車座のカーネリアン

木野かなめ

車座のカーネリアン

 その奇妙な宅配物が届いたのは、梅雨明けまでもう少しといったくらいの、七月の午下ごげの時だった。


桐原きりはら美紗子みさこさん宛て、で間違いありませんか?」

 郵便屋さんもわたしの顔を見て、そう訊いたくらいだ。

 わたしは冷凍室くらいの大きさのダンボール箱を、部屋の中へ運ぶ。六畳のワンルームマンション。それでも定期的に片付けをやっているものだから、ダンボールを置くスペースには困らなかった。

「わたしから……?」

 弱って、頭を掻く。

 その配達証明には、こう書かれていたんだ。


 差出人 桐原美紗子

 宛先  桐原美紗子


 差出人、宛先ともに記載された住所は、このマンション。旅行先から自分に荷物を送ったりすることはあるけれど、今回に関してはまったく覚えがない。

 ガムテームをぺりりと破って封を開ける。

 中はほとんどが空洞で、一枚の手紙が底に貼りついているだけだった。


『桐原美紗子さんへ』


 どう考えても他人の仕業だ。自分に当てた小包なら、こんな手紙は同封しない。

 手紙を開けると、そこにはけっこうな達筆で短い文章がしたためられていた。


『肺炎にかかったことを後悔しているのでしょう。

 だけど治った。これがまず、よかったことです。

 もう治った病気のことを、いつまでも引きずっていてはいけませんよ』


 はて。

 まず考えたのは、家族からの手紙じゃないか、ということだった。文章の書き方はおかしいけど、わたしが肺炎になったことを知っていて、なおかつ心配してくれるのは家族くらいしかいない。

 そこで500キロほど西にある実家に電話をかけてみた。でも、そんな手紙を書いた覚えはないそう。しかも「ストーカーに注意しなさい」ときたもんだ。ふむ、と唸る。

 だとしたら……まだいくつか可能性は残されているけれど、そこに『ストーカー』という選択肢を加えて考える必要がある。……自意識過剰かな。

 ただ、用心するに越したことはない。

 わたしは手紙をびりびりに破って、ごみ箱に投げ捨てた。

 窓を閉め、施錠せじょうを確認し、カーテンを閉める。

 薄い南風の香りはすぐに、エアコンのかびた匂いへと変わった。



 翌日も、同じようなダンボールが到着した。

 郵便屋さんは事務的な仕草でわたしに押印を求める。

 わたしは昨日とまったく同じ動作で開封し、封筒から手紙を引っ張り出した。


『昨日はいきなりでびっくりしたでしょう。

 そして、ストーカーじゃないかと心配したと思います。

 だけど誓います。今の私は、あなたの前に姿を現わすことはありません。

 とにかく、病気でぐずついた思いを払拭ふっしょくして下さい。

 それだけを望みます』


 差出人は自分がストーカーであることを否定している。

 もちろん文面どおりに受けとることはできない。わたしは少し身震いし、警察に連絡しようかと考えた。

 が、警察に連絡してもあまり効果がないと聞いたことがある。それに、わたしはまだ十九歳。未成年の大学二年生だ。被害を受けた(あるいは受けかけた)ことがわかれば、そのまま親に連絡される恐れがある。

 この、親に連絡、というのがくせ者なのだ。

 そもそも両親は、故郷から遠く離れた都会の大学にわたしを通わせることを一貫して反対していた。女子だからどうとか、故郷に後ろ足で砂をかけていくのかとか、それらはもう噴飯ふんぱんものの理由だったので、わたしは断固として都会の大学を受けることを主張した。テレビで見るだけだったテーマパークにテレビ局。週末はまだ見ぬ友達とウインドウショッピングを楽しむんだ。個人店のカフェでジンジャーイタリアンティーと洒落込むのだ。ラーメン一辺倒で押す地元になんか用はない。

 それでも両親は、入学から一年三ヶ月が経過した今でもわたしの都会行きを快く思っておらず、週に三回、電話による安否連絡を義務づけている。その通話でも、「なにか問題があったら仮面浪人してもいいからこっちの大学に通いなさい」と釘を刺される始末。

