時忘れの一筆-その手跡は真実を謳う-
安崎依代@1/31『絶華』発売決定!
序
常ならば文武百官が並ぶ謁見の間も、人がいなければただただ広いだけの空間だ。
その中にポツンと一人置かれた
──……知っていた、はずなんだけども。
皇帝の傍らに座し、皇帝の筆となることが使命である旺供は、文武百官が居並ぶ空間を、皇帝と同じ高さから眺める唯一の存在だ。だからこの空間のことは、誰よりもよく知っている。……否、よく知っている気に、なっていた。
──下から見上げると、陛下がいる場所って、あんなに高いんだ。
「旺供よ、……我が至高の一筆よ」
はるか高みには、玉座に座す皇帝が一人。
広間には、優雅に礼を取った旺供が一人。
いつも空間を埋め尽くしている臣下も、その間を飛び交う言葉を書き留める書記官もいない。
「願いがある」
だからこの空間は、過ぎ去ってしまえばなかったことになる。
その意味を、旺供は宮廷に在る誰よりもよく知っている。
「何なりと」
紙よりも白い衣と、深い森のような翡翠の佩玉。その上に墨のように黒い冠と髪を流した旺供は、消えていく予定の言葉とともにゆったりと頭を下げる。
「譲位を、考えておる」
そんな旺供の頭上に、消えていく予定の言葉達は静かに落ちた。
「次代には、割れていない筆だけを譲りたい」
「……と、仰いますと?」
「公式謁見問答録と実際のやり取りに相違があるという報告が上がっておる。それも複数の筆跡で、複数個所」
「っ!?」
変わらず言葉は静かに落とされたが、旺供はその声に思わず頭を跳ね上げた。驚愕を隠さずに玉座を見上げれば、老いてもなお鋭さを失わない瞳が旺供を射る。
「そのようなことが……っ!!」
「余の宰相が、
反射的に出た言葉は、静かだが圧のある声に抑えられた。
本来であるならば、旺供ごときがこの声に否を返すことなど許されない。紙を前に筆を構えている時ならばいざ知らず、何も手にしていない状況では頭を上げることさえ不敬。
「……っ、
そのことは重々承知していながらも、旺供は言い募ることをやめられなかった。
「我ら書記部は陛下の筆。言葉をあるがままに書き留めることこそ役目。その筆が己の思惑を以って言葉を曲げるなど……っ!!」
「あれの記憶は絶対。あれはそのようにしか生きられん。……お前も、そのことは知っておるはず」
「……っ」
反論の余地のない言葉に、旺供は喉から
皇帝の懐刀である宰相の人間離れした記憶力も、主従を越えた二人の関係も、皇帝の傍らで言葉を書き留め続けてきた旺供は承知している。この王宮で起きたことは全て胡吊祇宰相の記憶に保存され、胡吊祇宰相が口にする言葉は誰に向けた物であれ真実だ。そこに間違いなどありはしない。
それでも旺供の心は否を唱え続ける。
公式謁見問答録と実際のやり取りの相違。
実際のやり取りを胡吊祇宰相が聞いていて謁見問答緑との相違を指摘したというならば、それは。
皇帝の、王宮の筆である書記官の誰かが、意図的に公式謁見問答緑を書き換え、偽造したということに他ならないのだから。
「……お前の筆に偽りなどないことは、余も宰相も良く知っておる。お前が、己が率いる筆達を、そうあれと育ててきたことも」
そんな葛藤を抱える旺供に、ふと皇帝の言葉が落ちた。
「余と宰相は、お前が『割れていない筆』であることを確信しておる。だから、お前をここに呼んだのだ」
親しみと信頼が底にある、聴き分けることができる者にしか聴き分けられない柔らかさ。
そんな柔らかさを感じ取った旺供は、息を詰めると無防備に皇帝を見上げた。変わらず旺供を見つめる皇帝は、透明で静かな視線を旺供に向けたまま、もう一度旺供の名を呼ぶ。
「
静かな部屋に響く、静かな声。注がれる視線も静かで、自分の呼吸の音だけが空間に響いているような心地になる。
「余の、最期の願いである」
紡がれる前から消されることが決まっている言葉は、旺供の心にしか書き留められない。
その言葉に、旺供は……
「受けて、くれるな?」
ただ静かに、この主の元に仕えるようになってから身に付けた優雅さで、深く深く、頭を下げた。
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