第16話 ベルリンの壁
それはいつも通りの何気ない朝だった。
朝というものは何故こうも憂鬱なのだろう、朝日という現実から目を背き、もう一度布団という深淵の中へと潜り込みたくなる衝動をグッと堪えきれずに布団の中に潜り込んでしまう星魔。
だがその衝動さえ殺してしまう、理恵の声が2階の自室まで届いて星魔は渋々1階のリビングへと降りていった。
「おはよう母さん」
「はい、おはよう」
星魔は何かが気にかかり辺りを見渡した、だがここ数日間いたはずのあの影がどこにも見当たらない、一度窓から大きな庭へと目をやるが彼女はどこにもいないトイレや風呂場にも人の気配がない。
「果てどうしたものか」
今まで朝になると必ずと言っていいほど元気な声で挨拶をしてきた彼女が突如としてこの家から消えたのだ。
まさかまだ部屋の中ということは無いだろう、などと考えていると。
「茜ならもう学校に行ったわよ」
「いやそっちじゃなくて」
側から見たら落ち着きのない星魔を見かけて理恵が茶化すように言った、誰が見ても星魔の探し人は明らかだろう。
「ああ、△Φ〇※□Ψ×ちゃんね。」
「え、今なんて?」
「だから、△Φ〇※□Ψ×ちゃんでしょ?」
星魔は顔面蒼白になったことだろう、先ほどから理恵の言っている言葉が理解できない、突然言葉の通じない海外にでも飛ばされたかのような、だが目の前にいるのは確かに理恵そのものだ、だとしたら・・・
脳裏に突如として不安がよぎる、今までのことはすべてなにか悪い夢で、ヴィスカなどと言う少女はこの世に元から存在していないのではないのか、でもなぜだろう夢なら夢で区切りが付けられてもいいはずなのにもかかわらず胸の中のもやはより一層濃くなるばかりだ。
居ても立ってもいられなくなり星魔が家を飛び出そうとしたその瞬間だった。
「ヴィスカちゃんでしょ」
理恵の口から確かにヴィスカと言う女性の名が紡がれた。
「ちょっと意地悪したくなっちゃった、ごめんなさい」
理恵は舌を出しながら手で頭をかいていた。
「母さん」
星魔は安堵した拍子に少し膝から崩れ落ちそうになるも寸でのところで踏みとどまった。
ヴィスカに対する思いが踏みとどまらせてくれたのか、それはまだわからないままだが、けれど挫けてはいけない、今だ安堵するべき場所はここではない、そう心が奮い立っているそんな気がしてならなかった。
それと同時に彼女へ対する思いが今ハッキリしたようにも思えてならなかった、案外自分が思っているよりも体は正直で、彼女を大切にしていることだけが、筋肉痛かのように、体の節々へ伝播していくものだと思い知った。
「でもこれで目が覚めたでしょう?」
「覚めるどころか飛び出そうになったよ」
「なら効果あったみたいね、朝ごはん出来てるから顔洗ってきなさい」
朝ごはんを食べているうちにヴィスカがこの家に本当にいないことを聞いた、朝だというのにどうしたものかと思っているとどうやら黒臣が早朝にきてヴィスカを何処かへ連れて行ったらしい。
何処へ連れて行ったというのか、夕方までには帰るという話らしいが。
星魔は朝食を終え学校へと向かうのだった。
その頃召王学園理事長室では。
厳粛な空気と共に開催された、擬似朝の会の会場では部屋の中央には大きな机と両端にソファ、そして窓の近くには書斎机と椅子が備えられており、窓の近くには、趣味なのだろうか熱帯魚のいる水槽が一つ置かれているだけの何の変哲もない部屋で行われていた。
そこには書斎机に備えられている椅子に座る黒臣、その横に秘書のように立つ中年男性、書斎机に相対して跪くヴィスカ、その後方には壁際に立つ礼一と同い年の黒髪短髪ポニーテールで童顔、聖女のような優しさを体現したかのような女性がいた。
その場での開口一番はやはりというべきか黒臣だった。
「どうだったこの3日間は?」
「はっ、3人には良くしていただいております」
