《新婚夫婦とその友人》

 乱れたシーツをたぐり寄せ、口元を抑えても、漏れてしまう熱い吐息に、カーサは顔を赤くした。いや、その頬ならもう、とっくに上気し、赤く染まっている。

 

「なんだ……まだ朝は来ぬぞ、カーサ」


 カーサのか細い身体の上に、折り重なるように自らをぴたりと這わながら、ザルツは妻となった女の耳元で囁いた。カーサは夫となった逞しいその身体を抱きしめる。

 熱い。指先を伝って、ザルツの熱がカーサの身体になだれ込む。だが、それと同時に、カーサの指はザルツの全身に深く刻み込まれた無数の傷跡をも感じ取り、彼女はザルツの目を見つめて呟いた。


「ザルツ、これ、拷問の傷、でしょ……もう痛まない……?」


 するとザルツはカーサの瞳をやさしく見つめ、笑った。


「あぁ、もう平気だ」

「ごめんなさい、私のせいで……」

「過ぎたことだ、気にするな、カーサ。かえって傷跡からお前の熱がより沁みて、俺は気持ちが良いくらいだ」


 そしてザルツはそう言うや、カーサの唇を己のそれで覆った。もう何も言わせぬ、とばかりに。


「ザ、ルツ、聞こえちゃう……」

「誰にだ」

「だって、ここ、セダイの家……っ、なんだから、っ」


 目を潤ませながらの、途切れ途切れの妻の訴えに、ザルツは苦笑する。彼はカーサを再び見やり、にやり、と不敵に笑った。


「大丈夫だ、ここは奴の屋敷の離れなのだから。誰も来ぬ」

「でもっ」

「でも、何だ。例え奴に聞こえたとしても、構うものか」


 夜は既に白み、温暖なカメルア南部ならではの、やわらかな春の朝のひかりが窓から差しこみはじめる時刻を迎えている。だが、それを半ば無視して、ザルツはそう言い放つと再び、カーサのそれ以上の言葉を、やさしく封じた。



 

「お客人はまだ起きないのかね」


 セダイは父親のやや皮肉めいた声に、朝の陽のなか、寝起きの顔を軽く顰めた。


「あの二人は、新婚旅行の途中だと言うことは存じておられるでしょう」

「うむ、そうだったな」

「我が家に寄ると良い、と招いておきながら、のところをたたき起こすのは、野暮というものですよ、父上」


 セダイは朝食が用意された食卓に着きながら、父に言葉を放った。そして目の前のパンに手を伸ばし、口に運ぶ。


「お前はお客人が羨ましくはないのか」

「……やはり、その話ですか」


 セダイはパンを咀嚼しおわると、いささか憮然とした表情で父に向き合った。


「羨ましいもなにも、相手が居ないものは、どうしようもありません」

「お前を王立学院に送り出したとき、良く言って聞かせたつもりだったが」

「覚えてますよ。王都で金持ちの娘を娶って帰郷してこいと、何度も言われたのは。我が家の再興は、お前の嫁取りにかかっていると、そりゃあもう何度も」


 セダイはそう言いおわるや、今度は豆のスープを啜りだした。だが、父の小言は終わる気配がない。


「分かっているなら、なぜ、そうせぬ。ことに、便りを見る限り、医療院に勤めだしてからは女の気配を微塵も感じさせぬぞ。そんなにもお前がとは、我が子ながら不憫でならぬ……」

「俺だって、そんなにもてないわけじゃないですよ! ただ、仕事が忙しくて、女にまで手が回らないだけで!」


 セダイはあまりの言われように半ば憤慨して、スープをひっくり返さんばかりに父に抗議の声を上げた。スープ皿が、がちゃん、とセダイの手元で音を立てる。しかし父は不毛な論争を終わらす気配を見せない。


「だったら、せめて儂が生きてる内に、嫁を連れてきておくれ。亡くなった母さんはさぞや無念であっただろうに……」

「……そうは言われましてもね、父上」


 セダイは髪をかきむしった。実家に帰ればいつものことである親子の舌戦だが、年を追うごとに父の悲観振りが酷くなっているのを感じ、セダイはどうしたものかと頭を抱える。

 

 セダイとて、実のところ、女嫌いなわけでもない。そのうえ、王立医療院の出世頭であり、剣の腕も立つセダイに言い寄る女は、庶民から良いところの貴族の娘まで、それこそ星のように居るのが現実だ。

