舞文曲筆
壱
「……って、言われましても」
自分の口から転がり落ちた特大の溜め息が、誰もいない書記部の部屋の中を跳ね回っていくような心地がした。
「ただの趣味狂いのおっさんにどうしろって言うのさ……!?」
誰もいないのをいいことに身も蓋もないことを叫んだ
書記官の装束は黒と定められているが、筆頭書記官の装束のみは純白だ。それは『この装束に墨跳ねを作らないほど筆が達者な者だけが筆頭の座を拝命できる』という矜持の表れらしいが、今だけはそんな矜持もどうでもいい。
「私はただ書に邁進できればそれでいいのにっ!! 筆頭になって書記部を率いろだの、部下を育てろだの、果ては公文書偽装の関係者を割り出して糾弾しろだの……っ!!」
『もう無理ぃ! 私、管理職向いてないぃぃぃっ!!』と情けない声を上げてみたところで、聞いてくれる者など誰もいない。そして万が一聞いてくれる人間が現れたとしても、黙殺された上で見なかったフリをされるに違いないと確信ができた。
何せ今の自分は、いわゆる『世間一般が
そう、有名書家。
世間一般に知られている『白旺供』という人物は、『手跡は国の宝』と評される、
「いやね? その評価は嬉しいよ? その評価によって恵まれた環境を与えられたこともありがたいよ? でも私、別に権力は欲しくもなかったんだよねぇ……!」
白旺供。当年
諸事情あって実年齢よりも少々若々しい外見をしているが、他は特にこれといって特徴のない、多少『書』に優れたただのおっさんである。
生まれは玻麗の片田舎。地方官の家の生まれで、物心ついた頃には筆を握っていた。
両親は恐らく旺供を有能な官吏に育てたかったのだろう。だが残念なことに、旺供は書く内容よりも、書くことそのものに没頭していった。
それでもその書が『能書』と呼ばれる物に成長し、書家としての才で都に出てこられたことは
市井の中でも才を伸ばし、一端の書家として名を馳せた旺供は、三十路が見えてきた頃に王宮に召し上げられ、書記部の末席に名を連ねることになった。
ますます書くことに没頭した旺供は、多少の紆余曲折を経ながらもさらに己の書を昇華させ、気付いた時には周囲から『楷の
とはいえ、旺供本人としては、いまだに己は未熟で、まだまだ磨く場所ばかりであると思っている。まだまだ己の腕は成長期だ。
とまあ、そんなことは今はどうでも良くて、だ。
『書くこと』と『己の腕を磨くこと』にしか興味がない旺供は、良くも悪くも権力というものに興味がなかった。
そのことに悪い意味で目をつけられ、筆頭に抜擢されてしまったのが八年前。以降誰もが欲してやまない『筆頭』という座に旺供は据えられ続けている。
「『筆頭書記官』の称号がそのまま『書記部で一番の能筆家』って意味なら、そりゃあ多少興味はあったけどさぁ……! そういう意味じゃないんだもの。面倒な管理職業務に頭を悩ませるくらいならば、ぺーぺーのパーパーのまま書に没頭していたいのに……っ!!」
書記部の主な仕事は、皇帝陛下に奏上される言葉を書き留め、後世に残すことだ。その他皇帝周りの書類作成、書類整理なども業務に含まれる。
いわば皇帝の代わりに筆を
ただ、書記官そのものに権力はないが、書記官の職場は業務内容上、必然的に皇帝に近しい場になる。筆頭とも言われる立場になれば、主な職場は皇帝の隣……権力に無縁な官でありながら、皇帝陛下と同じ場所から文武百官を見下ろすことになる。
そんな場所に置かれれば、誰もが野心を抱かずにはいられない。何とかして皇帝に擦り寄りたい周囲の人間も見逃してはくれない。……というのが常の流れなんだとかなんとか。
そういう意味で、旺供は歴代でも『異常』と称して良い筆頭であると言える。平穏を求めた皇帝が、宮廷中枢で筆を執りながらも、権力に一切興味を示さなかった旺供を筆頭に抜擢したのは慧眼と称する他にない。
旺供としては迷惑極まりないことだが、そこは事実なので認めざるを得ないだろう。
「私が王宮からの招きを喜んで受けたのは、書記官になれば王宮に所蔵されてる貴重な書が閲覧仕放題だったからであって、権力が欲しかったからじゃない……!」
