秘密の花束
藤野 悠人
秘密の花束
ジャックが新聞の片隅にその記事を見つけたのは、日曜日の朝のことだった。小さな見出しが、記事の三分の一を食ってしまっている。見出しはこうだった。
『145年間、供え続けられていた墓の花、ついに枯れる』
ジャックは新聞をテーブルに置いた。
「カレン、ちょっと出かけてくるよ」
「あら、今日はお休みでしょう?」
妻のカレンは自分のコーヒーをマグカップに注ぎながらそう言った。
「いや、ちょっとね。大した用事ではないよ。昼過ぎには戻る」
「分かったわ」
ジャックは、まず親友に電話をかけた。
「ビル、僕だよ。新聞は見たかい? うん、今から彼女の墓参りに行こうと思ってね。……うん、じゃあ、あとで」
電話を切ると、ガレージから車を出して、自宅から2時間ほどの
ジャックは今年で47歳になる。妻と三人の子ども達と一緒に、忙しくも穏やかな生活を送っていた。上の二人の子どもはすでに就職し、末っ子で唯一の女の子のルーシーも、今は高校生だ。
故郷への田舎道は寂しかった。最近工事があったらしく、道路の舗装は新しくなっていたが、すれ違う車はほとんどなかった。
窓を開け、爽やかな朝の匂いを嗅ぎながら、ジャックはため息をついた。そして、子どもの頃のある夏休みのことを、黄ばんだノートを丁寧にめくるように思い返した。
―――
35年前の7月。ジャックが通う小学校も夏休みが始まった。ホームルームだけの短い学校の時間が終われば、子ども達は一斉に外へ飛び出した。
ジャックは、小さな頃からの親友・ビルと共に、サッカーボールを蹴りながら帰っていた。
「なぁ、ジャック。今年こそ、墓場の謎を解いてやろうぜ!」
ビルはニヤッと笑いながらそう言った。ビルの言う『墓場の謎』とは、街外れの『カール・ストリート霊園』にまつわる噂だった。子ども達の間では有名な噂話である。
そこでは、ある女性の墓に、とても長い間、花が供え続けられているらしい。正確な年数は分からない。10年だと言う子もいれば、50年だと言う子もいる。もう少し年上の子たちは、100年だと言っていた。
大人達は、子ども達が小さい時から、夜のカール・ストリート霊園に行ってはいけないと教えていた。月の綺麗な夜は、特にダメだと言う。子ども達が理由を尋ねると、怖い妖怪に食べられてしまうから、と言われた。
「妖怪なんて、いまどき本当にいるのかな」
眉を八の字にしながら呟くジャックを、ビルはからかうように笑った。
「なんだいジャック坊や。12歳になっても、まだ妖怪を信じているのかい?」
「妖怪は信じてないよ」
ジャックは笑いながら返したが、すぐに真剣な表情に変わる。
「でも、みんな大人になると、あの霊園のこと、なんにも教えてくれないんだよね」
「そうなんだよ。それが一番気になるんだよなぁ」
この町では、みんな高校を卒業すると、驚くほどカール・ストリート霊園の話をしなくなる。そして、彼らも子どもが生まれたら、必ずこう教えるのだ。
夜のカール・ストリート霊園に行ってはいけない、と。
「怪しいよなぁ」
「怪しいんだよねぇ」
翌日。夜がダメなら、昼は良いのではないかと、ジャックとビルは自転車に乗って、カール・ストリート霊園を目指していた。
暑い日だった。真っ青な空の舞台で、太陽が元気よく歌っている。
カール・ストリート霊園は、二人が住んでいる場所から少し遠い。自転車で町を通り抜けるとき、同じ小学校の子を何人も見かけた。みんな、サッカーボールやスケッチブックを持って、思い思いの夏休みを過ごしている。
霊園に近付くにつれて、だんだんと町の音が遠ざかる。どんどん別の世界へ向かうような気持ちになる。
霊園の近くには、カール川という長くて大きな川がある。二人は、カール川に架かる大きな橋の下に、自転車を隠すようにして置いた。橋を渡ってほんの少し歩けば、そこはたくさんの十字架や、石の墓標が立つ場所――カール・ストリート霊園だった。
入り口に着いたところで、ジャックはふと気付いた。
「ねぇビル、お花がずっと供えられているのって、誰のお墓?」
「え、知らねぇよ。ジャックは?」
「僕も知らない」
