終章 カフェのテラスで

 ハーフィドを撃ってから数か月後。


 ラティーファはベイルート国際空港行きのリムジンバスを待ち、停留所近くのカフェのテラスにいた。道角に面した開放的で明るい店舗は、春の陽気の中でよりいっそう居心地がよくなっている。


「このキッシュ、ふわふわですごく美味しい……」

 四等分された小振りなキッシュを取り分けて、ラティーファはうっとりとフォークを口に運んだ。卵と生クリームでできた生地にひき肉を混ぜ込み焼いたキッシュはやわらかく、ほどほどの塩気が食欲をそそる。


「人の金だからって、食べすぎだ。さっきホットサンドと揚げナスも食べただろう」


 向かいの席から、文句が入る。

 この発言者が、食事の代金を支払ってくれるガァニィだ。ガァニィはエスプレッソを飲みながら、あきれた顔でラティーファを見ていた。


「ちゃんと考えた上で注文してるんだから、おじさんは放っておいてよね」


 ラティーファは軽く反論をして、キッシュをさらにもう一口食べた。


 渡航費用が貯まりアメリカへ移住することにしたラティーファは、最後にガァニィにご馳走になってから出発することにした。二人がこうして同席しているのは、そのためである。


(アメリカって食事は大味とも言うし、美味しいものはここで食べとかないとね)


 ラティーファはガァニィの注意も無視して、さらにオレンジのシャーベットも注文した。好きでも何でもない男の前だから、遠慮することはないと思った。

 一人で次々と料理を平らげるラティーファを前にして、ガァニィは恩着せがましく言った。


「しかし、これでこの街でお前と会うのも最後か。感謝するんだな。二重スパイであるお前が始末されずに生きているのは、私が話の通じる男であったおかげだ」

「話の通じるっていうか、同じ裏切り者同士だったっていうか……」


 ラティーファはシャーベットを食べながら苦笑した。内通先のイスラエル人よりもガァニィの方を信頼しているのは事実である。だがよく理解し自分と同質なものを感じているからこそ、ラティーファはガァニィのことを好きだと思ったことはない。


 エスプレッソのカップをソーサーに置き、ガァニィも小さく笑った。


「ま、確かにいろいろあったな。だがあいつも私じゃなくてお前に殺されたところで、多少は救われたことだろう」


 あいつというのは、もちろんハーフィドのことである。本人が気付いているかどうかはわからないが、ガァニィはハーフィドの話をするときだけは少々感傷的だ。

 だからラティーファはあえて、ガァニィを茶化しながらも非難した。本音を言うと、自分は決して手を汚さないガァニィがときどき腹立たしくもあった。


「そんなのが最後の思いやりとか、ひどい上司だね」

 上目づかいで、ガァニィを見つめる。

 同罪だと思っていたラティーファに悪者扱いされたガァニィは、すぐさま辛辣に言い返した。

「おいおい、自分ばっかりいいやつのふりか? お前だってあいつを騙しただろう」

 甘く整った顔を冷たく歪ませて、ガァニィは薄情に笑っていた。


 ガァニィの言う通り、ラティーファは望んで恋人になった上でハーフィドを騙し続け、最後は殺した。それは確かに事実である。


(だけど、だからと言って全部が嘘になるわけじゃない)


 脳裏にかつての恋人の、少年らしさの抜けない姿を思い描く。ラティーファはハーフィドの危うさに惹かれていたし、自分にはない生真面目さも好きだった。

 だからこそ最終的には破局が約束されていたのであるが、それでもラティーファはハーフィドと一緒にいたかった。

 シャーベットを食べ終えたラティーファは、自然に真剣な表情になって答えた。


「でもわたしは好きだったから、ハーフィドのこと。あなただって本当のところは、そうなんじゃないの?」

「……そう思うか?」


 ガァニィが、冷笑を崩さずに尋ね返す。だがやはり、そこにはわずかだが殊勝な響きがあった。


「多分、そうだよ」


 ラティーファは静かにうなずいた。


 春になって暖かくなった風が、カフェのテラスに吹き込む。


(きっとハーフィドのこと、アメリカでも思い出すだろうな)


 ラティーファは胸の痛みとともに、アメリカでの生活を想像した。

 だが、決して後悔はしなかった。正しさを求めて罪を重ねたハーフィドに戻る場所がなかったように、欲望に従って故郷を捨てたラティーファもまた後戻りはできない。


(でも私はうまくやるよ。アメリカでだって)


 春風で乱れた髪を耳にかけ、ラティーファはテラスの屋根の向こうの青空を見上げた。

 空は雲一つなく、ただラティーファの頭上にあった。


 生きている限り、ラティーファはこの空の下を進むのだ。

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ベイルート四重奏 名瀬口にぼし @poemin

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