「そうかならよかった、言わなければならないことがある、2日前のことだ、先日は試すような真似をしてすまなかった、銀朱のヴィスカという名前の噂はかねがね聞いていたのだが、どれほどか興味を持ってしまってね、手荒な真似をしたと思っている、すまなかった」
黒臣以外の3人が頷いた。
「そうでしたか、殿下が・・・まぁあのぐらいはやって当然でしょう、この世界の物は何かとひ弱な物も多いようですので私の腕力ではすぐ壊れてしまいますから、あれでも生ぬるいぐらいでしょう」
「そうか、あれでは生ぬるいか」
黒臣は言っただろとでも言わんばかりに隣にいる中年男性に目線を送った。
「さて、本題だ、今日呼び出した理由についてだが、しばらくの間、この地に留まりこの召王学園に在籍してもらう、茜及び星魔に今後降りかかるであろう火の粉を振り払って貰いたい、要するに護衛だ、出来るな?」
「はっ! 承知致しました」
ヴィスカは跪きながら深々と頭を下げた。
「よって、しばらくはあちらの世界には帰れないと肝に銘じなさい」
ヴィスカは予想していたことだろう、彼らが何故この地に滞在し、何故自分が呼び出されたのか薄々は勘づいていた、自分が呼び出されたのがただの偶然だったのだとしてもここに来てしまった以上そう易々と元の世界に帰れるわけではない、そう知りながらも彼女の胸の中は家族のことで一杯だった、だが一途の希望さえも今このたった一瞬の一言でかき消されてしまった。その事実が彼女のまだ幼い心を崩壊させてしまった。その事に黒臣達が気付くのはもう少し後になる。
「さて、ではそろそろ概要を説明させていただくことにしますか」
唐突に口を開いたのは黒臣の隣に立っている、黒臣とさほど年齢の変わらず、少し細長い印象を受ける眼鏡をかけた人物だった。
「ヴィスカ様はまだ14歳というお年頃なわけですがあちらでは一般教育はすべて終えていると聞いておりますが間違いないでしょうか?」
突然振られた話題に困惑し、しどろもどろになりながらもヴィスカは「はい」と答えた。
「でしたら問題ありませんね、こちらで言うところの高等学校での教育をすべて終えていることになりますので、まぁ特別処置として飛び級と言うことにしておきましょうか、ヴィスカ様の年齢ですと本来星魔様と同じ学び舎には通えないのですが、ここは護衛の意味もあるとして無理矢理ねじ込むことといたしましょう」
中年男性が不敵な笑みを浮かべる、逆光も相まってか不気味さが二倍三倍にも感じられ、発言もかなりアウトよりのアウト、白線を超えているのだが聞かなかったことにしよう。
「それとあちらの世界の常識とこちらの世界での常識は異なることがありますので、間違いだとしてもあまり気に留めないようお願いいたします、授業の妨害をなされては他の生徒たちへ悪影響を及ぼしかねませんのでくれぐれもご注意ください。テストなども不測の際にはこちらで手回しをさせていただきますのでお気になさらず星魔様や茜様の身の安全を第一に考えて行動なさってください。以上となりますがなにかご不明な点や質問などございますでしょうか?」
「あの、失礼ですがお名前を・・・」
「おや! これはこれはこちらの方が失礼いたしましたですね」
おぼつかない日本語を話しながら中年男性は微笑んだ。
「私、仕道雅也(しどうまさや)と申します、優子と修也、そしてヴィスカ様の後ろにおられる我が娘、仕道雅美(しどうまさみ)の父でございます」
「ちょっとお父さん! 私もう礼と籍を入れたんだから仕道じゃなくて召王なんだけど!」
軽く父を叱責しながら雅美がヴィスカの前に本当の意味で踊り出て修也が昨日ヴィスカに行ったような大仰なお辞儀をして見せた。
「初めまして、優子と修也と茜と星魔の姉、そ・し・て!礼一の妻の雅美と申しますなにとぞよろしくお願いします!」
