、そもそも学校に登校しないのだから、集団で事故に遭うことなどあり得ないだろうに。それとも、不登校児童が参加する特別学級みたいなものがあって、皆でそこへ向かう途中だったとでもいうのか。不登校中の児童が登校中に事故に遭うなんて、かなりシュールだ。
しかし、アナウンサーもリポーターも、至極当然という真剣そのものの顔で会話を続けている。
「このように悲劇的な事故が繰り返される要因は何でしょうか」
「はい、今回の事故も含めて、このような悲劇の背景には、ある共通する」
唐突にテレビの画面が切り替わり、毎日どこかしらの番組で見かける女性タレントの顔が映し出された。
「もうっ、いい加減にしてくださいよおー」
と大袈裟に顔の筋肉を動かして笑っているシグナルを発し、両手を何度も打ち鳴らす没個性的タレントの一人。
先程シンイチのテーブルに生姜焼き定食を運んできた女が、退屈そうな顔でリモコンを操っていた。底なしの無表情。虚無。まるで感情がないみたいな。
ニュース番組に戻してほしいと直訴するほどの興味はなかったので、シンイチは生姜焼きの咀嚼に集中することにした。
そういえば、今日は土曜日じゃないか。
不登校中だろうと登校中だろうと、小学生の列に車が突っ込んだのであれば、それは本日発生したこととは思えない。だが、中継映像が録画だったとしても、スタジオのアナウンサーは生放送でニュースを読み上げているはずではないのか。あのアナウンサーは中継先のリポーターと会話していた……
色々不可解ではある。しかし、最初から最後まで集中してニュースに耳を傾けていたわけではないから、多分、どこかで勘違いをしたのだろう、とシンイチは自分を納得させる。
自分は今、とても他者の悲劇に同情していられるような状況ではないから。
裸の男女
一糸纏わぬ姿の
女は、シンイチの交際相手アヤであった。
背後から男に絡みつかれ、首を後ろにのけぞらせていた。それが彼女であることが、すぐにはわからなかった。そこはシンイチが借りているマンションの一室なのだし、アヤ以外の女であるはずがないというのに。だが男の方は、シンイチとは面識がなかった。四十の手前と思われるのだが、派手な色に髪を染め、妙に若作りな感じの。
「このぐらい、誰だってやってるわ」
アヤのはずだがアヤのように見えない女が、玄関に立ち尽くすシンイチに向かって金切り声をあげた。
そんなことはないだろう、とシンイチは思うのだが、反論の言葉は喉にはりついたまま出てこない。シンイチは無言のまま踵を返した。
「逃げるの?」
お前らが衣服を身に着けるまでじっと待っていろとでも?
アヤが半ば強引にシンイチのマンションに押しかけてくる形で同棲状態になっていたのだから、出て行かなければならないのは本来アヤと間男の方なのだ。
だがシンイチは、慌てて繋がっていた体を引きはがしたものの、前を隠そうともせずに睨み付けてくるアヤの視線に耐えきれず、部屋を飛び出したのだった。それきり、自宅には戻っていない。
いつの間にか、生姜焼き定食のお盆がテーブルの上から消えていた。シンイチには食べ終えた記憶がなかった。本当に生姜焼きを食べたのかどうかさえ自信が持てなくなり、唇や口内をそっと舌で舐めまわしてみたが、何も感じ取れなかった。
ぽつりととり残された湯呑を引き寄せてももはや温かみはなく、飲んだ記憶もないのに中身は空だった。お茶のおかわりをもらおうかと思ったが、無表情にテレビを見つめている店員に声をかけるのがはばかられた。
シンイチは立ち上がって伝票を掴むと、電源を切ったままのスマートフォンの黒い画面をちらりと見やってから尻ポケットにねじ込んだ。
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