二人はぽかんとした表情で顔を見合わせる。そして、次の瞬間には大声で笑い出してしまった。眼鏡を掛けたおじさんに、墓の近くで騒ぐな、と怒られてしまった。おじさんは、この霊園の管理人のようだった。
「ねぇ、おじさん。ここでずっと花が供えられてるお墓ってどれ?」
ビルはしれっとした表情で尋ねる。
「そんなもん、たくさんあるよ」
おじさんは面白くなさそうに答える。
「そうじゃなくて、もうずーっと長いこと。10年とか、50年とか、それくらい長く花が供えられてるお墓だよ」
おじさんは眉をピクリと動かしてビルを見た。しかし鼻を鳴らすと、
「そんなもん、たくさんあるよ」
と、全く同じことを言った。
「ここはな、亡くなった人たちが静かに眠っている場所だ。子どもの遊び場じゃない。坊主たちの学校で変な噂が流れとるのは知っとるが、ただの噂だ。冒険するなら、よそへ行きな」
ジャックは、おじさんが何かを隠しているような気がした。
「ねぇ、おじさん。パパやママは、夜にここに来ちゃダメだって言うけど、大人だったらいいの?」
「いいや、大人もダメだ。夜は立ち入り禁止だからな」
おじさんは迷惑そうにそれだけ答えると、二人を霊園から追い払ってしまった。
「あのおじさん、絶対に何か隠してる」
「俺もそう思った。父さんや母さんが、ここに絶対に来るなって言う時の感じに似てる」
「それに、僕たちを追い出すときも、なんていうか……」
「知られたらまずいことがある、みたいな雰囲気だったな」
二人は橋の下から自転車を出すと、来た道を戻りながら話し続けた。
「とにかく、噂のお墓が誰のものなのか突き止めなくちゃ」
「でも、あの数見ただろ? 何百人分もあるぜ」
ビルの言う通りだった。二人がどうしようかと頭を悩ませているうちに、町内にある大きな公園に差し掛かっていた。
サッカーコートの近くで、同じクラスのスティーブが手を振っている。
「ヒマだったらサッカーやらないか? ちょうど二人足らないんだ」
結局その日は霊園のことも忘れて、日が暮れるまでみんなでサッカーをした。
―――
翌日。ジャックとビルは、町の真ん中にある図書館を訪れた。町の歴史を調べれば、何か分かるかも知れないと考えたのだ。
しかし『町の歴史』のコーナーを訪れた二人は、げんなりした表情を浮かべた。
二人の三倍近い背丈の本棚には、大きさも厚さも様々な本がぎっしりと入っていた。しかも、そんな本棚がいくつもある。
「うげー、こんなにたくさんあるの? 俺、見てるだけで疲れそう」
普段まったく本を読まないビルがぼやく。
「僕もだよ」
ジャックもそう答えた。ビルに比べれば読書家だったが、歴史は苦手な科目だった。テストはいつも、落第ギリギリだ。
二人が並んで肩を落としていると、顔がそばかすだらけの女の子と目が合った。隣のクラスのミシェルだった。
「あら、こんにちは。ジャックはともかく、ビルが図書館にいるなんて珍しいね」
ミシェルはそう言って、ふにゃっと笑う。彼女が笑うと、そばかすも一緒にふにゃっと動く。
「ジャックと一緒に調べたいことがあったんだよ。でも、町の歴史の本がこんなに多いなんて知らなかった」
「へぇ、なんで? 自由研究?」
ビルは答えにくそうにモゴモゴしている。
「そういえば、ミシェルはなんでここにいるの?」
見かねたジャックがそう訊いた。
「夏休みの自由研究。町の歴史にしようと思ってるの。もともと、興味もあったし」
ジャックは、ミシェルの好きな科目が歴史だったことを思い出した。ビルにそれを耳打ちするが、ビルは気が進まなそうだ。
「俺たちで墓の謎を解こうって言ったじゃないか。それに、女子を誘うなんて嫌だぜ」
「でも、歴史好きなミシェルに協力してもらったら、きっと霊園のこともすぐに分かるよ? それに、ミシェルは他の女の子たちに、秘密を話すような子じゃないし」
ビルは、男同士の秘密を持つのが好きな性格だった。もちろん、ミシェルが噂好きな女の子なら、ジャックも誘おうとは考えなかった。しかし、4年生で一度、同じクラスになったときに、ミシェルが他人の秘密を話すような子じゃないことを知っていたのだ。
