五、

08.夢の終わりに

 街を歩いた。日の暮れた線路脇、小さい頃からいくつもお願いごとをしてきたお稲荷さん、淋しさを紛らわしに出かけた散歩道でみつけた骨董品屋、油のしみこんだ裏道、買い物客でにぎわう魚屋の店先、揺れる黄色い電球、目に映る全てに思い出が刻まれていた。久し振りに地上に立ち、プラスチックの花が揺れる街灯の下、伸びる影よりずっと小さいことに、夜響やきょうはびっくりした。忙しく行き交う人々に紛れて透明になったみたいに、誰にもみつからないよう家に帰った。

 屋根の上でひとり空を見上げる。月は雲に隠れ、灰色の雨雲の隙間から、白い星が一つだけのぞく。

 ――浄化されるならそれもまた良し、この煩悩散りて消えゆくなら、月のない真っ暗な夜がいいな。星のまたたきは冷たくて、収拾付かぬ欲を冷やしてくれそうだから――

 そっと目を伏せ風を感じる。体が軽くなり宙に浮き、透けてゆくように思う。

〈星は、自らの重さでつぶれようとする力と、内部で起こっている核融合の熱で広がろうとする力が、釣り合って存在している〉

 理科の教科書で読んだことを思い出して、夜響は精一杯、見えない小さな星たちへ両手を伸ばした。「夜響もすぐに行くよ」

 屋根の上から、隣の家の付けっぱなしのテレビが見える。「CMの後は鬼騒動特集!」のテロップに、首を振る。身動きとれない箱の中で、必死にもがくみたいに、重い溜め息をつく。「幻は幻のままがいい」

 四方でくるくる変わるネオンサインをみつめながら、夜響は立ち上がる。鉄橋を渡る光の連なりが、胸に痛い。

 最後に何か――

 閉じた瞼の裏で、鮮やかな花火があがる。

 目を開ければ月の見えぬ空、隣には誰もいない。着物の袖から入るすきま風が、今夜は冷たい。

〈愛とは、愛することではない〉

 どこかでそんな歌を聴いた。

「じゃあなんだい、夜響は自己犠牲なんて大嫌いさ。そんなん偽善者が、人にみせつけるためにするんだから」

 瓦の間の砂を集めて、夜空に向かって投げつける。あの地下鉄の駅で、もっともらしく「自制」を語った遥を思い出す。

 だけどそれなら、なぜ夜響は今ひとりぼっちなんだ。

「馬鹿野郎、夜響はオニなんだぜ」

 夏の夜風が肌寒く、夜響はぎゅっと自分の肩を抱いた。

 すぐ下の部屋から、蛍光灯の明かりと流行の歌が流れてくる。双葉ふたばが雑誌でも読んでいるのかも知れない。喧嘩ばかりしていた部屋は、このすぐ足下あしもと、足の裏から痛いほどの熱が伝わって、夜響はたまらず膝を抱えて顔をうずめた。真っ白く変わった髪を強く握る。渾身の力を込めて引く。青筋が浮かぶその手も、不気味に白い。黒い虚無に背中を打ち付けられ、夜響は髪を掻きむしる。一葉いちはの影が濃さを増す。久しく忘れていた罪という言葉が、脳裏に張り付いた。

一葉いちは、あんたは倖せだったんだ」

 失ったものはあまりに大きい。そのことに気付いた今、所長から同じものを奪うわけにはいかなかった。街も家族も学校も、捨て去った全てのものが今になっていとおしい。

「だけど後悔はない」

 髪振り乱して、夜響は頑なに首を振る。ねじ曲げられて、体のどこかが悲鳴を上げた。

「オニの力を手に入れ姿を変えなかったら、一生動けぬままだった。単調な日々よりもっと嫌だったのは、不平の積み木を積み続ける自分、そしてそんな自分を大っ嫌いな自分」

 それでも何も出来ない精神的疲弊。それはオニになることで打破された。

一葉いちはのままじゃあ所長を堕とせはしなかった」

 くすっと笑う。足を組みかえ白い腿もあらわに、上目遣いに虚空をにらんで、

「こんな恰好、一葉いちはにゃ無理さ」

 と、勝ち誇った顔。

「それに」とまつげを伏せる。「あたしは人を信じることも出来なかった」

 恐怖心が薄れて初めて、ハルカという友だちを得た。

 いま人に戻りたいか、それは一番難しい質問だ。罪悪感と共に恐怖心までもが戻ってきて、この身を切り刻む。大嫌いな一葉いちはの記憶が、針になって降り注ぐ。

「逆戻りなんて嫌だ、夜響はまた殺される」

 思わず頭を抱えた。夜響を殺せ、早く絞め殺せ、百万の声が毎日一葉をせき立てたんだ。顔のない黒い影が一葉いちはの頭をやさしく撫でながら、もう一方の手で小さな口をこじ開け毒をねじ込む。一葉いちはは悲鳴を上げて逃げ出した。それから誰にも口をひらかなくなった。

「夜響を守るため、生まれた世界から逃げ出すために」

 一葉いちはには、顔のない百万の影と闘う覇気などなかったから。そして体を鬼に明け渡し、自分は心の湖に飛び込んだ。

 夜響はふと顔を上げた。下で鳴っていた音楽が止まっている。最後にもう一度、なつかしい家をのぞきたい。

 すとんとベランダに降り立つ。電気も付けっぱなしで、双葉ふたばは階下に水でも飲みに行ったのだろう。半分あいたカーテンの隙間から、明るい部屋をのぞく。今すぐにでも戻れるように、窓際の机はそのままだった。夜響はふと笑んで、立ち去ろうとした。だが薄く笑みを浮かべたまま、彼女は凍り付いた。思わず後ずさる。半分閉じたカーテンに、恐ろしい鬼の姿が映っていた。歯を見せて笑うさまには身も凍る。

 あたしこんなに変わってしまったんだ、どうしてここまで姿を変えてしまったんだ!