 こんな現状で警察沙汰になるなんて、アーチェリーで十点を仕留めるようなものだ。金メダル確定。そしてわたしの田舎出戻りも、バシッと確定。

 どうしよう……。

 ただ、この手紙の内容だけを見てみると、けして悪いことは書いていない。

 病気が治ってからも部屋に閉じこもっていたけど、それは相手に居場所を教えているも同然だ。もちろん住所は知られている。それでも、『常に部屋にいる』と認識されることだけは避けたい。

 その二つの理由が、わたしの心を少しばかり動かした。

 翌日、一ヶ月半ぶりに大学へと向かってみた。

 それはちょうど梅雨晴れの、気持ちのよい日だった。



 わたしが大学で前期試験を受けているその間も、例の郵便物は届き続けた。

 毎日、とまではいかないが、週に五日のペースで送られてくる。

 郵便屋さんもそろそろ苦笑い。きっとわたしがいたずらをしているとでも思っているんだろうな。

 が――、手紙の内容はだんだんと平穏なものへと変わっていった。


『いよいよ夏休みだね。

 十代最後の夏休み。どんなチャレンジをするのかな』

『ちゃんと早寝早起きすること。

 あと、寝る前に日記をつけてみるのもいいと思うよ』


 正直なところ、この手紙に少しの感謝を覚えていた。

 わたしはこの手紙のおかげで命拾いをしたのだから。

 先月の前期試験、意外とわかる問題も多かった。ほとんど一夜漬けに近い状態で受けたのだから全問正解とまではいかなかったけど、ちょうど教科書に乗っていた部分の問題を見た時には(きたっ!)と思った。試験監督で大講堂に来ていた先生に長期間休んでいたことを謝ったら、思ったよりも優しく接してもらえた。

「病院の証明書があるからねぇ。他の学生さんとの兼ね合いで全部出席ってわけにはいかないけど、試験を受ければ単位をもらえるくらいにはなっているはずだよ」

 わたしは全身で安心の息をついた。

 この、出席点というやつ。これが一番気にしていた部分だったのだ。

 肺炎で講義を休んでしまったから出席点をもらえないし、そもそも授業の中盤以降がすっぽりと抜け落ちてしまっている。この状態で試験を受けても無駄だと思っていたのだ。

 だけど、受けてよかった。

 全部の単位をとれたってわけじゃないだろうけど、全滅を免れたのはまさに一連の手紙のおかげだ。そういう意味で、あの手紙が大学生活を守ってくれたともいえる。

 わたしは、手紙をまとめて仕舞うためのボックスを買うことにした。

 百均にでも行けば売っているだろうと思い、お気に入りのスニーカーに足先を通す。

 わたしの夏が今、始まった。



 夏が過ぎ、秋に入る。

 手紙には、アルバイト(ピザ屋さん)での失敗をなぐさめてくれたり、前向きにしてくれることばかりが書かれてあった。

 だけど、とうとう。

「自分への小包、多いですね」

 郵便屋さんに声をかけられてしまった。

 頭を短く刈って、チーズケーキみたいに目尻の柔らかそうな郵便屋さん。歳はわたしより少し上、二十代前半というところかな。

 そりゃ郵便屋さんも気になるよね。七月の上旬からおよそ三ヶ月。ほとんど毎日おかしな小包を届けてくれたのだから、気にするなという方が無茶だろう。

「そうですね」

 わたしがすんなり肯定すると、郵便屋さんは興味ありげにこちらを見た。今日の夜、生まれて初めての合コンに誘われている、というのもわたしを陽気にさせた原因の一つだったのかもしれない。

