第五話
大正八年の四月。私は単身、汽車にて東海道を下った。神谷くんの故郷に香典を届ける役を会社に願い出た私には、その許可と共に二ヶ月間の休暇が与えられていた。
一月ほどの滞在を予定していたが、携行品は小さなトランクと傘が一本のみだった。一年半の虜囚生活は、生きるに必要な荷物がそれほど多くないことを覚えさせた。
春の陽気だった。桜が咲き、青空を映す水田と菜の花畑の車窓に、旅客たちは華やいだ声で会話する。言葉は次第に西寄りなものに変わり、昼下がり、汽車は岡崎の停車場へと着いた。彼が商船学校へ上がる十七歳までを過ごした町に、私は初めて降り立った。
市内へ向かう路面電車へと乗り換え、街道を北上する。彼が中学校へと通った通学路だ。当時は馬車鉄だったと聞いている。道沿いの商家は、昔ながらの格子窓や蔵造りが多いが、洋館造りのモダンな店もいくつかあった。
ぼんやり眺める内に、電車は停車と乗降を繰り返し、鉄橋に至った。私はトラス越しに神社の石鳥居を見出だした。今、渡る川が
殿橋の停車場で降りて、川沿いの小さな旅館へ入った。しばらく滞在したい旨を伝えると、老女将は川に面した二階の六畳間へと私を通した。硝子窓が開けられ、行き交う荷船に波立ちきらめく川面が見えた。
「お客さん、ほんとにいい時期においでんさって。お城の方にも、桜たくさん植わっとりますで、どうぞ足を運んどくれんさいませ」
「あちらだな」
窓から西の方角を指した。女将はよくご存じでと手を合わせてうなずいた。私が加えて、八帖町へ行きたい旨を述べると、女将も窓から西を指して答えた。
「この道をまっすぐ行って、お堀の川越えて、また十分くらい歩いたとこにあります」
「
「ほほ、八帖の手前にあります。こちらも良え花が揃ってますでのぅ。あれあれ、関口さまは本当にようご存じですわ」
クスクス笑いを残して、女将は階段を降りて行った。私は麻のジャケットを脱いで吊るすと、窓枠に腕を掛けて座った。汽車旅の疲れが日差しに誘われ出て、微睡む。表の道には物売りが行き交い、学校終わりの小学生たちが、かけっこをしながら家路へとついていた。甲高い叫びと笑い声は、以前の私ならば、耳障りなものと受け取っていただろう。
私の内部構造は、全く変わってしまった。私を俗人たらしめた諸々の欲や感情は、ブランデンブルクを発った日を境に消えた。代わりに沈静を得て、しかし、根底には常なる動揺と寂しさを覚えるようになった。
ヴァームベックはおとぎ話に出てくるような、傾斜のある赤い屋根と白壁の屋敷が集まる、長閑な保養地だった。非戦闘員との認定を受けた私たちには、外出の自由が与えられた。私は毎日散歩に出かけ、美しいものを探した。金色の小麦畑も、教会の葡萄棚も、教会の南を流れるヴェーザー川の朝霧も、確かに美しくはあったが、彼との別れの日の夕暮れ以上に情緒へ迫る美しさは、遂ぞ見出せなかった。
私たちを追って、神谷くんの遺品が届けられた。彼の制帽には、型崩れのないように新聞紙が詰められ、その中央にて、林檎が一つ、眠っていた。湖畔の林檎だと、エリーゼからの添え書きで知れた。私は、薄紅の実を部屋の机に置いて過ごし、七日目の朝、ヴェーザー川へと流した。
桟橋の先から押しやられた林檎は、一度沈んでから、高い秋空を映した川面に浮かび上がり、ゆっくりと流れて行った。葬送に涙はなかった。細波のような感情起伏のまま、朝夕を過ごした。
労働のない日々は、生と愛への考察に費やされた。自然と彼を考え、彼の愛した菊栄にも想いを馳せるようになった。私は、彼女が未だ板屋町にいるような気がしてならなかった。彼が一生かけて菊栄を愛したように、菊栄も彼を胸内に抱き続けていると思われた。
彼を失った悲しみを分かち合う相手は、菊栄しかいない。まだ見ぬ菊栄と会うとき、それは再会の心持ちになると予感していた。もし本当に菊栄と巡り会えたならば、彼女を請け出して妻にするつもりですらいた。
私は、欠如感から他者の熱を欲し、抱擁による生存の実感を求めた。インディビジュアルな存在として生きゆくことに耐えられない。私の生命への憧憬は、祈りや芸術ではなく、熱を持った人格的存在に向かっていた。
