第15話 明かされる真実
ハーフィドは自宅に戻ると、車に乗ってラティーファの家に向かった。
何度か訪れたことがあるので、住所はわかっている。
十分ほど走れば、街の西部にあるラティーファの住んでいるアパートに着いた。大きめのビルに挟まれるようにして立つ、ほどほどに新しい白く小奇麗な物件だ。
家にいない可能性もあったが、ハーフィドは構わずにラティーファの部屋へと向かった。
(四〇五号室……ここだ)
ラティーファの部屋の前に辿り着いたハーフィドは、深呼吸をしてチャイムを鳴らした。
少し待つとドアが開き、隙間からラティーファが現れた。
「ラティーファ、俺だ」
「……ハーフィド? 待って、今開けるから」
ラティーファはドアのチェーンを外すと、ハーフィドを中へ招き入れた。突然の来訪に、驚いているようであった。
奥のリビングに案内されたハーフィドは、黒革のカウチソファに腰掛けた。シンプルなレースカーテンのかかった窓からは、午後の陽射しがまぶしく入り込んでいる。
白と黒を基調にした部屋は、ラティーファの普段の服装と同じように洗練されていた。
ローテーブルに出しっぱなしになっていた雑誌を片付けながら、ラティーファはハーフィドの様子を伺っていた。
「顔色悪いけど、どうかしたの?」
ラティーファはハーフィドの異変に気付いているようだったが、それでも平常を保っている。今までは安心してきたその何気のなさが、今日は逆に疑わしく感じた。
(俺はラティーファを信じたい。だけど……)
先ほど男に蹴られた腹部の痛みに耐えつつ、ハーフィドはラティーファに尋ね返した。
「……君は、二重スパイだったのか?」
突然の問いかけに、ラティーファは一瞬虚をつかれたような顔をした。そしてまるで何が起きているのかわかっていないといった雰囲気で、ハーフィドを凝視する。
「え? 急に何?」
演技なのか素なのか、それはまったく自然な反応であった。ラティーファの本心がどこあるのか、それだけでは判別がつかない。
そのためハーフィドは、ラティーファが裏切っているというのは間違いなのかもしれないと期待を捨てられなかった。しかしそれでも信じきることはできず、ハーフィドはさらに追及した。
「さっき逃げた、暗殺対象だったイスラエルの諜報機関の男が言ったんだ。君は、俺に無実の人を殺させているって」
ハーフィドは冷や汗に湿った額を拭い、ラティーファを見上げた。
乱れた前髪の向こうに見えるラティーファは、何も言わずにハーフィドを見つめていた。
たとえ本当に裏切っているのだとしても、証拠を突きつけられたわけではないのだからいくらでも言い逃れる方法はあるはずだった。だがラティーファは、ただ申し訳なさそうな顔をして立っていた。
それが、答えであった。
その意味するところを理解したハーフィドは、声を震わせて問いただした。
「何で黙るんだ」
「……ごめんね」
ラティーファは小さくつぶやいた。
その声は優しげだったが、明らかにごまかしだった。
誠実なふりをしつつも人を欺いたことは否定しないラティーファに、ハーフィドは腹が立って思わず声を荒げた。
「謝るなよ! 謝るくらいなら、俺の前に現れなければ良かったんだ」
実のところハーフィドは、ラティーファが見せている気遣いは本心のところもあると思った。だからこそ、ラティーファは嘘をつかずに裏切りを無言で認めたのだろう。
しかし今まで裏切り続けた上での取って付けたような思い遣りは、ハーフィドをさらに苛立たせるだけだった。
ハーフィドの怒鳴り声に、ラティーファが身を竦ませる。
そのか弱い反応に、後ろめたさが生じる。だがやはり結局のところは、裏切られ続けていたという事実に対する怒りの方が勝る。
同情を引ききれなかったことを察したラティーファはため息をつき、おずおずと言い訳めいたことを語り出した。
「別に私は、あなたを傷付けようと思ってたわけじゃないんだよ。完全にあっち側ってわけじゃないし。ただ私は、都合の良い方でいたかっただけで」
どうやらそれが、ラティーファの本音であるらしかった。
正直に話すのは誠意なのかもしれない。しかしその内容は到底許せるものではなかった。
ハーフィドはラティーファをにらみ、冷たく言い放った。
「それは、悪意があるよりも酷いことなんじゃないのか?」
「……批判されても、仕方がないね。でもそういう生き方をしているのは私だけじゃないよ。ガァニィだってそう」
自分の非を認めつつも開き直ったラティーファは、他者の裏切りも暴露し巻き込むことで自分を正当化しようとした。
「ガァニィが?」
急に出てきたガァニィの名前に、ハーフィドは驚いて聞き返した。
ガァニィが善人ではないことは、最初から薄々わかっていた。しかしだからこそ、同じ組織の味方であることは間違いがないと信じていた。そのガァニィさえも、ハーフィドを裏切っていたというのだろうか。
うろたえるハーフィドに、ラティーファは容赦なく真実を詳らかにした。
「ガァニィは第二次中東戦争のときにシリアにいたんだけど、そのとき得たシリア政府との縁を使って武器を横流ししてるっていうのは知っているね? だからガァニィは組織の一員である前に、シリアの意向を汲んで行動しなければいけない立場にいる。そういう背景の中で、彼はこのレバノンって国にいるの」
もうどうにでもなれという心境なのか、ラティーファの言葉は徐々に饒舌さを増す。
「私たちパレスチナ人にとっては、この国がイスラム教徒の国になった方が都合が良い。だけどシリア政府がこの国に望むのは、イスラム教徒の勝利でもキリスト教徒の勝利でもない。どっちつかずの国としてイスラエルからの防波堤になることが、シリアがレバノンに期待する役目なんだよ」
それはハーフィドが自分たちの正義を信じたいがために気付けなかった、味方であるはずの存在が抱える複雑な利害関係の話であった。ハーフィドはもう裏切られたというよりも、今まで信じてきたものすべてを否定された気持ちだった。
「そういうわけだから、ガァニィはこの国でイスラム教徒を勝たせようとはしていない。争いに決着がつかないように、時には理由を偽ってパレスチナの味方であるはずの人を敵と偽り暗殺を命令して均衡を保っている」
ラティーファははっきりと、ガァニィの裏切りを断定した。
(ガァニィの命令は、この国を争わせ続けるためのものだった……? じゃあ、組織の拠点とパレスチナ人の居場所を守るために戦っているつもりだった俺は一体……?)