「この小包には、わたしに宛てた手紙が入っているんです」

「え、誰からですか?」

「わかりません。でも、わたしを元気づけてくれる手紙ばかりなんですよ」

「それはそれは。日記みたいなものですかね」

 郵便屋さんは簡単な会釈をして、階段を下っていった。

 踊り場の吹き抜けから、ひとつあゆが潜りこんでくる。

 わたしは前髪を押さえてドアを閉め、化粧用の鏡をテーブルに置いた。



 冷たい、雨だった。

 風が、雨を連れてきた。

 わたしはグレンチェックのチェスターコートをびしょびしょに濡らして、ようやく自分の部屋へとたどり着いた。

 時計を見る。

 午前四時。

 わたしはコートを椅子にかけ、本当に棒が倒れるようにベッドへと沈んだ。

 顔の化粧はほとんどが落ちている。鼻をスンスン鳴らした。自分が泣いている、という事実がさらに涙を呼びこみ、やがて視界は薄らとした透明の膜に覆われていった。

 わたしは昨日の合コンで、お持ち帰りをされた。

 もちろん調子に乗っていた自分が一番悪い。

 だけど気づいたらお酒をたんまりと飲まされていて、強引に手を引っ張られてホテルへ入り、「ごめん。こういうの、だめだよ」と断ったところで相手の男にこう言われた。


「うざいわ」


 名前は……たしか、リクくんとかいったかな。たぶんそうだった。

 リクくんは合コンの間、色んなアルバイトをしているって話してくれた。男の子にも女の子にも優しくて、みんなのお酒を注いだりしてくれた。いい人だな、って思った。

 わたしがリクくんを拒否してから、リクくんは背中を向けたままただのひとことも喋ってくれなくなった。どうしていいのか迷うこと三十分。緊張の静寂は、リクくんがホテルの部屋を出ていく音で破られた。

 わたしはホテルにお金を払った。一万二千円。

 電車は走っていなくて、タクシーに乗った。八千円。

 合計二万円を失った悲しみの百倍くらい、わたしの中でなにものかの感情が暴れた。マクラを殴る。ヘッドボードに置いてあるミニカレンダーを投げ落とす。どうしてわたしはわたしに生まれて、こんな屈辱を味わわなければならなかったのか。

 電気を落とす。窓硝子に、雨粒がへばりつきながら流れていく。

 わたしは待ち遠しかった。

 あの手紙を、心の奥で待っていた。

 見もしない誰でもいいから、わたしの昨晩について、意味づけをしてほしかった。



 小包の受けとり拒否を始めてからもう、二週間になる。

 はっきりいってあんな手紙に一瞬でも頼ろうとした自分がバカだった。

 最悪の思いをした夜の、次の日。

 届いた手紙の文面は、とてもあっさりとしたものだった。


『大変なことがあったね。

 まあ、それも美紗子ちゃんの糧になるはず。がんばろう』


 なにが、がんばろう、だ。

 差出人は、わたしが合コンで飲まされるのを予想していたんじゃないか。ほぼ確実に予想できていたからこそ、次の日に届くタイミングで『大変なことがあった』と書くことができた。つまり差出人は、わたしの未来を予見していた。

 だったら、止めてくれたってよかっただろう。

 それだけわたしの行動を読めるのなら、電話をかけても、それこそ窓の外で叫んでくれてもよかった。そうだ、叫んでくれたのならわたしは不気味に思って出かけなかったに違いない。どうして、そうしてくれなかったのよ。

 呆れた。

 この手紙はわたしをからかっている。

 すぐに喜び、すぐに泣くわたしを観察して面白がっている。

 だったらそんな手紙、二度と受けとってやるものか。

 そうしてスタートした、断固受けとり拒否。

 最初のうちは不在通知がどかどかポストに届き、しまいには郵便局から電話がかかってきた。いちいち反応するのに疲れてきたから、三回目の着信以降はそれも無視だ。

 だけど大学に行って学食で天津飯を食べている時、ピザ屋さんで後輩の女の子と映画トークしている間、そして実家に「きょうもへいおんぶじでした」と電話をしている際にだって、溜まっていっているだろう小包のことがどうしても頭から消えてくれなかった。

 そして、十一月に入ってすぐの土曜日。

 ピンポーン、ピンポーン! とやかましい呼び出し音に苛立ってドアスコープから廊下をのぞいたわたしは、あまりの光景にひっくり返りそうになった。

 引っ越しの一ページを彷彿ほうふつとさせるくらいの、大量の小包。郵便屋さんはそれらを廊下にずらりと並べ、ゴホゴホ咳をしていたんだ。



「いるなら出てきて下さいよ」

 郵便屋さんは、半ば憮然ぶぜんとしながら言った。

「こういうの、保管期限が過ぎたら送り主の方のところに戻すんですけど、これって全部あなたが送り主でしょう。受けとってもらわないと困ります」

 むっとした。

 だってわたしは、送り主じゃないもん。

「これ、わたしが出したんじゃありません」

「冗談はやめて下さい。じゃあ、誰が出したっていうんですか」

 郵便屋さんも、一歩も引く気はないらしい。目に力を入れてわたしを睨む。

「さあ。開けてみましょうか? こんな手紙、自分に出すわけありませんから」

 わたしはクロックスのサンダルを素早く履いて廊下へ。ダンボールの塊を一つ持ち上げると、その梱包を殴るように開けた。

 もちろん、出てくるのは一通の手紙。

 郵便屋さんの方に向けて封を切る――と。


『こんな手紙に騙されて、バカじゃない?』


 血の気が引いた。

 なに……これ?