「なぁに、二人でこそこそして」
ミシェルは首を傾げている。ビルはまだ悩んでいたが、結局ジャックの考えに賛成することにした。
「あのね、ミシェル。僕たち、カール・ストリート霊園の噂のことを調べたいんだ」
「それって、ずっとお花が供えられている、お墓のこと?」
同じ学校なので、ミシェルも噂はよく知っていた。
「うん。でも誰のお墓なのか分からないし、管理人のおじさんも何も教えてくれなかったんだ。でも、ずっと花が供え続けられているなら、古いお墓だと思うんだよね。霊園がいつ頃できたのか分かったら、だいたい、誰のお墓か分かるかなって思って」
ジャックの説明を聞いたミシェルは、なるほど、と頷く。
「面白そうね、私も混ぜて。このへんの本棚のことならだいたい分かるし、力になれると思うよ」
ジャックは、ミシェルのふにゃっとした笑顔を、とても心強いと感じた。
それから毎日、三人は図書館が閉館するまで、町の歴史を調べた。ミシェルが選んでくれた本を、三人で片っ端から読んでいく。少しでもカール・ストリート霊園に関係しそうなことは、どんどんメモしていった。その間に宿題もやった。ビルは、特に嫌いな算数の宿題が去年よりも多いことに、ひどくご立腹だった。
気付けば8月になっていた。調べ続けた甲斐あって、三人はカール・ストリート霊園について、とても詳しくなっていた。
霊園ができたのは、今から120年ほど前らしい。ちょうど三人の年齢の10倍も昔から、あの霊園は、この町で亡くなった人たちの眠る場所として存在していたのだ。
「俺たちの10倍かぁ……想像つかねぇや」
ビルは、そう言って天井を見上げた。ジャックもミシェルも、ビルの言葉に頷く。
120年前と言えば、彼らのおじいちゃん、おばあちゃんよりも前ということだ。まだ12歳の三人にとって、それは途方もない年月に感じられた。
そのとき、ビルが唐突にこんなことを言った。
「よく考えたらさ、あの霊園ってすごく広いじゃん? だから、こっそり入っちゃえばいいんじゃないの?」
ジャックとミシェルは唖然とした。どうして今まで気付かなかったんだろう。
「いや、でも、さすがにまずいんじゃない? バレたら怒られるよ?」
「逆に言えば、バレなきゃ怒られないってことだろ?」
ミシェルは一応止めたが、ビルはニヤッと笑いながら返す。このニヤッとした顔をするということは、ビルは本気で忍び込むつもりだと、ジャックは分かった。
「でも、どうするの? 入ったところで、どのお墓か分からないよ?」
「それが、今朝いいこと聞いちゃったんだよな。兄貴と友達がさ、夜中に墓の中を歩き回ってる奴を見たんだって。しかも、花を持ってたらしい」
「え、それ本当?」
ジャックはビックリした。ミシェルも驚いている。
「怪しいだろ? だから、忍び込むとしたら、絶対に夜だ」
―――
その日の夜。ジャックたちは家族が寝たのを見計らって、それぞれ家から抜け出した。集合時間は、夜の12時。場所は、図書館のそばにある噴水だった。
ジャックが自転車に乗って噴水に行くと、すでにビルが来ていた。
「早いね」
「うちの親、寝るの早いんだよ」
「あとはミシェルだね」
約束の12時ぴったりに、自転車に乗ってミシェルがやって来た。そして、三人はカール・ストリート霊園に向けて、自転車を走らせた。
蒸し暑い夜だった。風もぬるくて、汗もあまり引かない。
最初はワクワクしていた気分も、生暖かい風に吹かれて、だんだん落ち着いていった。そして、居心地の悪い、ドキドキとした気持ちに変わった。ビルとミシェルも同じなのか、霊園に着くまで三人は無言だった。
霊園のそばの橋の下に自転車を隠すと、三人は正面の入り口ではなく、そこから左に長く続く、柵の方へと向かった。柵に沿って茂みがあり、身を隠すにはちょうど良い。夏の夜には虫も出るので、虫よけスプレーもどっさり持ってきている。
歩きながらビルが言う。
「兄貴の友達によると、夜中の1時くらいに、人影を見たらしいんだ」
ジャックは腕時計を確認した。12時20分。人影が現れるのは、少なくとも40分後ということになる。
「どこで人影を見たの?」