旺供ももう宮廷に仕えて十七年になる。さすがに自分の方が異常なのであって、大半の人間が野心と金と権力を得るために闘志を燃やして王宮にやってくるのだということは理解できている。そんな人間達が起こしてきた厄介事を解決したことも、もう何度だってある。
しかし、しかしだ。
「公式謁見問答録の
臣下が皇帝の御前で奏上した言葉と、それに皇帝が返した言葉。そのやり取りを書記官が書き留め、記録として残した物が『公式謁見問答録』と呼ばれる物だ。皇帝の直言を書き留めた書は、臣下が
いわば皇帝と臣下の間での『言った・言わない問題』を防ぐための物だ。政策主導者は公式謁見問答録に書き留められた言葉を根拠に『陛下の御同意は得られている』と強気の政策に出ることもできる。
公式謁見問答録という物は、それだけの強権を持つ書物だ。
それ
書記官はただの筆として、臣下と皇帝のやり取りを忠実に書き記すのみ。
書記官がその役割を忠実に果たしているという信頼があるからこそ、公式謁見問答録の信頼性、そこから生まれる強権は保障されているのだ。
その根底が崩れたとなれば、最悪この国の
その事実に、旺供の背筋にはゾッと寒気が走った。随分前に完治したはずである胃の
「と、とにかく、まずは
その寒気を払い落とすべく、旺供は顔を上げて声を発した。だがその作業の果てしなさに思い至った旺供は、再びヘンニャリと卓に突っ伏す。
「いやいや……どれだけ膨大な作業なの、それ……」
皇帝と臣下のやり取りを一言一句漏らすことなく書き留めた物が公式謁見問答録だ。その数は直近に絞っても膨大なものになる。
その全てに当たり、胡吊祇宰相の言葉を元に改竄された部分を洗い出す。その改竄部分が誰の手跡であるかを割り出し、犯人に目星をつける。改竄された内容から、犯人の目的を割り出すことも、もしかしたら旺供に課された役目の中に入るのだろうか。
それだけのことを、旺供は一人で、さらに書記部の人間に知られることなくこなさなくてはならない。何せこの一件に関して、書記部の人間は全員が被疑者なのだ。被疑者に協力を頼むなど愚の骨頂である。
その間、旺供の通常業務がなくなることはない。むしろ周囲に不審を抱かせないためにも、旺供は常以上に通常業務に邁進するべきだろう。
──いやいやいやいや、どう考えても無理だって……!
何せ期限は『皇帝が譲位を宣言するよりも早く』と切られてしまっている。『次代には、割れていない筆だけを譲りたい』という言葉は、それを示したものだ。
「……………無理ぃ……!」
頭を抱えたままウンウンと
「かくなる上は」
「かくなる上は、どうしたの?」
『いっそ全員道連れにして書記部一同総辞職、とかじゃダメかな?』と、現実逃避も
聞こえるはずがない第三者の声が、文字通り目と鼻の先から響く。
それが誰の声であるかを判断するよりも早く、反射的に驚きで体が跳ねた。
「っっっっ!?」
「うわぁ、大丈夫? 先生。相変わらず先生はそそっかしくて騒々しいねぇ」
鼻っ柱を硬い卓に真っ向からぶつけてしまったせいで、顔面から後頭部に向かって矢が突き抜けるような痛みが走る。
だが今はそんなことに構っている場合ではない。
「っ!!」
旺供は全気力を総動員させるとガバリと体を跳ね上げた。その瞬間、愛嬌を全面に広げた整った顔立ちが視界に飛び込む。
「やぁ、先生。久し振り」
声の主は、旺供の顔を覗き込むかのように卓に顎を載せていた。旺供と視線が合ったことを確認した声の主は、ニコリと笑みを深めるとヒラリと片手を上げる。
生まれと育ちの良さをこれでもかと感じさせる青年だった。整った顔立ちは気品に満ちていて、ただそこに彼がいるだけで周囲の空気がパッと明るくなるような心地がする。穏やかな声がその印象に拍車をかけていた。
見目の割に華奢な体を包みこんだ装束は、官服ではなく一目で高級品だと分かる装束だった。盛装ではなく普段着であるが、当人が纏う気品も相まって、王宮を行き交う高級官吏達と並んでも見劣りなどしないだろう。
首筋でひとつに括られた艶やかな黒髪が、首の小さな動きに合わせてサラリと揺れる。ヒラヒラと揺れる手の動きに合わせて、たっぷりとした袖元の布地も似たような音を立てながら揺れていた。
