お姉ちゃんの味

人生

 お姉ちゃんの味




 ぼくは生まれつき耳が悪かった。

 事故に遭ったのもそれが原因で、接近してくる暴走トラックに気付かなかったのだ。


 一命は取り留めた。

 だけど、うまく歩けなくなった。

 それからというもの、ぼくは部屋に閉じこもるようになった。


 そんなぼくを見捨てず、面倒を見てくれたのが、年の離れた姉だった。

 早くに両親を亡くし、姉弟ふたり。親戚の援助こそあったけれど、生活は楽ではない。姉は学校を辞め、自分の時間を削り、夜の仕事をして、ぼくを養ってくれた。


 何も出来ない、役に立たない。そんな自分が嫌いだった。




 そんなある日のこと。


『今日の夕飯は、なんとお肉です』


 と、嬉しそうに姉が報告する。会話は主にノートサイズのホワイトボード。姉の書く、可愛らしい丸っこい字が、ぼくは好きだった。


 それにしても、お肉。そんな、戦時中じゃあるまいし。いくら裕福でないといっても、うちの料理にだって肉くらい入っている。それにもかかわらず、わざわざ報告するということは、だ。


『高級なお肉です』


 ……そんなものを買うお金があったのか。


『やっぱり良い体をつくるには、良いものを食べないといけません』


 ぼくの健康のため――そのために、姉は身を粉にして働いている。


 そして――好きでもない男に近づいて――


 きっと、そのお肉も、ぼくの知らない男の金で買ったのだろう。


「…………」


 高級なお肉の味は、ぼくにはよく分からない。何が良くて高級なのか。こんな、一食で消えてなくなるようなものに、いったいどれほどの価値があるというのか。


 気持ちが悪い。


 こんなもののために――ぼくなんかのために。


 それでも、姉の好意を無下にはしたくない。ぼくは食べる。美味しい、と口にする。姉は嬉しそうだった。


 食後、食器を洗っている姉に気付かれないよう、僕は杖をついて一人、トイレに向かった。


「――――っ」


 食べたものを、吐き出した。




 ――ある日、姉が家に男を連れてきた。


 また、知らない男だ。

 そいつはぼくを見て、愛想のよい笑みを浮かべる。下心を隠した、汚らしい笑み。


 その日の夕飯も、豪勢だった。ぼくと、姉と、男の三人で食べた。


 それから、姉はぼくに薬を飲むよう言った。薬を飲めば、ぼくは眠くなる。姉はそれを知っている。

 ぼくが眠ったと思った姉は、男を連れて自分の部屋に入った。


「……いいのかい? 弟さんがすぐ隣の部屋で寝てるのに……」


「うん、大丈夫。薬飲んで、眠ってるから」


 閉め切られた扉を前に、ぼくは佇む。

 中の声は、聞こえない。ぼくには中で何が起きているのか、分からない。


「ふふ、きみも大概だよねぇ……」


「そちらこそ」


「いや……普段はこんなこと、しないんだよ? 酔ってるから、かなぁ。手錠とか、うん、そういうのも、たまには悪くないよね。……え? 目隠しもするのかい?」


「その方が、興奮するんじゃないですか?」


「僕はそんな、変態じゃないよ――でも、まあ――あっ、あ……っ!」



 痛い痛い痛い……! やめて痛い! アっアっアっ! やめろ放せ、何してっ、痛い痛い痛い……! 誰か助け、



 閉め切られた扉を前に、ぼくは佇む。

 中の声は、聞こえない。ぼくには中で何が起きているのか、分からない。


 男は、夜のうちに家を出て行ったようだった。

 その後、ぼくはその男を見ていない。




 ――最近、肉料理ばかりが目立つ。


 あの男の金で買われた肉。男の肉。いやらしい、汚らしい肉。それがぼくの体に含まれる――そのことが、たまらなく気持ち悪かった。


 胃袋がそれを受け付けない。いつも、食後にぼくはそれを吐き戻していた。


 まともにものを食べていないせいか、最近、なんだか目がかすむようになった。