 にもかかわらず、セダイが未だ独身でいるのは、ひとえに、セダイ自身が医療院の仕事に何よりも充実感を抱いており、なかなかその他のことまでに気が回らないだけの話なのである。特に、新王アーノルドの即位に伴い、ザルツと共に王の補佐役にも回る多忙な日々を送っている、今の時期においては。つまりは、、というのがセダイの本音である。


「心配はございませぬよ、お父君」


 そのとき、唐突に友の声がして、セダイは我に返った。扉の方向を見れば、いつのまにか、軽装ながら、服装をきちんと整えたザルツとカーサが立っている。


「ご子息は、自身が言ってる以上に、女にはおります。それこそ王立学院時代からご子息は学年一、女からは人気があって、俺はそのたびに嫉妬したものです」

「おい、ザルツ……」


 セダイが慌てたようにザルツの言を遮る。だが、ザルツはセダイを一瞥し、俺に任せろ、とばかりの視線を投げると、セダイの父に向き合った。


「ただ、自身も申しているとおり、ご子息は多忙を極めているのは事実です。ことに、今は新王陛下を支えなければならぬ重責を私めとともに負っております故。ですが、それだけ王宮への出入りも頻繁なれば、良い身分の女性に見初められる機会も増えましょうぞ。よって、もう少しの辛抱でございますよ、お父君」


 ザルツの言葉はたしかに効果があった。セダイの父は、ザルツの言を耳にすると、大きく息を吐き、分かりやすいほどの安堵の表情を見せた。そしてザルツに唾を飛ばす勢いで、畳みかけた。


「おお。そうか。そうならば、少しも儂も安心できようというものだ、お客人……! どうか、これからも我が愚息をよろしく頼み申す、よく言ってやって下され。お客人のように美しく立派な女性を娶るようにと!」

「もちろんでございます」


 ザルツはやや人の悪い笑みを閃かせながら、黒髪を揺らし、優雅に一礼してみせる。カーサも続いて礼をする。その光景にセダイの父は漸く満足の笑みを浮かべ、部屋をゆっくりと出ていった。


 残されたセダイは、ザルツとカーサの前で、大げさに肩をすくめて見せた。


 

 

「お前も苦労が絶えぬな」


 セダイの屋敷の庭にある、池のほとりでザルツは苦笑して友を見やった。


「すまなかったな。親父は俺が家に顔を出すと、いつもああでな」


 セダイは苦虫をかみつぶしたような顔で、芝の上に座り込み、足元の小石を掴むと、鬱憤を晴らすかのように思いっきりそれを投げた。小石が池の水面を跳ね、ちいさな水飛沫を上げては水中に沈んでいく。ザルツとセダイ、それにカーサは、その飛沫が陽のひかりに反射して、きらきらと煌めくのをしばし見つめていた。

 あたたかな春の日差しが三人を包み込み、やがてザルツが気持ちよさそうに掌を空に差し伸べながら、セダイの横にその身を横たえる。


「やあだ、ザルツ。お行儀が悪い」

「せっかくの新婚旅行、しかもこんなに日差しが気持ちいい日だ。このくらいしてもいいだろう」

「そうね、ここは王宮じゃないし」


 カーサも微笑みながら、ドレスの裾をたくし上げながら芝の上に腰を下ろす。それから三人は互いに視線を交わし、笑みを浮かべ合った。空は青く、爽やかな風がそよぐ。


 穏やかな日だった。まるで、その前年の動乱などなかったかのような。

 カーサは思う。自分がカメルアに連れてこられてから、もう二年が経つとは早いものだと。オルグによる拉致とその後の恥辱の記憶は、未だカーサの中から消えぬ。

 だが、そのおかげでザルツと出逢い、一時は帰国した祖国から自らの意志により戻り、幾多の苦難を超え、いま、ここで、こうしてザルツと念願叶い添い遂げている。時々、己の運命のふしぎさに戸惑いを覚えもするが、そのたびに彼女は今の幸せだけを噛みしめようと思い直す。

 

 何しろ、自分の命にも替えて自らを守り通そうとしてくれたザルツが、夫として、今は横にいてくれるのだ。これを幸せといわずして、なんと言えば良いのか、今のカーサには他の言葉が見つからない。


「それにしても、お前の実家はこんなに庭も広くて、立派なもんだな。慈悲院育ちの俺からすれば羨ましい限りだ」


 不意にザルツが、空に視線を投げたままセダイに語りかける。


「とても、お父君が嘆くように、貧乏貴族の屋敷とは俺には思えん」

「よせよ、ザルツ。これでも先代に比べれば、だいぶん落ちぶれた貴族の一員なんだ、俺は。たしかに敷地はそこそこの広さはあるが、屋敷は手入れが全くもってなっていないし、使用人も僅かしか雇えん。小作人からの年貢と、俺の仕送りでなんとか体面を保っているようなものだよ」