この話が真実だとすると、ハーフィドに与えられていた命令はラティーファの流した嘘の情報があってもなくてもほぼ最初から虚言だったということになる。
ハーフィドは目の前が真っ暗になったような心地がした。
「そんな話……」
あまりに根本的なところから覆されたハーフィドは、現実を受け止めきれずに反論しようとした。
だがラティーファはそれを許さず、追い打ちをかけるようにさらなる事実を告げた。
「少なくともあのムディルとか言うジャーナリストの男は、ガァニィの意向で死ぬことになった人だよ。あの人は、ガァニィとシリアとのつながりを記事にしようとした。だからガァニィは保身のために私に嘘の情報を用意させて、彼をあなたに殺させたの」
ハーフィドが自分のしていることに疑念を抱き始めた、数か月前の暗殺。
その真実についてラティーファが語った言葉は、決定的にハーフィドが頼りにしていたものを突き崩した。
(そうか。だからあのとき俺は、あの人を殺してはいけないような気がしたのか……)
全てを知らされてやっと、何もかもが腑に落ちた。だが真実を受け入れたところで、ハーフィドが無実の人を殺してきたという現実は変わらない。
「……君はそれを知っていたのに、俺には何も言わなかったんだな」
迷っていた時に心の支えになっていたのがラティーファだったことを思い出しながら、ハーフィドは静かに尋ねた。もうすぐ壊れることがわかってはいても、今のハーフィドにはラティーファとの関係しか残されていなかった。
今まで開き直った態度をとっていたラティーファも、この問いには気まずそうに口をつぐんだ。長い沈黙を挟み、ラティーファはつらそうな顔をしてつぶやいた。
「……好きっていうのは本当だったんだよ。あなたに近づいたのだって騙そうとしたとかじゃなくて、本気で恋人になりたいって思ったからだし」
今までラティーファがハーフィドに寄せてきた好意が嘘ではないことは、本当のことだと思われた。今までの日々を振り返って、そういう実感があった。だがだからこそ、ハーフィドはラティーファの裏切りが許せなかった。
(俺を騙していたくせに、何でラティーファはあんなにも幸せそうだったんだ……)
ラティーファの心は、知っていたよりもさらに遠かった。
届く言葉が見つからず、ハーフィドは何かを言おうとしては飲み込む。
沈黙するハーフィドからそっと目をそらし、ラティーファは寂しげにうつむいた。カーテン越しの日光が、ラティーファの端正な横顔を照らす。
「あなたが何も気付かないままだったなら、ずっと好きでいられたのにね」
「君は、本当にそれでも良かったのか?」
ハーフィドはソファから立ち上がり、ラティーファを見つめた。恋人に対して何よりもひどい仕打ちをしておきながら、ばれなければそのまま付き合えたと言ってのけるラティーファの気持ちがまったく理解できなかった。
すると静かに目を上げて、ラティーファが聞き返す。
「そうだよって言ったら、あなたはどうする?」
ラティーファは、冷静にハーフィドに選択を迫った。ラティーファの方は、もう言うべきことは言ったらしい。
(俺は……ラティーファを……)
無意識のうちにジャケット下の銃に手が伸ばしながら、ハーフィドは考えた。
だがラティーファの黒い瞳に見つめられると、何もできなかった。ハーフィドはラティーファのことが過去に好きであったし、正直なところを言うと裏切られたとわかっても本当の意味では嫌うことができなかった。
「――っ……」
銃を取ろうとした手を引っ込め、ハーフィドはラティーファに背を向けて勢いよく部屋を飛び出す。
ラティーファはハーフィドを追うことも、声をかけることもしなかった。
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