第四話

 あの日を境に、私は神谷くんと妙な距離を取るようになってしまった。毎日訪れてはいたが、話すのは差し障りない天気や戦況の話題で、以前のように、哲学的な話をすることはなくなった。

 私は彼を表層しか知らなかった。嫉妬と情慾で己の制御を失い、その父に殺意を抱くまで愛した女がいながら、彼は、私と付き合ってきた五年間、自身の醜さを欠片も見せなかった。彼が巧妙な嘘吐きのように感じられた。

 菊栄との別れから、私と出会い、愛を説くまでの二年間に起きた心境の変化を、私は聞けずにいた。失恋を乗り越えたと聞かされたら、すかさず、嘘だと言ってしまうと思った。乗り越えていないから、今まで話題に出さずにいたのだ。一方で、乗り越えていないと聞かされたら、これまで交わしてきた愛への議論が覆される気がしていた。

 私はもう一度、彼の心奥に触れて、さらにはそれを受け入れる勇気がなかった。

 日数を経ても、神谷くんの傷は良くならず、むしろ悪化の一途をたどった。傷口の膿は包帯をも染み出して、シーツにまで及び、それを剥がすのに苦労した。包帯交換のたびに、彼は脂汗を浮かべて痛みに耐えていた。

 食欲不振と、七月に入ってからは暑さも加わり、日に日に彼は痩せていった。萎びていくと言った方が的確かもしれない。風の抜けない昼過ぎに様子を見に行っても、彼は汗一つかかず、乾燥した唇は割れて血が滲んでいた。

「具合はどうだね?」

 平凡な声かけをして、私は窓枠に座った。眼鏡をかけていない神谷くんは、焦点の合わない目を微笑ませて、私を迎えた。

「水、飲むかい?」

 彼がうなずいた。水筒からごく少量の水をカップに注いで、彼の口へと流し込む。何度か繰り返すと、神谷くんは首を振り、掠れた声で、ありがとうと囁いた。

 死の兆しを感じ取っていた彼は、けれども、決して不安や恐れを見せなかった。それどころか、死は恐ろしいことではないと囁くような小声で語るのだ。

「大いなる泉から汲み上げられた水、グラス一杯の水。それが生命だ。グラスの底には穴が空いていて、水は少しずつ泉へ帰りゆく」

「……生命の泉は、不老不死を叶えるものではなかったのかい?」

「泉の水自体は不生不滅、不増不減さ。グラスに留まる時の長さに限りがあるだけだよ」

 彼は天井へと重たげに手を掲げた。棒のような白い腕だった。細い指の隙間から、彼と目が合った。

「君の掘ってくれた墓穴で、眠りたいな」

 最期の願いくらい、目を潤ませてほしいものだが、彼はカーテンを開けるよう頼むときと同じ声音で、穏やかに言った。私は彼の手首を掴み、掛け布の下に入れた。

「寝ろよ、疲れてるんだ」

 彼の手を握れなかった。今、彼の熱に触れてしまえば、これが最後かと思わずにはいられないだろう。私の手は、彼と共有した熱を記憶している。熱を共有してしまったばかりに、彼との別れは、とてつもない悲しみを伴う。

 私は時間の許す限り、彼の側にいた。話すでもなく、窓枠に腰掛けて、頬骨の浮いた青い彼の顔を見つめていた。

 彼の東隣に横たわるイギリス兵は、負傷による熱にうなされ、神への祈りを捧げ続けているというのに、彼の感情は静止していた。何にも祈らない、救いも求めない。家族への遺言、私との思い出、その他、別れを惜しむようなことは一切口にしなかった。

 死に近付いているということ以外、彼の日常は日常のままだった。生命の果てが見え隠れする現状に至ってまでも、涙一つ見せない。私は、長らく腹の底にあった神谷くんに対する恐れの根源を理解した。

 この男には欲がない。そして、執着もない。今までならば、清廉さに呆れながらも、そんな奴だったと受け入れられただろう。けれども、彼は巧妙な嘘吐きなのだ。

 善く生きるために、彼は出世欲や名誉欲を手放した。女も求めず、金銭的な望みもない。この嘘吐きな男は、そんなものはいらないと自分自身を騙すのだ。社会的なものはもちろん、友人関係も、自らの生命さえも。