「詳しくは聞いてない。けど、入り口からけっこう離れた場所だったらしい」
「お兄さんとお友達は、そこで何してたの?」
ミシェルの言葉に、ビルは面白くなさそうに答える。
「それがさ、兄貴や友達も、噂が本当かどうか確かめようとしてるらしいんだ」
「え、そうなの?」
ジャックの驚いた言葉に、ビルが頷く。
「ついでに、隠れてタバコを吸いながら待ってたんだって。そのとき、たまたま見かけたらしい」
三人は奥へ奥へと進んでいく。
「ねぇ、あそこ見て」
ミシェルが地面を指差した。タバコの吸い殻が、何本か捨てられていた。ついでに、くしゃくしゃになったタバコのパックも転がっている。ビルがそれを拾って広げた。
「この銘柄、親父のだ。兄貴もくすねて、よく吸ってる」
「じゃあ、ここなんじゃないかな。ビルの兄さんと友達が、人影を見たってとこ」
「かもな。じゃあ、ここでしばらく待つか」
三人は腰を下ろした。芝生がわずかに湿っていて、ズボンに少しだけ染みこむ感覚があったが、誰も気にしなかった。
三人とも無言だった。人影を気にしているのもあったが、なんとなく会話を始めにくいというのもあった。お互いに、誰が最初に口を開くのか、様子を窺っている。
「ねぇ、あと何分?」
「あと30分かな」
腕時計を見ながら、ジャックはミシェルに教えた。ミシェルは、ちょっと長いね、と言って、少しぎこちなく笑った。
「二人とも、ウェイバー先生の宿題はやった?」
ウェイバー先生の宿題、というのは、自分の将来についての作文だった。それも、低学年の子がやるような「将来の夢」ではない。どんな仕事をしたいか、そのための計画はあるか、具体的に何をする必要があるのか、自分で調べて書いてこいという、なかなか面倒臭い宿題だ。
「俺、まだやってない」
「僕も」
ビルはまったく手を付けていなかった。ジャックは、本当は書き始めていたけれど、恥ずかしくなって、全部消しゴムで消してしまっていた。
「私ね、看護師になろうと思うの」
ミシェルは思い切ったようにそう言った。
「なんで看護師? 給料いいから? 大変だと思うけどな」
ビルがそんなことを言うのも無理なかった。ビルの母さんも看護師で、毎日疲れた顔をしながら病院に勤務している。とても忙しいらしく、母さんが家にいないことも多い。
「うん。大変だと思う。でも私ね、小さい時に、重い病気にかかったことがあるの」
ミシェルは、真剣な表情で続ける。
「その時に出会った看護師さんがすごくいい人で、注射や検査をするときも、大丈夫だよって、手を握ってくれて、それがすごく心強かったの。私も、あんなふうに、病気の人に寄り添いたいな、って、そう思ったの」
ミシェルはそこまで言い切ると、少し恥ずかしそうに、ふにゃっと笑った。
「すげぇな、ミシェル。俺、ほんとに何も考えてねぇや」
ビルは両手を頭の後ろに置いて、空を眺めながら言った。まんまるの月が、雲に隠れたり、顔を出したりしている。
「ずーっと、こんな感じで、学校行って、放課後はジャックや友達と遊んで、うちに帰ったらダラダラして……ずっと、それが続くような気がするんだよな」
「でも、いつかみんな大人になるのよ」
「うん、そうなんだけどさぁ」
ビルの言っていることは、ジャックもなんとなく分かった。
毎朝ママに起こされて、眠い目をこすりながら学校に行く。友達と喋って、退屈な授業を聞く。放課後になって解放されたら思い切り遊ぶ。そんな毎日が、ずっと続くような気がする。
でも、パパやママも、昔は子どもだったということを、ふと考えることがある。
いつか大人になる。みんなの親がそうだったように、ジャックも、ビルも、ミシェルも、いつか大人になる。そのとき、ジャックは二人と一緒にいるだろうか。そう思うと、自然と口が開いていた。
「僕、本当は作家になりたいんだ」
ジャックの言葉に、ビルとミシェルが目をパチパチさせる。
「初めて聞いたぞ」
「誰にも言ったことなかったからね」
ビルの言葉に、ジャックは照れたように笑う。
「でもジャック、いつも何か本読んでるもんな」
