終章「夢のつぼみが枯れないように」

第19話「ただひとつのプラス」

 劇的な変化は、特に亜紀が望まない事だ。戻ってくるのは「日常」であり、それ以下でも困るが、それ以上とて始末に負えなくなるのだから。


 とはいっても、慌ただしい日が皆無かと言われると、そんな事も同様にない。


 ――神矢かみや孝市こういちくんの保護に関して。


 係長、補佐、課長と上へ行くずつ修正を命じられる報告書を前に、亜紀はげんなりした顔をしていた。


 神ならば命の摂理を歪めるようなことはしないが魔王なのだから……という理由で力を行使したベクターフィールドにより、生き返るという荒技を見せた神矢を保護した報告書だ。


 ――生き返らせると、調整力というか整合性を保とうする力というか、そういう力が働いてな。


 そのベクターフィールドの言葉通り、神矢は桜井と一緒にいた事になっていた。


 半ば諦めていた神矢の両親にとっては息子が帰宅しただけで十分だが、警察組織はそういう訳にはいかない。


 ――自分だけ種明かしされた事になってるからな。辻褄が合わなくなる可能性は十分、ある。


 ベクターフィールドの契約者である亜紀は、純粋な一般人ではないため、調整力の影響が薄いらしい。補完された記憶がない分、理詰めが必要な報告書は鬼門となる。


 ――最終的には、俺が手伝ってやるぜ?


 そういって笑うベクターフィールドの顔は、底意地が悪いものだった。人を翻意ほんいさせる事など朝飯前というのは、亜紀が必要だと思った事件では日常茶飯事と使っている。


「はぁ……」


 だが亜紀は、溜息ためいきが多くなってしまっても、ベクターフィールドの力で報告書を切り抜ける事だけは最終手段だと思っていた。


 ――ベクターフィールドの力を借りるのは、私が必要と判断したに限る。私の仕事は、私だけでするの。


 そう自戒している。


 何でもかんでもベクターフィールドに頼ったら、それこそ自分の気に入らない相手を全て殺して回れとパイエティに命じた桜井と同じではないか。


 ――まずは神矢くんと知り合った経緯。桜井 文の存在を知った理由。神谷くんを保護するまでの経過……。


 一つ一つを細かく、時系列順に並べていく。


 桜井を確保し、取り調べできればよかったのだが、桜井はベクターフィールドの落雷によって重傷を負っている。


 それも間が悪いといえるかも知れないが、亜紀は努めて考えない。


 ――でも、まともに話なんて聞けないんでしょうしね。


 意識が戻ったとしても、桜井とてパイエティの契約者だったのだから、調整力の影響外のはずだ。錯乱状態と判断されるだろうし、それではまともな調書は作れまい。


 ――辻褄だけを合わせるしかない、と。


 課長から指摘されたことの修正を終え、パソコンの印刷ボタンを押す。


 時計を見れば丁度17時15分であり、待ちかねたようにスマートフォンがメッセージ受信のインジケータを点灯させた。



***



「終わったんなら、早く来いよ」


 17時15分が来るのを待ち構えていたベクターフィールドは、メッセージを送る前からトントンと忙しなく足を踏み鳴らしていた。


「背広組なんだから、着替えも何もないんだろ?」


 警察署から出て来た亜紀へ向ける不満には、自分だったらアポなし召喚でとんでもない状況でも呼び出されてるんだぞ、という響きもある。


「ごめんなさい」


 ぶつけられている亜紀も感じ取れるのだから、ばつの悪い顔をしてしまう。


「色々と、慌ただしいのよ」


 行方不明者の、特に未成年者の保護は手続きもマスコミ発表があるため、正確さと共に迅速さも求められる。担当者は、それこそ徹夜してでも形の整った報告書を作る必要がある。


