ひとひらの恋
羅田 灯油
葉っぱが、一人の青年に恋をしてしまった。
――葉っぱが、一人の青年に恋をしてしまった。
なんの変哲もない観葉植物で、光合成をする多くのうちの一枚に過ぎないというのに、なにを思ったか自我を持ち、観葉植物を購入し水やりをしてくれる人間の青年に恋をしてしまった。
似たような店舗が腐るほどある量販店チェーンで、これまた似たような商品が腐るほどある観葉植物の中で。
新生活を機に引っ越してきた部屋に、目の保養として緑が欲しかったのだろう。ふと足を止めた青年の表情がどこか物憂いもので、葉っぱは「物珍しい人間もいるものだなぁ」と思いながら観察していた。
青年は観葉植物を両手で包みこむように持ち上げ、まじまじと葉っぱの裏側を見つめてきた。彼の茶味がかった瞳に自分を姿が写り込んだ様を捉えた瞬間、葉っぱは葉脈に炭酸水でも流し込まれたが如き衝撃でもって確信してしまった。
「……ああ、私はこの人間を好きになってしまったのだ」と。
まさしく電撃的な一目惚れだった。
それから無事レジを通り抜けられた彼女(のある観葉植物)は、すぐに青年の暮らすマンションの一室へと運ばれた。
南向きの窓に近いチェストの上、青年の無邪気な笑顔が収められた写真立ての隣に置かれ、葉っぱと青年の生活がスタートした。それは新生活が始まったばかりの、桜が咲き誇る春の出来事だった。
葉っぱは、青年の名前が「ハナシバ」というらしいことを知った。
共に部屋で暮らしていながら、名前も知らずに幾月を経た梅雨入りの時期、宅配便の不在通知を見て配達員に電話をかけたところ、運よく耳にしたのだ。
単に名前を知ることができただけだというのに、葉っぱは人間の乙女の如き天にも昇るような上機嫌となった。有頂天とは、この一枚の葉っぱのためにあった言葉かもしれない。
「ハナシバ、ハナシバ」と。
何度も何度も、飽きることも忘れて青年の名前を繰り返し呟いた。
葉っぱに名前に込められた親の願いなど分かるはずもなく、そもそもハナシバとは名前ではなく名字であることも、ハナシバとはシキミ、つまり樒のことであり、仏事に用いられる有毒の植物のことだということも分からなかった。
けれども、呟くたびになんだか魔法の呪文のように身体の奥底から元気がふつふつと湧き上がってきて、不思議と心が凪いだように安らいだ。意味が仏事に用いられる有毒の植物だろうと、青年の名前であることが最も重要であり、葉っぱにとってしてみれば関係のない話であった。
そして――とある夏に入ったばかりのからっと晴れた日、イモムシが観葉植物の茎をよじ登ってきたこともあった。
どこからやってきたのだろうか、などと悠長に考えている暇などなく、イモムシは葉っぱのところまでうねうねと流動するように這ってきた。イモムシと葉っぱの関係を今更説明する必要はない。絶対的な格差が開いた、捕食者と被食者だった。
いつもは青年のことばかりが思考を支配している葉っぱといえど、これにはがたがたと震え上がった(無論、実際の葉っぱではなく心情的な意味でしかないが)。声帯など備わっていないというのに、張り裂けんばかりの悲鳴を上げそうになるほど、恐れおののいた。これから自分は足先にあたる尖りの部分から、ばりばりとむしゃむしゃと咀嚼されていくのだと考えてしまうと、まるで拷問のようだった。
表情筋の存在しないイモムシの顔は葉っぱと同じ緑色で能面のようだが、彼女の視点からは、にたりと嘲笑してノコギリ歯を見せつける肉食獣にしか見えなかった。
そろりと、イモムシは一番口にできる面積の広い葉っぱの側面に、縦に開いた口を沿わせる。
もう駄目だ……葉っぱが行きつく先を悟って、きゅっと身を縮こまらせた時、木の棒のようなものが二本、イモムシを軽々と摘まみ上げた。