 わたしは次のダンボールを破る。

 次も、次も、次も。

 だけど手紙の内容は全て、これまでとは完全に質を異にするものだった。


『自分の行動を監視されて、変だと思わなかったの?』

『美紗子ちゃんは単純だね。だから男に遊ばれるんだよ』


 眼球の血管が脈動した。ふらりと後方へ移動し、玄関マットに腰を落とす。すぐさま郵便屋さんが寄ってきて「大丈夫ですか!?」と訊いてきたけど、その声はサランラップ一枚を隔てたようにくぐもっていた。

「わかりました。わかりましたよ。これは、あなたが出したんじゃない」

 そう。

 そうだよ。

 わたしが出したんじゃない。

 誰かがわたしのことを見張っていて、逐一手紙で報告してきたんだ。

「誰なんです。警察に言った方がいいんじゃないですか」

 そうだ、そういう可能性も考えた。あるいは、差出人が病院や大学関係の人だっていう選択肢も。

 だけど情報がタイムリーすぎる。

 肺炎も治り、前期試験も終わり、なおかつ、あの合コンの翌日には先日の内容がしたためられていたんだ。こんなの、わたしの後ろをついて歩く人が書いたとしか思えない。

 だけど、そこで。

 思い当たった。

 わたしとずっと接してきた人が、一人だけいる。

「……あなたでしょ」

 わたしは、幽霊のように緩慢な仕草で人差し指を向けた。

「郵便屋さんしか考えられない。これ、全部あなたがつくって送ったんでしょ」

「僕がですか?」

「ああ、そっか。そうだったの。いつもあなたが担当の時だけ届くっていうのは、そういうわけだったのね……」

「違いますよ」

 郵便屋さんは、わたしを諭すように言った。

 そして、腰のポーチから電卓みたいな機械を取り出す。

「この番号の当日受付時刻がここ。僕の配送記録が、ここから始まってここまで。これは証明に使うから自動印字です。この小包はたしかに受付を通っていますよね。それに僕は今日、こんな小包をつくる時間はありませんでした。だいいちこれだけ仕事をしていて、あなたを見張る時間なんてどこにあるというんですか」

 最後の可能性すらも、容易く否定された。

 呆気にとられるわたしを尻目に、郵便屋さんは一つの小包を探して持ってくる。

「これ、今日のぶんですよね」

 わたしは黙ったまま、ダンボールを開ける機械のように封を切る。

 その手紙には、励ましでもなく、悪口でもなく、たったの五文字が書かれていた。


『ありがとう』


 頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 差出人のわからない手紙が届き。

 その手紙はわたしをタイムリーに観察していて。

 励まし、それでいて注意はしてくれず。

 馬鹿にした挙げ句、最後には短いお礼を述べる。

「なんなのよ、これ……」

 ボールの跳ねる音がした。どこかの家の子供がマンションの壁にボールをぶつけて遊んでいるらしい。わたしにもあんな頃があった。だけど、迷って迷ってここまでたどり着き。全てが明瞭めいりょうになると思った大人の一歩手前で、今もわたしは見えない水を必死にかき分けている。

「これ、差し上げます」

 そう言って郵便屋さんがポケットから取り出したのは、丹色(にいろ)の球だった。球同士は紐で繋がり、一つの円環を形成している。

「本物じゃないんですけど、紅玉髄べにぎょくずいを模したブレスレットです」

「紅玉髄……」

「横文字でいえば、カーネリアン。ゲームセンターの景品で失礼ですが、どうぞ」

 郵便屋さんはわたしにブレスレットを握らせた。

 それから照れくさそうに手を離し、そのまま鼻の下を軽くこする。

「カーネリアンの石言葉は『友情』です。その手紙はあなたのことをよく見ていた。あなたのことが嫌いだったら、こんなに送りはしませんよ。だから、差出人はあなたに友情を感じていた。そう考えたら、ちょっと素敵だと思いませんか?」

 うーん、とわたしは首をひねった。

 友情……なのかな、これは?