「うん、僕もあんな風に、いろいろな物語を書きたいなって思うんだ。だから、ウェイバー先生の宿題にもそう書こうと思ったんだけど、なんか恥ずかしくて消しちゃって、それっきり」
ジャックはポリポリと頭を掻く。誰にも話したことのなかった秘密を打ち明けて、言葉にできないくすぐったさを感じていた。
ふと腕時計を見ると、時刻は12時55分。例の人影が現れるまで、もう少しだった。
―――
三人が茂みの隙間からじーっと見ていると、人影は唐突に現れた。それも、三人のいる場所から、それほど遠くない。少し疲れているのか、足を軽く引きずるようにして、ゆっくりと歩いていた。手には、細い筒のようなものを持っている。きっと花束だ。
「……奥に向かって歩いてる」
ビルが二人に耳打ちする。人影は三人の前を通り過ぎて、奥の方へ向かった。
人影と十分に離れたことを確認すると、三人は足音を忍ばせて、そろりそろりと後を追いかけた。
人影はどんどん奥へ歩く。奥へ行けば行くほど、墓は古いものになる。どうやら、相当昔の人の墓へ向かっているようだ。噂の墓かも知れない。茂みの隙間からは、霊園の中が見えにくい上に、いまは月が雲に隠れてしまっている。見失わないようにするのが大変だった。
そして、人影はようやく、ひとつの墓の前で足を止めた。しばらく立ったまま墓標を眺めていたが、やがて腰を下ろし、墓前に花束を供えた。三人は、その人影の斜め後ろから、その様子を眺めていた。
「誰なんだろう、こんな時間に」
「よく見えないな」
ミシェルとジャックが呟く。人影の服装や顔はよく見えない。ただ、どうやら男の人らしいことは分かる。
しばらくすると、人影はボソボソと、墓に向かって話し始めた。しかし、遠すぎて内容は聞こえない。
「……もう少し近付こうか」
ビルの言葉で、三人はまたそろりそろりと移動を始めた。ゆっくり、足音を立てないように。
「……レイチェル。今年は、例年より少し暑い。君が生きていた頃より、年々暑くなってる気がするよ。でも、今夜は月が綺麗なんだ。いまは雲がかかっているけど……。もうすぐ雲が切れるはずだから、見えると思うよ」
ようやく聞こえた人影の声は、とても優しく穏やかで、大切な人に話しかけるような声音だった。
そのとき、雲が切れて、まんまるの月が顔を出す。人影は夜空を見上げた。
「ほら……丸くて綺麗な月だ。これは、昔も今も変わらないね」
人影は、月明かりの中でも、はっきりと分かるほど青白い肌をした男だった。年齢は40歳くらいだろうか。少しやつれた顔をしているが、とてもハンサムな顔立ちだった。若い頃は、ハッとするような美青年だったに違いない。
「私が墓守をしてから、もう何年経ったかな……でも、少しずつ、君のいる場所へ近付いている気がするんだ。人の血を飲まない、って約束を、ずっと守っているお蔭かな」
男は寂しそうに笑った。男の服装に、ジャックとビルは見覚えがある気がした。
「さて、ではそろそろ戻らないと」
男は立ち上がると、ポケットから眼鏡を取り出して掛けた。すると、見る見るうちに男の顔が変わっていく。気付いた時には、男の顔は、全くの別人に変わっていた。
「おやすみ、レイチェル」
男はそう呟いて、来た時と同じように、ゆっくりと帰っていった。
ミシェルは、男が変身したことに驚いて何も言えない様子だった。しかし、ジャックとビルはそれ以上だ。息をすることも忘れ、去っていった男の背中を、食い入るように見つめていた。
それは、以前ジャックとビルがここで出会った、管理人のおじさんだった。
―――
翌日。三人は図書館ではなく、公園に集まっていた。
「あのおじさん、何者なんだろう」
ビルの言葉に、三人は腕を組んでうなった。あのおじさんは、三人が見ている前で、完全に別人に変身していた。変装とか、そんなレベルじゃない。
「もしかしたら、あのおじさん……バンパイアなんじゃないかな」
ジャックの言葉に、ビルとミシェルは目を丸くする。
「いやいや、そんなことって……」
「だって、僕たちの目の前で、いきなり変身したんだよ? それに、肌もすごく白かった。『人の血を飲まない、って約束』なんて言ってたし……。もしかしたら、ずーっと昔から、あそこにいるんじゃないかな」