 冷たい恐怖に抱きすくめられ、心臓が不吉に高く響く。

 一生このままなんだ、もう誰にも一葉いちはだと名乗れないんだ。

 口の中に苦いものがあふれ出す。両足が地に貼り付いて離れない。戻れない、戻れない、同じ言葉がぐるぐると、浅い呼吸と共にまわっている。頭を締め付ける。

 誰にも、会えない――

 目も喉もからからで、涙なんか一滴も出ないのに、体じゅうが痛かった。

 みんなあたしのことなんか、忘れてくんだ、一葉いちはには誰も気付かない!

 気付いて欲しかったのは、愛されたかったのは、一葉いちはなのに。

(違う)

 窓硝子に張り付いていた視線が、ようやく離れた。

(双葉は、気付いたんだ)

 冷たい石になった心が氷解した。あたたかく透き通る温水が、どっと湧き出す。

(双葉は憎くなんかない、大切な妹だ)

 赤い瞳から涙があふれ出す。嫉妬し憎んだのは、双葉も同じだった。なんでもそつなくこなしてきたあたしをうらやんで。一歩離れれば互いを理想の姉妹と思えたのに、いがみあってきたんだ。夜響は目を伏せ唇をかむ。取り返しのつかないことをして初めて、双葉がどれほど自分を思っていたか、家族がどんなに大切だったかを知った。皆の心を、涙も出ないほどに締めつけたのだ。吹けば消えると思っていた自分の存在が、どれほど重いものだったか気が付いた。

 もう会えないと意を固めた今、双葉も両親も学校の友だちも、夜響になってから出会った遥も所長もゆりも、みんないとおしい。子供たちが遊ぶのを見て微笑むときでさえ、夜響は悪魔のようなのに、そんなこと気付かぬ振りして、抱き寄せ見ないようにしてくれたんだ。

「こんなあたしを愛してくれてありがとう」

 そう、一葉いちはも。

 一葉いちはの記憶をどうして消そうなんて思ったんだ、なぜ憎んだんだ。消えないで、消えるな一葉いちは――

 窓硝子に映る鬼の姿、だけど瞳を閉じれば一葉いちはが浮かび上がる。そっと硝子に接吻する。ひんやりと冷たいけれど、一葉いちはに届くように。己を嫌い、憎み、苦しんだ末に、夢想の迷宮に迷い込んだ一葉いちはが、今は本当にいとおしい。

 物音が、した。目の前で。

「いっちゃん」

 夜響は瞠目する。硝子ガラス一枚を隔てて双葉が立っている。夜響は身をひるがえした。ベランダの柵に足をかける。

「待ってよ、いっちゃん!」

 名を呼ばれるたびに、体がぐらりとかしぐ。網戸がからりとあいた。

一葉いちは!」

 双葉が叫んで、夜響の腕を掴んだ。

 ふわりと体が浮いた。一瞬、重力からさえも自由になって、少女は鬼でも人でもなく、ただ夜の中に浮かんでいた。きらきらと輝く粉に包まれ、その姿は銀色に透ける。だがやがて、風船がしぼむように力が抜け、意識が遠のいてゆく。

「いっちゃん」

 双葉が差し出した腕へ、夜響は――いや、一葉いちはに戻った彼女は、どさりと落ちた。

「だいじょぶ?」

 涙ぐむ妹の顔に、ゆっくりと焦点が合う。うなずこうとしたが力が入らず、双葉に伝わったか分からない。手を借りて、部屋に這い上がった。黄色い畳に両手をつく。くず折れるように頬を寄せると、ずっと昔にかいだ匂いがする。ばさりと頬にかかった髪が、漆黒に戻っていた。角もない。魔法は一瞬にして解けてしまった。きらめいていたあの星も急に色褪せ、ちっぽけな一葉いちはだけが残された。だけど――

「お母さん!」双葉が叫んで階段を駆け下りてゆく。「いっちゃんが帰ってきた!」

 階下から漂う夕飯の香りに、ずっと探していたものが分かった気がする。

 二つの足音が重なり近付く。一葉いちはは重い体をなんとか起こして、百年前の骨董品のように古びた着物を掻き合わせた。双葉の机の上の鏡に、冴えない女の子が映っている。はなも色香もない、疲れた小さな目は、何も言わない。

 ――だけど今ならもう、思いっきり笑っても大丈夫なんだね。

一葉いちは

 その肩にあたたかい手が置かれ、一葉いちはは振り返った。安堵の笑顔と涙を浮かべて。

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