鐘の音に目覚めると、辺りは夕映えに赤らんで、上弦の月が南中にあった。壁掛け時計を見れば、十八時だった。私は窓を閉めて、ジャケットを羽織ると宿を出た。
菅生川と城南の堀とに挟まれた道を抜け、堀川の橋に差し掛かったとき、料亭造りや妓楼造りの建物が私を迎えた。硝子窓より漏れる明かりが、薄闇の水田に照り返り、板屋町は浮島のように見えた。
大門脇の検番へ行き、菊栄という名の二十八になる妓はまだいるかと尋ねた。すぐに如月楼にて
妓楼の主人に案内を受け、二階へと上がる。階段は、やけに軋んだ。通された部屋は、取り立てて目を引く拵もない四畳半間で、天井の電気ばかりが近代的だった。延べられた薄い布団からは、黴臭さを消すために薫かれた薫香が匂い、窓脇の鏡台に置かれた灰皿には、紅の着いた吸殻が二本残っていた。
場末とまでは言わないが、格の低さは否めない店と認めざるを得なかった。襖を隔ててすぐ隣の部屋からは、睦言を口にする娼婦の甘えた声と衣擦れの音が聞こえた。
私は重たい硝子窓を開けると、出窓に腰掛けて煙草に火を点けた。白露としての七年間を思うと哀れでならない。この薄汚れた部屋で、神谷くんを胸奥に抱きながら、何に美を見出していたのだろうか。思いを馳せながら一吸いしたところで、女の声が呼びかけた。
振り向くと、痩せて色のない女が、立ったまま襖を開けていた。暗い電灯に照らされた顔は、目許に濃い影が差し、落ちた口角は、愛想笑いも浮かべない。
「……菊栄、なのか?」
「白露だけんど?」
煩わし気に答えた白露の声は焼けていた。垢じみた着物は、年不相応にも若々しい桃色で、筋の浮く細い首を一層貧相に見せる
「――何? あんた、誰?」
喜びも悲しみも映しはしないだろう、乾いた目が私を見下ろす。美しさの欠片も見出せない姿に、この半年間、抱いていた親しみは消え去り、胸には絶望ばかりが残った。
「……まあ。とにかく、座れよ」
白露は目礼すらせず、後ろ手に襖を閉めると、気怠げに布団の向かいへと座った。この部屋に相応しく下等な女だと思いながら、私は煙草を深く吸うと灰皿に押し付け、布団を挟んで向かい合った。白露と同じだけの冷たい目線を返し、名乗りもせず、前置きもなしに、本題に入る。
「お前、神谷二郎を知ってるだろ?」
「あー、うんうん。いたのぅ、同級生だったけんど?」
「彼は死んだ。それを伝えに来ただけだ。もう帰るよ」
裾の埃を払って立ち上がった。浅はかだったのだ。私の深奥に埋もれながら、なお焼け付く悲しみは、誰とも共有できない。
「待って」
傍を通り抜けようとした私の裾を白露が捕らえたが、要求は下らない。
「お足、一切りちゃんと払ってよ」
「
私の蔑みの目線を、彼女はせせら笑った。
「ほうよ、売女よ? どうせ金払うんだで、ありがたく抱いてったら?」
「穢らわしい、誰がお前みたいな女」
「あれ、清純な。二郎さんのお友達らしい坊ちゃん……」
猫撫で声で離した手を、白露は頬へと持っていった。鋭い目に見上げられて、私の脚は動かなかった。白露はため息を一つ吐いて視線を外すと、気怠い声に戻った。
「二郎さん、どこで亡くなったって? あの人、商船学校出てからどうしとったの? あんた、いつのお友達?」
「……日本郵船という海運会社に入った。私と同じ船に新人として配属されて、五年間」
そこで言葉を区切って、彼女の隣に座った。私は誰かに、例え下卑な娼婦相手にでも、彼との話を聞いてほしくなってしまったのだ。
「私は
彼との五年間を、順に追って話した。私の目に自身が映っていないことを知りながら、白露は相槌を繰り返して聴いてくれた。尾花草の和歌を詠んだことは忘れていたらしく、細かいことまでよく覚えているものだと苦笑した。愛しい者への眼差しだった。
「二郎さん、昔からほうだ。神社の桜、毎年一緒に見に行っとったけんど、去年は何の話したね、一昨年はこんな話したね……覚えとらんって」
笑い話のように話すが、目尻に寄った皺には、涙が浮かんでいた。