ジャックの話は、小さな子どもでも作り話だと分かるものだった。しかし、ビルもミシェルも笑わない。二人も、あの変身を見てしまったからだ。
「……ジャックの予想、すごくあり得ないけど……あれを見ちゃったらな」
「そういえば、あの人、お墓に向かってなんて言ってたっけ。レイチェル?」
ミシェルの言葉で、二人は顔を上げる。
「今なら明るいから、あのお墓の人の死んだ年が分かるんじゃない?」
その言葉をきっかけに、三人はまた霊園へ向かった。正面の入り口ではなく、昨日の夜と同じように、茂みの方へと回った。
昨夜、男を観察した場所には、赤いテープが巻いてある。ビルのアイデアだ。男が話しかけていた墓を見る。しかし、角度が良くないのか、墓標に刻まれているはずの文字がよく見えない。
「見えにくいな……周りに人は……よし」
ビルはそう言うと、茂みから飛び出し、柵の隙間を通って、墓の方へと走っていく。チラリと墓標を確認すると、すぐに戻ってきた。息を弾ませながら、確認してきた墓の人の生没年を告げる。
それは、なんと110年前の墓だったのだ。これには、ジャックとミシェルも驚いた。
「あのおじさんが、ずっと花を供えていた人だ。噂は本当だったんだ」
ビルは興奮しきった声で言った。
―――
翌日。三人は十字架を持って、再び公園に集合していた。八百屋さんでニンニクを買い、近所の教会の水を瓶に詰めれば、準備完了。これで、バンパイアに襲われても撃退できる。
いろいろ考えた三人は、バンパイアがあまり動けないはずの昼間に、直接、管理人のおじさんに聞いてみることにした。本来、昼間は棺の中で眠っているはずだけど、細かいことは考えなかった。
霊園に着くと、まっすぐに管理人のおじさんがいる正面入り口を目指した。
「なんだ、また坊主たちか。ここは遊び場じゃないって、前にも言ったろう?」
おじさんは、眼鏡を直しながらそう言った。ビルは深呼吸をひとつすると、十字架を掲げながら言った。
「俺たち、おじさんの正体を知ってるぞ! 夜中に、墓に花を供えるのも見た!」
おじさんは一瞬目を見開いたが、やれやれと言ったように首を振る。
「そんなわけないだろう。私も夜は家に帰ってる」
「でも、レイチェルさんって人に、お花を供えてたでしょう?」
ミシェルの言葉に、おじさんは今度こそ驚いた顔をした。
「それにこの前の夜、レイチェルさんに今夜は月が綺麗だって話してた。おじさんが変身するところも見たし、人の血を飲まないって約束してることも聞いた」
ジャックが畳み掛けると、おじさんは観念したように目を伏せた。
「やれやれ、夜に墓に来てはいかんと教わってるはずなのに……とんだ悪ガキたちだ」
おじさんは眼鏡を直しながら、周りに人がいないか確かめる。
「そこまで知っているなら、話してあげよう。あぁ、それと、私には十字架や聖水は効かないよ。ニンニクは自転車のところに置いてきなさい。管理人室に持ち込まれたら、臭くてかなわん」
おじさんは三人を管理人室に通すと、ジュースを出してくれた。真夏だと言うのに、自分には温かいコーヒーを淹れていた。コーヒーを一口飲んで椅子に座ると、大きなため息をついた。
「まず、最初に約束してほしい。ここで聞いた話は、絶対に他の人に話してはいけないよ。君たち、年はいくつだい?」
「12歳」
ジャックが答えた。
「それじゃあ、本来よりも6年早く、この話をすることになるね。本当はルール違反だけど、変身するところを見られたんじゃ、仕方ない」
「ルール違反って、なぁに?」
「それは、あとで教えてあげるよ、お嬢ちゃん」
おじさんはコーヒーを飲みながら、ジャックたちにもジュースを勧めた。変なものは入っていないよ、と優しく笑う。それを聞いて、三人もジュースを飲んだ。
「さて、少し長い昔話になる。どこから話そうかね……」
そんな前置きと共に、おじさんは話し始めた。
―――
私が生まれたのは、今から250年くらい前なんだ。君たちのおじいさん、おばあさん、そのまたおじいさん、おばあさんよりも昔さ。
私はある貴族の生まれだったんだけど、貴族の生活に馴染めなくてね。ある日、家出をして、そのまま帰れなくなってしまったんだ。