ヴィスカに対してというより、今背後にしている黒臣と雅也に対して礼一の妻になったことをアピールしているようにしか見えないのだがここにそれを咎めるものはいなかった。
この姉にしてあの弟ありと言うことなのだろうか。
恋愛関連の話になると威勢がよくなるのが悪い癖なのだろう。
「雅美、ちょっと静かにしてて」
ここで口を出したのが最後まで黙っていた礼一だ。
「初めまして、私召王礼一と申します、黒臣の息子です。ヴィスカ様の噂はこちらにまで届いておりますよ、何でも単騎で魔物の群れ500を撃破したのだとか、今度お話を伺えますか?」
「いえ、あれはただ魔法を放っただけですので」
「500を撃破されるほどの高次元の魔法を放っただけで済ませられるのはヴィスカ様の実力が故だと思いますが?」
「そんな・・・ことは・・・」
ヴィスカは昨日ブードに言われたことを思い出していた、「謙遜は行き過ぎると他者を失望させてしまいますよ」あまり褒められ慣れていないヴィスカにはどう返していいものかわかなかったのだ。
「ゴホン!失礼、話が脱線しすぎたようだ、そろそろ朝のHRが始まってしまいますぞ、礼一殿が担任として、そして雅美は保険医とスクールカウンセラーとしての職に就いております、そのほかにも何か困ったことがございましたら仕道家の者を頼るとよいでしょう、今日からよろしくお願いしますねヴィスカ様」
雅也が締めくくろうとしたその時だった。
「あ! 忘れていた! ヴィスカ!」
黒臣が突然何かを思い出した。
「この世界では剣を持つ風習はもはやなく、不用意に持っていれば牢獄に入れられかねない、そのため普段から剣を所持することは控えなさい、だが今更獲物を持たず外へ出るのは抵抗があるだろう、そのためこれを渡しておく」
黒臣が机の引き出しから何かを徐に取り出した。その形はメンガーのスポンジのような四角い物体に均等に四角い穴が開けられたもので首から下げられるようにチェーンが付けられていた。
「これは所持者の思いに応え、魔力を込めれば思い通り意のままに姿を変える武器だ、魔力を込めれば込めるほど物質は大きくなり、魔力を抑えれば抑えるほど小さくなる、ヴィスカなら難なく使いこなせる代物だろう、いざという時のために持っておきなさい」
ヴィスカは黒臣の近くにまで行きその武器を受け取った。
「ありがたく頂戴いたします」
「さて、それではそろそろ教室へと」
と言いかけたところでまたも黒臣に遮られる。
「この場では皆は教師、そしてヴィスカは生徒と言う扱いになる、くれぐれも畏まった挨拶ではなく礼儀に沿った挨拶で済ませること、いいな? 一般生徒の前で間違っても跪かぬよう注意するように」
「わ、わかりました」
◇
「よし、それじゃぁまずは着替えだ」
全ての説明を終え、ヴィスカは礼一と雅美に連れられて保健室の前まで着いた。
礼一はその場で止まり2人が保健室へと入っていくのを見送った。
先程あったばかりの人物と2人きりと言うのはいくらヴィスカであっても気が引けるのだろう。
どう接して良いのか分からず会話がない。
保健室に来るまでは前方で2人が楽しそうに会話しているのを側から眺めていただけだった。
「うちの学校はね、基本私服でオッケーなんだけど、催し物とか外部から人が来る時は生徒と一般客が判るように制服が指定されているの、まぁみんな私服を毎日選ぶのが面倒だからって大概制服で来るんだけどね」
小学校の頃の体育がない日でも体育着で来る生徒と同じような物だろう、学生という身分でそれほど資金もなく服だけにお金をかけられないと言う一面もあるのだろうが、制服という指定されたものがあるのならば困ったら制服に妥協するというのも悪くはないのだ。
時々気分転換で私服にして注目を浴びる程度、普段ポニーテールだった少女が今日は気分で髪を下ろしてきた時のちょっと男心がくすぐられる、そんな意表をつくくらいでしか私服登校をするものはいないのである一部を除いては。