 栄養失調だろう。それを悟られまいと、家にあったビタミン剤でごまかす。


『お肉、美味しくない?』


 ある日、姉がそんなことを書いた。


「え?」


 ぼくは、困る。本当は、嫌いだ。しかし、姉が苦労して手に入れた金だ。肉だ。姉の料理だ。それをいつも嘔吐しているだなんて、口が裂けても言えない。


「……たまには、野菜が食べたいな。高級なお肉とか、口に合わないみたい」


「そっかー、残念。いいおにくなら、健康にもいいんじゃないかって思ったんだけどなー」


 そうだ、質素なメニューでいい。もやしとかでいい。贅沢なんかしなくていい。ぼくには、姉さんがいれば――あんな男は、いらないんだ。




「……どうしたの? その格好――」


 ある日、姉が怪我をして帰ってきた。

 片目には眼帯、片腕には包帯を巻いている。


「ううん、なんでもないの」


 気にしないで、と唇の動きがそう告げる。


 ……あの男だ。あいつがやったんだ。ぼくはそう直観した。


 ぼくの制止もきかず、姉はキッチンに立つ。ぼくも、少しくらい料理が出来る。車いすを使えば、移動も苦にならない。しかし姉は、頑として譲らなかった。


 きっと、あの男に暴力を振るわれたんだ。その悲しみから目をそらすために、料理をして、普段通りを取り繕おうと……。


 ――殺してやる。ぼくがあいつを、殺してやる。


「ちゃんと食べないと、元気になれないよ」


 あの男の金で買われたものなんて、本当は食べたくなかった。でも、無理やりにでも口に入れる。飲み込む。そうやって、力をつける。


 そう思うと、不思議と食も進んだ。高価な食材ではなかった。だけど、食べなれたこちらの方が体に馴染む。そんな気がした。


「お姉ちゃんの味、忘れないでね」




                   ■




「――という感じのラブコメを書いてみたんです。どうですか? まだ、粗削りですけど」


 と、片目に眼帯をした彼女は言って、微笑んだ。


 なんでも、自分が目を怪我したことをきっかけに、思いついた話だという。


 昼食の手を止め、俺は愛想笑い。よくもまあ昼休みの教室で、衆人環視の中で、そんな話を語って聞かせるものだ。その大胆さに、恐れ入る。


 が、それよりも、だ。


「……ラブコメ?」


「ええ。姉は弟が大好きで、弟のために頑張ってるんですけど、弟は姉に彼氏がいるんじゃないかと思い、やきもちをやくんです。ほら、勘違いラブコメ」


 今の話をラブコメだと言い張る彼女の感性が、俺には恐ろしくて仕方なかった。


「……えっと、お肉は?」


「気付かないで食べてるんです。ね、面白いでしょう? やっぱり、血の繋がった家族が一番、みたいな。お袋の味、実家の味っていうじゃないですか。相手の胃袋を掴む、みたいな」


「……そ、ソウミタイダネー……」


「ところで、今日のお弁当はどうですか? 私、ちょっと凝ってみたんですけど」


「……あ、うん」


 正直、めちゃくちゃ食欲がないのだが――せっかくの、彼女の手作りだ。何か、食レポをしなければ。


「この……丸い……天ぷら? 唐揚げ? 的なものは……?」


 中身の分からない油色の塊を口に入れる。さっくりとした衣のしたには、何か、柔らかい食感があった。ジューシーかというと、ちょっと違う。


「片目だと、七万円くらいするそうですよ?」


 そう言って、彼女は眼帯に覆われた左目に触れた。どうやら、痒いらしい。


「……え?」


「冗談ですよ」


「……ほんとに?」


「なんなら、見てみます――?」


 うふふ、と彼女は笑った。


 俺は静かに箸を置いた。


 ……いったい、俺は何を食べてしまったんだろう?



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