「だったら、お前も早く嫁を娶って、親御さんを安心させてやるのも手だぞ」

「お前まで、父上の援護をするのか」


 セダイは、憮然とした表情でザルツを見た。すると、ザルツはにやにやと笑いながらカーサの手を握る。


「隣にいつも愛する女が居るのっては、精神的にもいいもんだ」

「やだ、ザルツ」

「……お前ら、見せつけに来たのなら、王都にさっさと帰れ!」


 だが、ザルツはセダイの怒号に臆することもなく、顔を赤くするカーサの肩を抱く。そしてその頬に軽くキスする。仲睦まじい友人夫婦のぶりに、セダイは半ば怒り、半ば呆れたような表情を顔に浮かべたが、やがて諦めたようにがくり、と肩を落して己の膝の間に顔を埋めた。


「……そりゃ、俺だって女が恋しいさ、だけどな……」

「だけど?」

「やっぱり、俺は、それ以上に仕事が好きなんだよな……」


 絞り出されたように呟いたセダイの台詞を聞いて、ザルツとカーサは顔を見合わせた。ややもって、カーサがセダイを励ますように言う。


「……セ、セダイ。じゃあ、職場の医療院で恋人を探すのは、どう? 私が入院していた間にも、あなたに熱い視線を送っていた女性の看護士は、結構いたように思えたけど?」

「俺は仕事と私生活は混合しない主義だ……」

「それなら、俺がお父君に申したように、せめて、もうちょっと王宮で周りの女に気を配るんだな。この間もお前に色目を使ってきていたどこぞの貴族令嬢がいただろう? そこそこ良い家の子女だったと思うが、あれはどうなった?」

「あれは、ちょっと、なんというか……狐のような瞳が気に食わなかった、というか……」

「……セダイ!」


 セダイの言葉を聞いて、カーサが呆れたように声を張り上げた。


「何、贅沢言っているのよ! そんなんじゃ生涯結婚できないで、気が付いたらよぼよぼのお爺さんになるだけよ!」

「そうは言っても、嫁にするとなると、一生添い遂げるわけで、俺にも色々好みってものが……」

「まずは付き合ってみなさいよ! 話はそれからでしょ! そうしないとチャンスは逃げて行くばっかりでしょー!?」

「そ、それはそうだが」

「もー! セダイあなた、顔もいいし、仕事は出来るし、剣の腕は誰にも負けなし、もてないわけでもないっていうのに、女の好みだけはうるさい、ってのはねぇ! 女性からしたら一番めんどくさいタイプ! お父君の心配もごもっともだわ! あー、焦れったいたらありゃしない!」

「おいおい、カーサ、そのくらいにしておいてやれ」


 ザルツは、流石にセダイが気の毒になって、いきりたつ妻の剣幕を抑えようと試みる。だが、カーサは怯まない。彼女は今度はザルツの顔を睨み付けると、頬を膨らませながら夫に向かって言葉を放った。


「だってぇ! ザルツからも何か言ってやってよ!」


 ザルツはカーサの叫び声に鼓膜を叩かれながらも、今も池の畔に座り込んで、憮然とした顔の友に目をやる。すると、ちら、とザルツに顔を向けたセダイの瞳と視線が交差した。その困り切ったような彼の目は、遠い少年時代のそれのようで、ザルツは思わず苦笑を浮かべる。


 ――ああ、そうだった。いつもこいつは、誰よりも強くて、賢くて。だけどいざとなると、どこか不器用で。


 そして自分はそんなセダイだからこそ、長く友誼を重ねてきたのだと改めて、気が付く。


 ――仕方ない。奴の嫁の件に関しては、ちょっと長い目で見守ってやらねばな。なんせ命までも助けられた身だ。この俺が分かってやらなくて、どうする。


 やわらかな春の風のなか、ザルツはそう胸中で呟くと、いまなおといった顔のカーサの唇にそっと指を添えて、彼女を黙らせた。

 そして、芝に座り込んだままのセダイの肩を、励ますように、ぽんぽん、と二度叩いて、その顔を上に向かせる。


 新しい時代の、新しい季節は、まだ始まったばかりだった。カメルアにとっても、三人の男女にとっても。


 (「新婚夫婦とその友人」 了)

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煉獄にて光あれと つるよしの @tsuru_yoshino

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