爺ちゃんの赤い素うどん
鶴崎 和明(つるさき かずあき)
大晦日にきつねのつままれた話
汗だくの心地悪さに目を覚ますと、ライトグリーンのカーテンが濃紺に染まっており、一日の終わりを否応もなく気付かされた。
枕元のスマホを手に取ると、十八時という現実が重く圧し掛かり、合わせるように飛び出したくしゃみが後に静寂を生む。
轟々と息を吐き続ける暖房のみが今の俺を外界と繋げ、それに導かれるように上体が起き上がった。
新型感染症の二回目のワクチン接種から三十時間が過ぎ、やっと熱の下がった俺は部屋の真ん中に置かれた椅子に腰かけながらペットボトルのお茶に口をつけた。
まだ少し気怠さが残っているものの、空腹を覚えるだけ身体も持ち直したのだろう。
足元に転がった靴下を脇に蹴とばして流しに向かい、黒い電気ケトルにお湯を注ぐ。
それを部屋に持ち込んでセットしている間に、コンビニの袋に入りっぱなしとなっていたカップ麺を一つ手に取った。
コンビニ限定の赤いきつねうどん。
何か特別な味付けでもあるのだろうかと思って手に取ったところ、違いは油揚げが二枚入っているだけのようで嬉しいことには嬉しいのだが、そこまで惹かれるようなものでもなかった。
ただ、ワクチン接種の直前に立ち寄ったこともあり、熱を出した後にはちょうどいいかという一心と物珍しさだけでそのままかごに入れた。
他にもレトルトのおかゆやら、フリーズドライの雑炊やらを買ってはいたのだが、今は洗い物が少なくて済むのが何より頼もしい。
蓋を半分ほど剥がして粉末スープを開けると、ちょうどケトルが沸騰する。
濛々と立ちこめる湯気に包まれながら熱湯を注ぐと、辺りに出汁の香りが広がっていき、それだけでどこかほっとする。
ダブルクリップで蓋を挟むと、後は何をするでもなく五分ほど待つだけだ。
いつもならタイマーをセットした後はスマホを手にするところであるが、その時、ふと爺ちゃんの顔が浮かんだのはここ二年ほど顔を合わせていなかったからだろうか。
今年も年末は帰省できそうにないなと呟いたところで、爺ちゃんと一緒にカップ麺で迎えた大晦日の光景が思い出されてきた。
あれは確か俺が十歳の頃だから、もう十五年も前のはずだ。
親父と母さんが大晦日に急用で出かけたせいで、年明けを爺ちゃんと迎えることになった。
あの頃は爺ちゃんがまだ酒屋をやっていて、仕事納めの後の掃除を手伝わされたように思う。
それから無口な爺ちゃんと過ごすことになったのだが、当時は大晦日に、母が近所の蕎麦屋で買ってきた生そばを茹で夕食にするのが習わしであった。
しかし、その母さんが家にいない以上どうしようもなく、母さんが出る前に作っていったカレーで年を越すんだろうな、とぼんやり考えていた。
ただ、それは悲観的というよりもわくわくとしたもので、大好物で迎える年の暮れが楽しみであった。
しかし、そんな俺の楽しみをよそに、こたつに潜ってゲームをしていた俺の前に、赤と緑のカップ麺を持って爺ちゃんが台所から現れた。
昔気質で料理などできなかった爺ちゃんが何かをわざわざこしらえることはないだろうとたかを括っていた俺は、その光景に開いた口が塞がらなかった。
促されるままに箸を割り、緑のたぬきの蓋を剥がす。
いつもであれば少し胸の躍る瞬間も、この時ばかりは湿った糊の音のようであった。
決して、この一杯が嫌だったのではない。
とはいえ、既に特別なカレー色に染まっていた俺にとっては、どこか物足りなく感じられたのである。
正座した畳から立ち上る草の香りが、さらに寂しさをかき立てる。
せめて、黒い豚カレーであればという思いは、溜息と共に出汁を吸った天ぷらに溶け込んでいった。