旺供が知っている顔だ。彼が言う通り、久し振りに見る顔でもあった。
そしてこの場所、この時間帯に決して見るはずのない顔でもある。
「りゅっ、
「お。良かった。名前、忘れられてなくて」
「さすがに忘れませんよっ!」
「いや、先生の場合、うっかり忘れててもおかしくないじゃない?」
『何せ権力にも、権力者にも興味ないんだから』と笑った龍瑛は、優雅に膝を上げると『うーん』と伸びをする。その自由気ままな仕草は、どこか子猫を連想させた。
「そっ、それで龍瑛様?」
いまだにドッドッドッと暴れている心の臓をなだめながら、旺供はさっさと話を本筋に引き戻すことにした。
何せこの御方に主導権を握られてしまえば旺供に勝ち目はない。かつて龍瑛の手習いの師をしていた旺供はそのことを今でも嫌になるくらいに覚えている。
「こんな夜も遅い時間に、こんな場所に何の御用ですか?」
「こんな夜も遅い時間に、こんな場所にいる時点で分からない?」
『あなた、本来この時間帯に、自分の宮の外に出ることなんて許されていないはずでしょう?』という言外の問いに対して綺麗に気付かない振りを決め込んだ龍瑛は、ニコリと穏やかに笑みを深めた。
その笑みに、旺供の嫌な予感はさらに強くなる。
「何か先生、大変なお役目を言い渡されちゃったみたいじゃない?」
「守秘義務があるので黙秘させていただきます」
「私、結構な暇人なんだ。お手伝いさせてよ」
「守秘義務があるのでお断りさせていただきます……!」
「えぇ? でも先生、調査するアテってある? 人手も足りてないでしょう?」
ごもっともな言葉に、旺供は思わずウグッと声を詰まらせた。そんな旺供の表情に目敏く気付いた龍瑛はわざとらしく両の眉尻を下げる。
「そこで上手に誤魔化せない辺りに先生の人の良さが出てるよねぇ。そんなんで宮廷を渡っていけてる? 私、ものすごく心配なんだけども」
「っっっ……! どこの世界にっ!」
旺供は思わず椅子を蹴って立ち上がった。そのままビシリと龍瑛に指を突き付ければ、龍瑛は『お?』と面白がるような表情を見せる。
そんな余裕を見せる『弟子』に向かって、旺供はあらん限りの声を張り上げた。
「どこの世界に自分の仕事を東宮太子に手伝わせる書記官がいるって言うんですかっ!?」
そう、東宮太子。
目の前にいる龍瑛こそが、当代皇帝陛下が『割れていない筆だけを譲りたい』と口にした次代皇帝陛下である。
ちなみに旺供は数年前まで龍瑛の御書指南役として龍瑛に書を指導していた。
後宮の妃や宮廷高官に請われて書の指南をしたこともある旺供だが、龍瑛は当人が『先生、先生』と旺供を慕ってくれたこともあり、特別思い入れがある相手でもある。
とはいえ、相手は東宮太子だ。
いくら旺供がチャランポランで権力に興味がないとはいえ、臣下の何たるかくらいは理解している。東宮太子に己の仕事を手伝わせるわけにはいかない。
というよりも、当代陛下はその辺りのゴタゴタを龍瑛に見せたくなかったから、己の最後の仕事として黒幕の一掃を旺供に命じたはずである。当代陛下に恩がある身としては、その思いを
「そこは『弟子』って言ってほしいんだけどなぁ」
そんな旺供の内心をどこまで理解しているのか、龍瑛は少し
「ねぇ、先生。私だって興味本位でこんなこと言ってるんじゃないよ?」
『何を言ってくるのか』と警戒を続ける旺供の視線の先で、龍瑛の腕がフワリと動いた。優雅としか言いようがない動きで動いた指先が、龍瑛に突き付けられていた旺供の指をそっと掴む。
「私は、この一件を知っておくべきだ」
「そっ……!」
「次代の国主として。宮廷の黒い動きは把握しておかないと」
そうでなければ、自分が玉座に座った時に己の身を守れない。
意図せず触れ合った指先に思わず旺供が肩をビクつかせた瞬間、スルリと龍瑛は顔に浮かべた笑みの種類を変えた。
「東宮太子という身軽な立場にいる今こそ、社会見学の絶好の機会。そう思わない? 先生」
「東宮太子は『身軽な立場』じゃありません!」
「皇帝陛下に比べれば身軽でしょう?」