「よう覚えて、よう考える人だで、過去が近かったんだろねぇ。ほいだで、あん人は変わらん。子どものころから、本当に変わらん」
妓楼を訪ねた彼に、もう会いに来るなと伝えたのは、身を引いたわけでも、気持ちが冷めたわけでもない。
「二郎さんは『菊ちゃん』が好きだったでのぅ。一緒に美しいものを探してくれる、かわいい菊ちゃんが好きだった」
「そんなことはない。君がどうであっても、神谷くんは君を愛した。君自身を愛した」
「ほれが、菊ちゃんを愛したということよ」
白露は微笑むと、身体を布団に横たえた。
「内面を愛したなんて、都合良え言葉だのう。小作に落ちたときも、女郎に堕ちたときも言わったわ、二郎さん。……つまりはのぅ、どんなに身を置く環境が荒もうとも、純粋な菊ちゃんの心のままでいてって望んだだよ、二郎さんは」
頬杖を着く女の身体からは、苦労と厭世が匂い立った。話に聞く聡明で気丈な少女の面影はどこにもなく、また、それを惜しむ様子もない。淡々と現状を受け入れていた。
「……神谷くんが、君を悲しんだ理由がわかる気がするよ」
「うふふ、もっと悲壮に暮れて、泣き腫らいて見せれば良かった?」
「いいや、そんなドラマティックな心境では、君が苦しむばかりだろう。見ている方は、それを望むかもしれないが」
「どうしてなんだろねぇ」
「同情に浸りたいんだ、深く、何も考えずにな……」
私は彼女の隣に仰向けに寝転んで、影の落ちる菊栄の痩せた瞼を眺めた。
「君、菊ちゃんと呼ばれていたのかい?」
「ほうよ。菊栄さんだなんて、のぅ。ふふふ、二郎さん、あんたには気取っただね。ほんな人だに、昔から」
「……ここの者は大抵そんなしゃべり方なのかね?」
「ほうだけんど?」
「そう。悪くないな、その言葉も」
彼は一度も御国言葉を聞かせなかった。異国語を覚えたように、東京言葉も習得したのだろう。彼の気取り故とは思わないが、やはり、少し寂しく思われた。私は、菊栄に左手を差し出してみた。
「彼の手を握ってきた。温もりも残っているだろう」
「要らんよ、ほんなん。私は、あんたと傷を舐め合うつもりはないんだで」
彼女は強がりにも笑い、潤んだ目で私を見下ろしていた。私は、振られた左手を頭の下で枕にして、菊栄の目を静かな心地で見つめた。呼吸のたびに僅かに揺れる小鼻と、繰り返されるまばたきが、強い生命の意志を感じさせた。菊栄が生きている。私の目の前で、今も生命のグラスから、泉の水をこぼして。
「キスしても、いいかい?」
菊栄の頬に手を沿わせると、彼女はフンと鼻で笑ってから、微笑みの視線を交わしたまま、私の唇へと熱をもたらした。
翌朝、会社の近くに部屋を借りて菊栄と所帯を構えたいことを明かすと、菊栄は、一時の気の迷いだと笑って断ろうとした。それでも、私は彼女を強く抱き締めた。
「粋狂でも同情でもない。君と共に過ごしながら、愛を涵養したいんだ」
菊栄は、ロマンチックな男だと笑い、私の胸に身を預けて泣いた。如月楼の主人と身請け話をつけ、身請け金は小切手にて支払った。神谷くんのご両親へと遺品を渡すと、私は、滞在予定を切り上げて、汽車に乗った。もうすぐ桜の満開になる、四月十四日だった。
浜松駅に停車したとき、構内には、林檎売りの爺さんが高い声を挙げながら、林檎を掲げて客の気を引いていた。私は窓を開けて、彼を呼んだ。
「一つおくれ」
「おや、ありがとう」
爺さんは骨張った頬を丸くして笑いかけ、窓から腕を差し入れた。古ぼけて軽くなった紅の実が私の手に収まった。
「信州から出てきたのかい?」
「ええ、飯田の近くからですわ。今年最後の林檎売りです」
「そうか。では、大切に食べるよ」
汽車が鉄橋の中頃で汽笛を鳴らすと、浅瀬で遊ぶ四、五人の少年たちは揃ってこちらに手を振った。彼ら一人一人の将来に、健やかな愛と幸福があることを祈りつつ、私は開けた車窓から手を振り返した。
林檎への憧憬 小鹿 @kojika_charme
★で称える
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