その時、一枚の油揚げがたぬきの姿を覆い隠し、僅かに出汁が飛び散った。
狐につままれたような気分で前を向くと、爺ちゃんは笑うでもなく、怒るでもなく、いつもの深くしわの刻まれた石膏像の顔で、
「折角の年末だ、食え」
と言って、そのまま主役の消えた丼を淡々とすすり始めた。
俺は突然のことにどうすることもできず、ただ頷いてそばを手繰り、きつねの熱さに驚かされるばかりであった。
今にして思えば、あれは爺ちゃんなりの「詫び」だったのかもしれない。
何故かは分からずとも、突如として見せた孫の落胆する顔を見て、とっさに一つのお宝を与えたのだろう。
そもそも爺ちゃんは、甘く煮た油揚げが好物であった。
土曜日の夜にだけ爺ちゃんは、近所の豆腐屋で買ってきた油揚げを母に煮てもらってから、それを肴に茶碗二杯の酒をやった。
その時も表情一つ変えずに七味を一振りし、しかし大切なものを愛でるかのように一口一口を噛みしめながら、次第に顔を赤くした。
うどんを食べるときも、そばを頼むときも決まって油揚げを入れてもらい、稲荷があれば必ずそれを口にしていた。
その爺ちゃんが俺に油揚げをくれて、自分はきつねが失せた赤い素うどんを食べたのである。
それを思うと、途端に何かが込み上がってくる。
見透かしたように、セットしたタイマーが高らかに鳴り、俺は割り箸を手に取り、赤い蓋を取った。
立ち込める湯気が目に染みるようだ。
まずは右手に箸を持ったまま、両手で容器を抱えて出汁を口にする。
舌が出汁の旨味を捉えるのと同時に、食道から胃にかけて温もりが広がるのを感じる。
この一昼夜、何も食べ物を受け付けなかった身体が天岩戸を開き、外の賑わいで洞を満たそうとしていく。
ここで、七味をふりかけて麺を一つつまみ啜り上げる。
それがどこかおかしなものに聞こえて、自然と口から声が漏れ出してくる。
ただ笑いをもたらした麺は、噛む度に柔らかくも確かに歯を押し返してきて、さらにもう一口、さらにもう一口と食を勧めようと誘う。
端に並んだかまぼこと玉子もいじらしいかと思いきや、口にした途端に存在感を増して俺の意識をはっきりとさせた。
しかし、それらすべてが露払いであったかのように、噛みしめた油揚げから熱く、甘い汁がほとばしる。
その鉄の飛沫のような熱さに、あの時と同じように思わず目を丸くしてしまった。
でも、それがいい。
口の中ではふはふと言いながら食べていると、俺はまだあの頃と同じなのかもしれないという錯覚に陥いる。
それを僅かに垂れだした鼻水が現実に戻し、鼻をかんで、再び丼に没頭していく。
没頭しながら、再び鼻水がたらり。
いや熱くなった鼻からだけではなく、目尻からも何かが僅かにあふれ出す。
鼻をすすって誤魔化し、麺のすすりを速めれば、もう止め処なく体の奥底からあらゆるものがあふれ出してくる。
そして、もう一枚のきつねに箸をつけた時、
「この一杯があの時にあったらなぁ……」
俺の口から一言零れ落ちた。
それを隠すように、大口を開けて食らいつき、残った出汁を息つく間もなく飲み下した。
後には丼の上で離れ離れとなった割り箸の姿。
それを恍惚を眺めながら、深く息を吐き、徐にスマホを手繰り寄せた。
頬に当てるとひどく冷たく、火照った頭に心地よい。
まるで雲の中に紛れ込んだかのような浮ついた気分の中で、呼び出しの電子音だけが俺を現実に引き寄せていた。
「あ、爺ちゃん、俺だけど。……どうしたって。いや、ちょっとだけ礼を言いたくてさ」
爺ちゃんの赤い素うどん 鶴崎 和明(つるさき かずあき) @Kazuaki_Tsuru
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