もうひとつの世界に行ける写真

木沢 真流

「小説でもどうぞ」佳作入選作品

 机の上にある一枚の写真を俺はじっと見つめた。

 本当にそんなことが可能なんだろうか。あの胡散臭い男は確かにこう言った。


「この写真の中に入れば、もう一つの世界に行けるんですぜ。飽きたら帰ってこれる、ほんとでっせ」


 ある日の仕事帰り、夕暮れ時の駅前で俺はフリーマーケットを見つけた。概ね片付けられており、めぼしいものは無かったが、その中のあまり目立たない一角に男はいた。服装は乱れており、無精髭も生やし放題。あまり関わりたくなかったが、声をかけられた以上、無視するわけにはいかなかった。男はさらに続けた。


「これはね、とあるチベットの奥深くに伝わる魔法のかかった写真でやんす。なかなか手に入らない代物でっせ。最後の一枚、一万円、いやもう五百円でいいや、どうです?」


 私は色褪せたその絵葉書のような写真を眺めた。


「帰って来られなかったらどうするんだ」

「必ず帰ってこれますって。ただたまにもう一つの世界と現実世界の見分けが付かなくなる方もいらっしゃいますが。その時は自分の影を見てください、もう一つの世界と現実世界の違い、それは影のある、なしと伝説では言われてるんでっせ」


 そのまま、ひっひっひと気味の悪い一人笑いを始めた。

 当初は全く興味がなかったし、男の作り話だろうと思っていた。だが、話のネタにはなるかもしれない、しつこく言い寄られても面倒だと思い、俺は結局購入することにした。


 俺は今、だいぶ前に押し入れの奥にしまっていたその写真を取り出した。

 念願の東証一部上場企業である山藤商事で、安定した暮らしを送っていた俺は、スリルに飢えていた。ある日ふと思い出したのだ、この写真のことを。もう一つの世界で普段はできないことをしてストレス発散できたら日常にもハリが出るんじゃないかと。半信半疑で取り出したあの写真を見て、俺は驚いた。


「動いてる」


 どういう仕組みなのだろう、写真の中の風景が動いているのだ。試しに裏返してみたが、普通の一枚の写真だった。どう考えてもその原理はわからなかった。


「面白い。やってやる」


 俺は写真の中に手を入れた。すると、まるで水槽に手を入れるように、ずぼっと、その手全体が写真の中に入った。そのまま気づけば、窓から落ちるように体全体がその写真に吸い込まれていった。気づけば俺はとある部屋の一室に放り出されていた。「痛っ」と腰をさすりながらあたりを見ると、特に変わり映えのないアパートの一室だった。

「ここがもう一つの世界?」

 原理はわからなくとも、せっかくだから俺はやりたい放題やってみることにした。

 まず最初にホームセンターに向かった。俺は適当な包丁を胸元に入れると、そのままレジを通らずに外に出た。これが万引きか、やってはいけないことをやるってこんなに気持ちいいのか。晴れやかな気持ちで街中を闊歩すると、誰かが俺の肩に当たった。

「おい、どこ見てんだ」

サングラスをかけた大男が睨みつけて来た。俺は男に近づいて、普段はできないことを実行した。ズブッという感触が手に走った。男の腹をメッタ刺しにしたのだ。

「う……」

 男は驚きと痛みで、その場にうずくまった。俺は包丁を抜くと、そのまま立ち去った。きゃあという悲鳴が聞こえた。通常であればパトカーが駆けつけるだろう。

 案の定、しばらくするとパトカーのサイレンが聞こえてきた。もうちょっと引きつけよう、その後はあの写真でドロンと逃げてやる。

 パトカーが俺の横についた。

「止まれ!」

 俺はその声を後ろに聞きながら、写真を取り出した。もう終わりかな、俺はその写真に手を突っ込もうとした。

「あれ?」

 写真は普通の写真になっていた。当然手が入るわけもない。あたりは数人の警察官が取り囲み始めた。まずいと思った俺は走った。路地裏を抜け、目立たない道をひたすら走った。

(あいつ、嘘つきやがって。必ず帰って来られるって言ってたのに)

 角を曲がった時、何かにどん、とぶつかった。見上げると薄暗い路地裏に、見たことのある顔が浮かび上がった。

「お久しぶりでやんす、旦那」

 俺は怒りで頭に血が上った。

「お前! 騙したな」

「人聞きが悪いですね、あっしは本当のことを話したまでですが」

「帰れないじゃないか! 元の世界に帰れるようにしろ」


 男はニヤリとした鈍い光を瞳に宿し始めた。


「では見せてあげましょう、真実を」


 そういうとライトを俺に照らした。見ると俺の背後にはしっかりと影がついていた。


「旦那も分かんなくなっちゃったんですね。旦那がさっき通ったその写真、往路ではなく復路でやんす」


 はっとした。思い出した、俺は元々山藤商事なんて大企業に勤めていない、ただの派遣社員だった。さっきまでいた世界こそがもう一つの世界だった。唖然とする俺の顔を見て、男は丁寧にお辞儀をした。


「おかえりなさい。愛すべきあなたの現実世界へ」


 俺の手から、血のついた包丁がぼとりとこぼれおちた。


※いつも応援ありがとうございます。

1週間程度でこの作品は非公開とし、「5分で読める短編集」に収納します。

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