そんな時に、私はひとりのバンパイアに出会った。彼は私を気に入ったらしくてね。人間としての名前を捨てて自分の息子になれ、と言われたんだ。
私の返事はイエスだった。若い姿のまま、不老不死になれると聞いて、とても魅力的だったんだ。
彼の下で、バンパイアの生き方や、バンパイアの能力を扱う方法を学んだよ。変身もそのひとつだね。人間社会に溶け込んで生きていくための方法なんだ。
そして、彼と50年ほど一緒に過ごしたあと、私はひとり旅に出たんだ。色々な国に行ったよ。多くの歴史的瞬間にも立ち会った。
そして、また50年ほど旅をして辿り着いたのが、この町なんだ。そして、彼女と出会ったんだよ……レイチェルにね。
彼女は、町にある酒場の看板娘で、歌い手でもあったんだ。私は彼女に一目惚れしてしまってね。当時、彼女は17歳。私は、人間で言うと20歳くらいだったかな。
私は旅人としてこの町に来たけれど、この町が気に入ったから仕事をさせてほしいと、レイチェルと同じ酒場に頼み込んで、どうにか雇ってもらったんだ。
最初、レイチェルは素っ気なかったねぇ。彼女は人気者だったから、たくさんの男に言い寄られていたよ。私も、最初はそのひとりに過ぎなかった。
でも、次第にレイチェルも私に心を許してくれるようになった。やがて、私たちは恋人同士になった。
私は彼女と一緒に、人間として生きていきたいと思った。だから、この町に来てからは、人間の血を一切飲まないようにしていた。そうすれば、バンパイアも人間と同じようにいずれ死ぬ、と、バンパイアの父から教わったからね。
でも、2年ほど経ったときに、彼女は私の正体に気付いたんだ。
たった2年だけど、それでも人は何かしら変化するもの。だけど、私は2年前と何ひとつ変わっていなかった。バンパイアの体は、年を取るのがとても遅かったんだよ。
私は、自分がバンパイアであることを明かした。だけど、レイチェルと同じように年を取るために、今は人間の血を飲んでいないことも伝えた。でも、内心は諦めていた。きっと彼女は怖がって、逃げてしまうだろうと思った。
ところが、彼女は笑って私を抱きしめてくれたんだ。そして、こう言ってくれた。
「人間も、バンパイアも関係ないわ。あなたが誰よりも優しくて、私を愛してくれているって、私はよく知ってるもの。それに、ずっと血を飲まなかったら、あなたも年を取るんでしょう? じゃあ、おじいちゃんおばあちゃんになるまで、二人で生きていきましょう」
私は泣いたよ。人間であることを捨てて、怪物になった私を受け入れてくれた彼女を、心底愛しいと思った。本当に幸せだった。そして、私たちは夫婦になった。
でも、それから一年後のことだった。
死んでしまう直前に、彼女は私の手を握って、こう言った。
「約束を守れなくて、ごめんね。私のことは忘れて、どうか、あなたは自由に生きて」
レイチェルもバンパイアになれば、流行り病に打ち勝つことはできた。でも、彼女はそれを望まなかった。人として、病で死ぬという運命を受け入れたんだ。
彼女の最期に、私は胸を打たれた。そして、この命を全うしようと決めたんだ。
誤算があったとしたら、この体だ。バンパイアの体は、人間の血を飲まなくても長い年月を生きられるようになっていたんだ。この時ほど、バンパイアであることを、恨めしく思ったことはなかったよ。
でも、自ら命を絶つことは、絶対にしないと決めていた。それは、最期まで人として生きようとしたレイチェルに対する、
そして、気付けば110年も経ってしまっていたんだ。
―――
そこまで話し終えたおじさんは、三人の顔を見て、ため息をついた。
「最近、少しずつ、本当に少しずつだけど、体が弱ってきているのを感じるんだ」
「……もしかして、ずっと人間の血を飲んでいないから?」
「たぶんね」
ジャックの言葉に、管理人のおじさんは優しく笑った。