じたばたと身体を蠕動させてもがくイモムシを尻目に見上げてみれば、青年が割り箸でイモムシを窓の外へと追い出しているところだった。
「よかった、一枚も食われてないな」
ふっと綻ばせた目元が、窓から降り注ぐ陽光よりも眩しい。
葉っぱには、人間のように美醜へのこだわりや判別もつかない。しかし笑顔とは太陽の暖かな光と同様の効果をもたらすことを、本能的に理解していた。
「一体全体、どこから入ってきたんだか……。今度からは気をつけないと」
困ったように染めていない黒髪を掻き混ぜる姿は、葉っぱにとってはどんな有名俳優よりもハンサムだった。
「惚れ直した」というのは、少々誤解を招く表現だろう。
なにしろ葉っぱの恋心が揺らいだことなど一度たりともない、一途に惚れたままだったのだから、しいて言えば「惚れ増した」とでも表現すべきであった。
葉っぱは――更に、より強く、青年を愛するようになっていった。
青年は修行中の僧侶かと見まごうほど、清貧とした生活ぶりであった。
服装も必要以上に着飾らず、アクセサリーのたぐいを身に着けている姿ですら、まるで見たことがない。青年の本棚を埋めるのは派手派手しい表紙の若者向けファッション雑誌ではなく、純文学に代表されるような、みっしりと文字が詰まりに詰まった小難しい文芸本ばかりだった。そんな極限なまでに装飾を削ぎ落したシンプルさは、ごちゃついていない居住空間や観葉植物の水やりを欠かさないまめまめしさにも表れているようだった。
「雨ニモマケズ、風ニモマケズ……」と病に倒れ療養生活中に書き記した宮沢賢治が羨むような生活だ。丈夫な体を持ち、欲はなく、決しておごらず、いつも静かに笑っている。青年の印象に、ぴたりとパズルのピースのように当て嵌まる詩だ。
更に表現するならば、どこか病院で感じるひんやりとした薬品から醸し出される、エタノールやメンソールの匂いのような清さ。ある種、日常生活内にない、浮世離れした印象を人に――否、葉っぱに抱かせるのだ。
葉っぱと初めて出会った時、ふと見せた物憂い表情。
憤怒しているのでも、悲哀しているのでもない。同年代の人々は絶対に浮かべない種類の表情は、思考を芯から揺るがすほどに魔的な魅力があった。
葉っぱとて人間が抱くのと同じかそれ以上の恋心を焦がれるほどに抱いていたが、人間である青年には微塵も伝わらない事実だけは、幾月を経ようと揺るがなかった。
彼女自身も重々分かっていたつもりであったが、異種族の壁はあまりにも分厚い。越えようと努力したところで、葉っぱには手も足も出せない。手も足もない。ないものを出すことは不可能だ。奇跡のような神風が吹いて壁を超す手助けをしてくれない限り、葉っぱの勝利はあり得なかった。
「愛している」と気持ちを言葉に表すことさえできず、抱き締めたり手を握ったりすることも叶わない。
それをなんとか他の行為――他の葉っぱ達よりも身体に葉緑素をたんまり蓄えたり、存在を少しでもアピールしようと全体を大きく広げたりしても、青年は欠片も気づくことなく、それらは全て残らず葉っぱの自己満足に終わった。
それでも諦めなかった。行いが不毛であったとしても、尚。自身を熱く燃え上がらせる恋心が伝わらずとも、青年の心の癒しであるべく、青々と艶めいた身体で木目を晒した高い天井を仰ぎ続けた。
こんな生産性のない行為はやめにしようと、何度屈しそうになったことかは数えきれない。
「何故、人間の青年なんかに恋をしてしまったのか」と、朝露が涙の代わりとなって頬を濡らしていった時もあった。苦しくて苦しくて、水も与えられないまま真夏の日差しに晒されているような心持ちでもあった。それでも自分の心に嘘を吐くことはできず、諦めきれなかった。