旺供の指を取った龍瑛は、そのままスルリと手を滑らせ、旺供の手を握りしめる。さらにそこに反対の手も添えた龍瑛は、間に挟まれた卓の上に身を乗り出すように間合いを詰め、取った手を己の頬に添わせた。そのままコテリと首を傾げ、旺供を上目遣いに見上げる。
「ね? お願い、先生」
「ぐっ……!」
龍瑛の『お願い』に、旺供は弱い。
これは龍瑛が『筋のいい弟子だったから』というよりも、『出会った当初の龍瑛がまだ頑是ない子供であったから』という理由の方が強い。
旺供と龍瑛が初めて顔を合わせたのは、龍瑛が十歳の時……旺供が筆頭書記官に抜擢されるよりも前のことだった。
龍瑛が尊い身の上であるということは旺供も十全に理解していた。だが幼い子供が無邪気に自分に懐けば可愛いものである。独身子なしの旺供は、龍瑛を実の
旺供にそう思わせた龍瑛からの感情が、純粋な親愛と好意であると同時に一種の刷り込みであったと気付いたのは、龍瑛が『少年』から『青年』へと成長を遂げた辺りでのことだった。自分の龍瑛への判断が部分的に甘いと自覚した頃のことでもある。
しかし自覚したからといって、長年刷り込まれた感覚が消えるわけではない。
龍瑛が立派な成人男性に成長した今でも、旺供は龍瑛に子供らしく、可愛らしく頼み込まれると、庇護者として龍瑛の願いを叶えなくてはという思いが芽生えてしまう。
旺供にとっては、どれだけ成長しようとも龍瑛は『可愛い子供』なのだ。他でもなく当の龍瑛が旺供にそう刷り込んでいった。
──これは龍瑛様の策略これは龍瑛様の策略これは龍瑛様の策略……!
「ねぇ、先生。この間、民施賀孟直筆の狂草体の書画を手に入れたんだ」
旺供はグラつく己を立て直そうと必死に自分に言い聞かせる。
だが旺供の手を取ったままの龍瑛が唐突に口にした言葉に全てが吹っ飛んだ。
「何って言ったかな? 確か『狂草……」
「まさか民施賀孟先生直筆の『
「そう、それ」
龍瑛が何気なく口にした言葉に『書馬鹿』の
それが龍瑛の罠であると、絶対に気付けたはずなのに。
「どうやって手に入れたんですかっ!? 噂だけ巡ってて直筆の行方は分からないって話になっていたはずなのに……っ!!」
旺供は己が書くことにも狂っているが、秀逸な書を眺め、分析し、研究することにも狂っている。他人の手跡を鑑賞することも好きだし、物語を読むことも好きだ。『書』全般に狂っていると言ってもいい。
ついたあだ名が『書記部の書馬鹿』。
書くことに狂った人間しかいない書記部の中でも、とびっきり書狂。
それが白旺供という人物である。
「ちょっと
そんな旺供の性格と興味関心を熟知している龍瑛は、優美な微笑みを崩さないまま旺供の興味を引く言葉を
幻と化した名跡の名を前に、全てを意識のかなたへ吹っ飛ばした旺供は、鼻息も荒く龍瑛に答えた。
「見たい! 見たいですっ!!」
「じゃあ、公式謁見問答録と交換でどう?」
「どうぞどう、ぞ……?」
「はい。今『どうぞ』って言ったね? せんせ?」
勢いだけで会話をしていた旺供は、大変な言葉を口走ってしまってからハタと我に返る。
だがすでに後の祭りだ。旺供から言質を引き出した龍瑛は、ニッコリと旺供に笑いかける。ちなみに龍瑛に取られたままの手はいまだにガッチリと捕獲されたままで離してもらえる気配がない。
「明日でいいよね? 私がまたここに来るから、立ち合いよろしくね、先生」
「へ……?」
『つまり、どういう意味で?』と固まる旺供の手を解放した龍瑛は、再びわざとらしく両眉尻を下げると気遣わしげな視線を旺供に向けた。
「やっぱり心配だな、先生。日頃他の人間につけ込まれて大変なことになっていたりしない? 大丈夫?」
『邪魔な人間や目障りな人間がいたら私に教えてね、消してあげるから』とのたまう龍瑛に、旺供は引き
──八年ほど筆頭書記官の座を守っていますけど、あなた様ほど鋭くつけ込んできた人間はいませんでしたよ……
そんな内心を言葉に出せないまま、旺供は痛み始めた頭を抱えたのだった。
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