「でも茜は逆ね、基本私服で来てるわ、あの子何着ても似合うからお姉さん毎日茜に会うのが楽しみで楽しみで」
じゅるりとでも聞こえてきそうなほど濃厚な舌なめずりをし始める雅美に若干の危機感を覚えたヴィスカなのだった。
「よし、こんなものね」
ヴィスカに着せられた制服は、ベージュのブレザーにチェックのミニスカート、濃紺色の多い学生服にしては今時珍しい服装だ。
「か、可愛い」
それは突如として口から洩れた言葉だった。
保健室に入る前までに見かけた生徒たちもこれと同様の服を着ていた、今までのヴィスカの人生で見たことのない装いだったそれは、民族衣装か何かのようなもの程度だったのだが、いざ自分が着てみるとその偏見は大きく覆され。
「うんうん」
隣で頷く雅美がスマホを取り出し。
「はいこっち向いて―」
パシャリ
フラッシュと同時に目を瞑ってしまうヴィスカ
「ありゃりゃ目、瞑っちゃったね、ま、これもこれで可愛いからいいか」
スマホをヴィスカに見せる雅美、だがその光景をヴィスカはUMAでも発見したかのような形相で覗き込んでいた。
「私が・・・私がいます!」
「ありゃ、まだスマホ持ってなかったか、驚かしちゃった?」
「あの光は魂を吸い込む魔法【魂吸収(ソウルアブソーブ)】かなにかですか?」
「あはは、違うわよあんな危険ものヴィスカちゃんに使うわけないでしょ、それに私には使えないし、そもそも使ってたらヴィスカちゃんとこうして会話できないでしょ?」
物騒な魔法の単語を投げかけるもただの杞憂だとわかり胸をなでおろすヴィスカ、だがこの絵はなぜ自分を映し出しているのか気が気ではないご様子。
「これはね写真っていうの、その時その一瞬目に焼き付けておきたい記憶なんかをこうしてこっちの人は残す技術を身に着けたの、はい目を瞑らないでねー」
パシャリ
再度切られたシャッターに今度は目を見開くヴィスカ、雅美はそこに顔を近づけ、制服が写り込むように斜め上からの角度で撮影した。
「今度はすごい形相になっちゃったわね」
今まで見たことのない自分の表情につい吹き出してしまうヴィスカ
「ふふっ」
それにつられて雅美も笑っていた。
これなら大丈夫そうね、雅美は1人安堵していた、この世界に来た1人の少女、きっと無理をしているものだと勝手に決めつけていたのだが、受け答えははっきりとしていて、皆目上の存在だが、先程の会話から臆している気配は微塵も感じられなかった。
「そろそろ朝の会が始まっちゃうし教室へ行きましょうか! 何か気になることはない?」
「気になること・・・ですか・・・あ・・・」
「何何? 言ってごらん?」
少しの遠慮、仕方のないことだろう、彼女の中では色々な葛藤が日々渦巻いているのだ、聞いていいこと悪いことその良し悪しすらいまだ掴めずにいるのかも知れない。
「雅美様はこちらの世界で生を受けたのですか?」
なるほどそういう事か。
「ええ、そうよ、生まれも育ちもこっちなの、だから向こうの世界のことはよく分からないの、ごめんなさい」
「あ、いえそのようなことは」
彼女のその先が気になった、このまま質問したら彼女はしっかりと答えてくれるのだろうか、さっき会ったばかりの素性も知れないこの私に・・・
その時だった保健室のドアに鈍い音が走ったのは。
「そろそろ行かないと朝の会が始まっちゃうぞ」
「はーい、もう準備できたから今行くわ!」
雅美はドアの向こうで待っている礼一に応答し。
「ごめんなさいね、そろそろ時間みたい、また何かあったらいつでもこの部屋にいるから来なさい。玄関から入ってすぐ右手だからここは、いつでも歓迎するわ」
今日からここへ通うのだ、今すぐでなくともいずれ心を開き、何かあったら向こうから話してくれるようになるだろう。雅美は焦る必要などないと思った。
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