第16話 無知の代償

 車に戻ったハーフィドは、ガァニィの事務所を目指すことにした。


(俺はラティーファのことが好きだったから、彼女には何も言えない。だけど、ガァニィは違う)

 ラティーファにぶつけられなかった怒りの矛先を、ガァニィへと向ける。


 かつてシャクールは「理由があったら人を殺してもいいのか?」とハーフィドに尋ねた。

 ハーフィドはそうだと信じた。信じようとした。だが蓋を開けてみればその理由はすべてがでたらめで、偽りだった。暗殺者として罪を重ねてきたハーフィドに正しさを与えてくれるものは、今は何もない。

 しかしだからと言って、平和に生きることができる日常を捨ててしまったハーフィドは戻ることもできない。


 行き先を失くした衝動を抱え、ハーフィドは何らかの結末を求めてガァニィの元へと車を走らせた。すべての根源はガァニィであると思わなければ、どうしようもなかった。


 ◆


 事務所につくと、見張りの男が階段の前に座っていた。

 男はハーフィドの顔を見ると、特に何を聞くでもなく通してくれた。


 夕暮れが近づき暗くなる中、ハーフィドは階段を上ってドアを開けた。


 室内では、ガァニィがテーブルで書き物をしていた。

 他に人がいる気配はなく、おそらく部屋にいるのはガァニィとハーフィドだけだと思われた。


「やはり来たか。ラティーファから連絡をもらったから、事情は把握している」


 ソファに座るガァニィは、商談か何かから戻ってきたところなのか黒のストライプのスーツを着ていつも以上に洒落こんでいる。

 ガァニィは万年筆をテーブルに置き、顔を上げた。


「それで、お前はここに何をしに来たんだ?」


 何も知らないことはないとでも言いたげな顔をして、ガァニィはハーフィドに問いかけた。


(この期に及んでもラティーファは、わざわざこいつの味方をしたのか……)


 ラティーファがガァニィに身の危険を知らせていたことに、ハーフィドは二人の関係の近さを改めて実感して傷ついた。

 だがガァニィを改めて目の前にすれば自然と怒りがわき上がり、ハーフィドは拳を握りしめた。


「俺はあんたを心の底から信じたことはなかった。だけどここまであんたに良心がないとは思わなかったよ」

「そうか。それは悪かったな。私は別に、特別お前に対して善良に振る舞った覚えはないんだが」


 まったく悪びれることなく、ガァニィは腕を組んでソファにもたれた。

 年のわりに若々しい叔父の顔は、甘く冷たい笑いを浮かべている。


 たまたま親戚だったというだけで、ガァニィはハーフィドとはまったく違う倫理の世界に生きている人間だった。だがそれでもその利己的な態度を壊したくて、ハーフィドはガァニィをきつく問い詰めた。


「あんたは自分の地位と保身のために、罪のない人を殺し続けた。俺やシャクールや、大勢の人を騙した。何で、そんなことができたんだ?」


 切羽詰まったハーフィドの声が、部屋中に響く。

 その思い詰めた叫びに、ガァニィはほんの少しだけ顔をしかめた。


「何でだろうな。ときどき考えてみるんだが、多分私は最初から、お前みたいに故郷を取り戻すとかそういう幻想を本気で信じてたわけじゃないんだ」


 ガァニィは遠い目をして、残念そうに肩をすくめる。そのあきらめた顔はハーフィドを馬鹿にしていると思われたが、ある意味では羨んでいるようにも見えた。


「そりゃたまには愛国心を抱くこともあった。でも結局のところはこの世界でうまくやっていける自信があったからここにいるだけだ。お前はお前で勝手に騙されて、私はそれを利用した……」


 そう言い終えたガァニィは、ハーフィドの方を見ることなく目を伏せた。感傷的な表情とは裏腹に、その言い分はひどく無頓着で大雑把である。

 しかしだからこそ、それはガァニィの真実だった。ガァニィが武器商人として独立運動や内戦の影で暗躍するのに、思想的な動機はまったくない。ただ自分の能力を信じ、試すためだけに彼は生きていた。その人生には正義も悪もなく、成功か失敗かだけが絶対的な尺度である。


 その価値観の前では、ハーフィドの正義感も怒りも何もかもが無意味であった。ラティーファもガァニィも、恨んだところで話が通じる相手ではない。

 ハーフィドは自分が世界中でただ一人、周りの人とは違うものを見て生きていたような気がした。


「確かに選んだのは俺で、あんたじゃない。俺は馬鹿で浅はかだった」


 ハーフィドは声を震わせて、銃に手を伸ばした。気付けば、頬には涙が流れていた。

 裏切った二人を責め立てても、与えられた忠告に耳を貸さず罪を重ねたのは自分だった。シャクールを殺したのも、命令されたからではなくて自分の過ちを認めたくなかったからである。これまでの行為の代償を支払うことができるのは、結局のところはハーフィドしかいない。

 だがハーフィドは、大義名分抜きで今まで殺してきた人々に向き合えるほど強くはなれなかった。


「だから俺はもう、あんたを殺すくらいしかやれることがないんだよ」


 ハーフィドは銃を抜き、ガァニィに突きつけた。ガァニィを殺すことで自分が救われるとは思わなかったが、とにかく何かを終わらせたかった。


 ソファに腰掛けたまま、ガァニィが試すような瞳でハーフィドを見上げる。


 ハーフィドは頭が混乱したまま引き金に指をかけ、そして引こうとした。


 ◆


 だがハーフィドが引き金を引く前に、銃声がした。


 その音に振り返ると、開かれた事務所のドアの前に赤いロングコートを着たラティーファが銃を構えて立っていた。


 驚いてラティーファの名前を呼ぼうとしたそのとき、ハーフィドは自分のシャツが濡れていることに気付いた。銃弾はハーフィドの胸に当たったのだ。


「ラティーファ……君は……」


 撃たれた実感もわかないまま、ハーフィドはラティーファに話しかけた。

 だがラティーファは何も言わず、寂しげな表情でさらに発砲した。冷静に狙い撃たれた弾は、呆然と立ち尽くすハーフィドの頭部に直撃する。


(俺は……誰にとって……)


 そして、ハーフィドの思考は永遠に終わった。

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