「私は、人間の姿をしているけれど、紛れもなく怪物だ。でも、もうすぐ、レイチェルと約束したように、人として死ぬことができる……。さぁ、三人とも、もう帰りなさい。この町では18歳になったら、みんな秘密を教えてもらうことになっている。そして、子どもが無闇に霊園に近付かないように、大人達に協力してもらっているんだ。君達も、お父さんやお母さんに、夜には霊園に近付かないように、と教わっただろう。だから、今日のことは、絶対に誰にも言わないように。分かったかい?」
おじさんの言葉に、三人はしっかりと頷いた。それを見て、おじさんは微笑んだ。
三人は管理人室を出ると、自転車に乗って、まっすぐに帰った。
帰り道、ビルが呟くように言った。
「なぁ、ジャック、ミシェル。俺たちがあのおじさんみたいに、ひとりだけずっと長生きしたとしてさ……あんな風に、ずっと花を供え続けられる?」
「……分からない」
「……私も」
「だよなぁ……俺もだ」
日が傾き始めていた。遠くの空では、雲がわずかに、赤く染まり始めていた。
―――
そして、35年後の、いま。
ジャックがカール・ストリート霊園の駐車場に着いたのは10時だった。花屋で買った小さな花束を手に、正面入り口を目指す。
久しぶりに訪れた
子どもの頃に通っていた学校は取り壊されていた。
学校帰りによく行っていたお菓子屋さんは、店を畳んでいた。
みんなでサッカーをしていた公園は姿を消して、ガソリンスタンドになっていた。
そして、霊園の入り口に立つ管理人も、まったく知らない男になっていた。ジャックは彼に軽く会釈をして、霊園の奥へと進んだ。墓参りをしている人が、何人もいた。
そうして歩き続けると、12歳のあの日の夜、管理人のおじさんが訪れていた彼女の墓が見えてきた。
新聞に書いてあったように、花はすっかり枯れていると思っていた。しかし彼女の墓には、色とりどりの、たくさんの花が供えられていた。きっと、『秘密』を知っている心優しい大人達が供えたのだろう。
「レイチェルさん。彼は、そちらに行ったようですよ」
ジャックは思わず、会ったこともない彼女に向かって、そう言っていた。
ジャックは、レイチェルはどんな女性だったのだろうと考えた。どんな髪をしていたのだろう。背丈はどれぐらいだったのだろう。瞳は何色だったのだろう。どんな歌を歌っていたのだろう。
バンパイアの彼が愛した彼女は、一体どんな女性だったのだろう。
しばらくすると、ビルとミシェルもやってきた。会うのは何年ぶりだろうか。高校を卒業したあと、ビルとミシェルは夫婦になった。そして、ずっとこの町に残っていた。
「ジャック、久しぶり」
ミシェルは、相変わらずそばかすだらけの顔で、ふにゃっと笑った。彼女が笑うと、そばかすも一緒にふにゃっと動いた。
「すっかりおっさんになったなぁ、ジャック」
「ビルこそ」
ビルの軽口に、ジャックは笑って返した。
三人とも、すっかり大人になった。
「あのおっさん、とうとう逝ってしまったのか……なんか、実感わかないな」
「僕もだよ。でも、今まで枯れたことのなかった花が、とうとう枯れたんだ。きっと、そういうことなんじゃないかな」
三人は、それぞれ持っていた花束を、レイチェルの墓に供えた。三本の小さな花束は、他の多くの花束と一緒に、彼女の墓を彩った。
三人はカール・ストリート霊園を出た。きっと、レイチェルの墓に花が供えられることは、もうないだろう。でも、それでいいのだと、三人とも分かっていた。
「ねぇジャック、あなた童話作家でしょう? このこと、本に書いたらどうかしら?」
ミシェルの言葉に、ジャックは頷く。
「実は、僕も少し考えていたんだ。でも、いますぐは、ちょっとね。もうしばらくしたら書こうかなって思うよ」
「どんなタイトルにするんだ?」
ビルの言葉に、そうだねぇ、と答えながら、ジャックは空を眺めた。
爽やかな青空に、白い雲が長く伸びている。今頃、あの雲の向こうで、彼はレイチェルと再会しているだろう。もちろん、145年分の花束を、どっさり抱えて。そんな子どものような想像に、ジャックはくすっと笑った。そして、ビルの質問に応えた。
「『秘密の花束』なんて、どうだろうね」
秘密の花束 藤野 悠人 @sugar_san010
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