「俺だけなら、待つけどな。待たす相手がいるんだぜ?」


 ベクターフィールドは皮肉そうな笑みを作り、その顔を道路側へ向けた。


 しかし亜紀が視線を追っても、その「待たせる相手」の姿はない。


「まだ来てないじゃない」


「来るぞ、すぐに」


 ベクターフィールドは「ヒヒヒ」と笑い、


「速いからな、来るとなったら」


 その言葉通り、二人の眼前に一台の車が横付けにされた。


「こんにちは」


 助手席から降りてくるのは、亜紀を笑顔する存在。


 神矢だ。


「丁度良かった。私も仕事が終わったところ」


 片手を上げて近寄る亜紀は、神矢が降りてきた車にも視線を送る。



 スバル360――しかも独特のエンジン音が、ロータリーエンジンを搭載している事を示した車。



 運転席にいる男は亜紀が視界に入ると、軽く頷く程度に見えてしまう程だが、頭を下げた。


「おーおー、アイソがねェぜ」


 ベクターフィールドが笑ってしまう男の名は――、


「パイエティ」


 あの時、相打ち狙いで仕留めた相手だ。


「……」


 どうしていいのか分からないという顔をするパイエティだったが、亜紀はベクターフィールドを押しのけて、


「ベクターフィールドの事は別に気にしなくていいから」


 消滅の危機に瀕していたパイエティがここにいる理由は、亜紀がベクターフィールドと結んでいる契約のためだった。


 自分が必要と感じた事件に全力で協力する事――即ち、神矢の事件を解決させるには、桜井と契約していたパイエティの存在が必要だ、と亜紀が判断すれば、ベクターフィールドはパイエティを助けなければならない。


 そして亜紀がパイエティに望んだのは……、


「パイエティは、神谷くんの手伝いをして」



 神矢を守る事。



 神隠しから戻ってきた神矢に向けられる好奇の視線、またその性格故に訪れてしまう孤独を癒やす事を亜紀は望んだ。


「だからやってる。今日、地域ネコ活動の事務所に連れて行って、新たに事故にあったネコをペット墓地に弔う事も活動に入れてもらうよう話す事だって協力する」


 パイエティは、言葉こそぶっきらぼうであるが、桜井と接していた時に比べると段違いに朗らかな声になっている。


 だから自然にパイエティから出る言葉がある。


「ありがとう」


 パイエティが礼をいったのは、いつ以来だろうか?


 ――そりゃ、あんな人と、自分が必要な事件には全力で手を貸す事、なんて契約を結んでたら、誰だって全力になるし、全力になりたくなるだろうな。誰だって。


 自身がいっていた状況になったのだから、それは自然と出て来ていた。


「お礼なんていらないから」


 亜紀はぷらぷらと片手を振るのみだが、ベクターフィールドは、


「俺にはいえよ」


「それこそ必要がない」


 パイエティは即答。


「あーあー、そうだったな。俺とお前は、友達にはなれない。お互いの契約が衝突したら、自分の契約を優先するんだしな」


 クククと薄笑いを浮かべるベクターフィールド。


「一緒に笑う事はできても、一緒に泣くことはできないぜ」


 決戦の時、口にした言葉は今も同じだ。


 同じだが――、


「だから、神矢クンと一緒に笑って、神谷くんと一緒に泣けよ」


 それはベクターフィールドに言われるまでもないだろう。


「学校で友達を作る必要はない。だけど友達は必要だ」


 パイエティも分かっている。


 生き返っただけならば、マイナスがゼロに戻ったに過ぎない。



 少しのプラスが日常には必要だ。



 笑うパイエティとベクターフィールドは、文字通り一緒に笑う事だけならばできるというところか。


 そして――、


「でも、パイエティさん。三種の甲羅盛りバナナの皮っていうセンスは、どうかと思う」


 神矢から出て来た言葉は、この二人が似たもの同士という事。

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Phyllobates terribilis-そして魔王は今日も空腹- 玉椿 沢 @zero-sum

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