 でも、それでいいのかも。

 世の中にある全てのことを良いふうに解釈するなんて、ちょっと粋かもしれない。

 両肩に乗っかっていた重りがポロンととれたように感じた。

「じゃあ」

 わたしは頭を小さく揺らし、息を整える。

「郵便屋さんとも、友達になっちゃうかもですね」

 途端、郵便屋さんの頬に小さな紅がかかった。

「そういうことです」

 彼の笑みには、秋風が似合った。

 匂いの粒をたっぷりと詰めこんで、遠い昔を思い出させてくれる風。

 わたしは、大人になるのは、もうちょっとゆっくりでもいいんじゃないかと思う。


 その日以降。

 わたしに、小包が届くことはなかった。


 クリスマスが近づく街には、赤色と電飾が目立ち始めている。



 ☆  ★  ☆  ★  ☆



 僕は目覚めた。


 ぼんやりとして、平衡感覚をすぐに掴むことができない。

 ああ、そうだ。

 またここに来てしまったのか。

 僕は六十年前に寝っ転がっていたベッドに腰を下ろし、自分の頬を小さく叩く。

 そうそう、早く美紗子に手紙を書かなくっちゃな。

 文机の上からサインペンを取り……、そのまま、またペン立てに戻す。


 終わりにしたんだった。


 美紗子への手紙は、お礼の言葉でおしまい。

 いつものように郵便局の顔なじみの職員に小包を渡し、「お、また彼女か」「いいから早く受けつけてくれって」「わかったわかった。わかったから、配達いってこいよ」などというお決まりの会話をしなくてもいい。

 美紗子の未来をけして変えないようにと気をつけ、過ぎ去った悲しい出来事についてのみ彼女を励ます必要もなくなってしまった。

 だったら僕の意識は、ここらでお役御免というところだろう。

 あれは、たった一ヶ月前のことだった。

 僕は『特発性肺線維症はいせんいしょう急性増悪きゅうせいぞうあく』だと診断された。

 ちょっと息苦しいなと思っていただけなのに、いつの間にか意識が混濁するようになった。今では一日のうち、99パーセントの間は眠っている。たまに起きても、木漏れ日にゆらゆらと揺れるカーテンがぼんやり見えるくらいで、視界はすぐに黒く沈む。

 だけど神様はチャンスをくれた。

 僕の意識だけを、青春を過ごした頃に戻してくれたのだ。

 意識が戻るのは朝の二時間だけ。僕はその二時間を、たった一つのことに費やした。

 五年前にこの世を去った、妻の美紗子への手紙を書くこと。

 そしてその手紙を同僚に渡し、自らの配達物の中に入れること。

 だから僕はせっかくの機会を、昔の僕自身に譲った。美紗子の顔をひと目見たいという気持ちをぐっとこらえ、若い二人に運命を渡そうと決意したのだ。

 後の配送、そして美紗子との会話はきっと、昔の僕がうまくやってくれる。

 そう信じて、ペンを走らせた。

 良い思い出も辛い思い出もまるごと全部、彼女の糧になると信じながら。

 美紗子が僕のお勧めどおり、日記をつけるようになってくれて本当によかった。彼女が遺品として残した日記を読んで、僕はかつて彼女に訪れた事件と悩みを知ることができたのだから。


 でも。


 見たかったな。

 もう一度でいいから、あのきれいな美紗子を見てみたかったな。

 指でつつけば弾く肌。臈長ろうたけた、アーモンド型の瞳。そして、芯の強さが感じられる、利発そうな唇。


 そうだ、美紗子はそういう女だった。


 喜怒哀楽が激しいけれど、世の中を愛そうと努め続けた。

 僕がカレーラーメンをつくりたいと言ったら、本気で協力してくれた。

 パソコンを二台並べて、二人で詩をつづり合った。

『ウォーリーをさがせ』で、本気の勝負をした。

 久石譲の音楽を聴きながら、隣同士で梅酒を楽しんだ。


 見たかったな……。

 僕にはもったいない、最高の彼女を。


 だけどもしも会えたなら、きっとこんなふうにからかわれることだろう。

「なんでニヤニヤしてるの? あ、ゲームセンターでいいのが取れたんだ?」

 車座のカーネリアンを巻いたあの腕を、大きく振って。


 桐原美紗子は、そんな、素晴らしい女だった。



                              了

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