室内暮らしゆえに積もってしまった埃を丁寧な手つきで拭ってくれたり、液体肥料を土に挿してくれたり、毎日微笑みながら水をくれる。諦めるには、観葉植物を枯らさないためにしてくれた行動一つ一つが、あまりにも嬉しすぎた。
たとえ彼が自分のことを視界の端にも捉えていなかろうと、笑顔でいてくれる――自身の身体に巡る清らかな水と、血潮じみて滾る愛情だけが本物だった。
とてつもなく甘い花の蜜のような恋慕が、ぽたりぽたりと滴り落ちて、心の奥底へと静かに堆積していくのと同様に、季節は巡っていった。
春が明け、夏が茂り、秋が暮れ……多くの生物が眠りに就く、冬がやってきた。
一年通して気温の安定した室内で過ごす観葉植物には、季節感もなにもありはしない。
しかし、その身体の一部分である葉っぱには役目を終える時が――つまり闇のようなとこしえの死が、ひたひたと足音立てて確実に近づいていたのだった。
葉っぱ自身も、その事実はとっくの昔に悟っていた。
それでも、前より色味を失った枯れかけの全身を精一杯広げ、諦め悪く必死に茎へとしがみついて、死にかけた身体を馬車馬の如く鞭打って、葉っぱは青年への思いの丈を表し続けた。姿形はとても惨めで、憐れみを誘うのを通り越して醜いと蔑まれようとも、最後の最後まで青年への愛を貫き通そうとしたのだ。
……それは、ある雪の日。
しんしんと静かに降り積もる雪が、窓の外の景色を白銀に染め上げていく、そんな比喩表現がよく似合う日だった。
「あっ」
青年が、日々の習慣と化した水やりを行っていた時。
一枚の葉っぱが、力尽きたように茎から剥がれ落ちてきた。なにぶん突然のことだったので、小さく声を上げてジョウロを持っていない方の手で受け止めた。
何故、剥がれ落ちただけの葉っぱに手を伸ばしてしまったのか、それは青年本人といえど分からなかった。ただ、フルマラソンを見事走り切った友人の肩にタオルをかけてやるような、労いの籠もった行動に近いものであることは確かだった。
青年は、じっと手の平に乗った葉っぱを見つめる。葉っぱはなんの変哲もない、観葉植物で今しがた光合成する役目をし終えた一枚にしか過ぎなかった。
けれども。
それなのに。
――「愛しています」と、誰かが優しく囁いたような気がした。
はっと顔を上げて辺りを見回してみるも、一人暮らしの一室には青年以外には誰もおらず、尚かつ点けっぱなしあったテレビは感動的なドラマのラブシーンではなく、番組繋ぎのため仕方なくチャンネルを回したバラエティ番組の、うすら寒いギャグしか言わないコメディアンを空虚に映し出していた。
もう一度、青年は手の平に乗った葉っぱを見やってみる。
当たり前だが、葉っぱは死んだように動かない。
両耳を包み込むように囁かれた女性の柔らかい声も、それっきりで二度と聞こえなかった。
「なんだ、気のせいか……」
青年は、なんの感慨もなくゴミ箱へと葉っぱを投げ捨てる。
「空耳が聞こえただなんて、ちょっと疲れてるのかな?」
自分を愛してくれた人の(否、葉っぱであるが)死が身近で起こったことなど露ほども知らず、青年は呑気に首なんて傾げて残酷なことをしたと認識せずにいる。
十分奇跡に等しい神風は吹いたが、それもほんの一瞬の出来事。
葉っぱは最後まで異種族の壁を超えることはできなかった。
死んだ葉っぱには、棺桶すらも用意されない。だが葉っぱが表情を浮かべられていたのなら、十中八九、満面の笑みであっただろうと言っても過言ではない。
何故なら葉っぱは――世界で一番愛する人の手の平の上で、満ち足りた死を迎えることができたのだから。
完
ひとひらの恋 羅田 灯油 @rata_touille
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