 私が彼を恐れたのは、彼が価値なしと手放すものの中に、私や彼自身が含まれることを勘付いていたからだ。

 どうしようもない苛立ち。この期に及んでなお、彼は満たされたような顔で、シーツの中から私を見上げるのだ。

「おい……俺を見ろよ」

 まさに目を合わせている人間に対して向ける言葉ではない。神谷くんが困惑をまばたきで示していた。

「見えてるよ、平気さ」

「見ちゃいないさ、君は」

 私がどれほど君の死を恐れているか、知っているはずだ。毎朝、君が今日一日を無事に生きながらえることを祈っているというのに。君は、肉体など仮初の存在に過ぎないと、冷ややかに……!

 私は彼の枕許に両手を着いた。覆い被された下で、神谷くんの喉が微かに震え、それを私の右手が包んだ。忌まわしくも彼の脈動は速まらず、見上げられる目は、すぐに穏やかなものへと静まった。

 澄ました顔が憎らしい。泣いてみせろよ。矜恃も何もないように、無様に命乞いでもしてみせれば良いんだ。

「殺してやろうか」

 本当に首を締める気でいた。そうでもしなくては、この超然とした男は、一切の醜さを秘匿したまま、私の目を盗んで死んでしまうように思われた。

 やはり、彼は微笑んだまま、深く息を吐いて私を見つめた。彼の瞳の中で、恐怖に顔を歪める私自身と目が合い、手が戦慄いた。

「何か言えよ」

「……悪くないね」

 私は病棟を駆け出た。湖畔の葦に分け入り、細波の中で泣いた。

 私は彼と、共に過ごした時を懐かしみたかった。迫られる別れを恨んで、悲しみを分かち合いたかった。不条理を呪ったところで、誰が咎めるだろう。それなのに、彼は微笑んだ。愛を語るときのように、目は光っていた。彼は本当に、死ぬことを恐れていない。私ばかりが掻き乱されて、一人残される。

 私は悲しみにおかしくなっていた。狭い収容所の中で、死期を目の前にした人間と、死んだ者のための穴とを交互に、かつ、それのみを見ていたのだ。

 私は翌日から彼を訪れなくなった。


 夏の盛りは過ぎて、林檎の実は赤味を帯びた。ある朝、朝食前に、私たち日本人捕虜九名が集められ、翌日の収容所移転を聞かされた。十三名の同僚の内、一人は既に亡くなり、神谷くんを含む病床の三名は、ブランデンブルクに残されることになった。

 私は半日を過ごした末、三週間振りに病棟を訪れた。神谷くんの横たわるベッドには、金色の柔らかな光が差していた。

 私は一歩ずつを踏みしめて、彼へと近付いた。リネンのカーテンが夕べの微風に膨らみ、彼の上ではためく。私は彼の枕許に立った。

 彼は霞んだ目で私を捉えると、一度目を見開き、すぐに閉じた。眉根は寄せられたが、乾いた唇は微笑みを浮かべた。彼に愛されていた証は、それだけで十分だった。

「ただいま。だけど、すまない。お別れを言いに来たんだ」

 彼は枕許に両腕を掛ける私を見上げて、噛み締めるように頷いた。

「ヴァームベックに行く。航海士長たちがいらっしゃる村だ。戦争もじきに終わるから、そしたら――」

 彼が首を振って私を遮り、

「嘘はなしだ」

と息だけの囁きを口にした。

 やはり、神谷くんは微笑んでいた。私は震えて、顔を隠すように涙を堪えた。今生の別れなのだ。希望的観測や取り繕った言葉ではなく、別れを述べなくてはならない。

 言葉は出なかった。異郷の地に、友を一人残して行かなくてはならない。そんな時に口にする言葉を、私は知らない。彼の枕許に突っ伏して泣いた。

 彼が、掛け布の下から痩せこけた左手を出して、私の腕に添えた。握り込んで、また泣き、彼の熱を刻み込んだ。悲しみは苦痛だけではなく、温もりも内包していた。顔を上げれば、深い静寂の目が私を迎えた。

「ありがとう」

 肯定に満ちた響きは、はっきりと耳に届いた。彼が私の手を自身の喉に当てて、大きく息を吸い込んだ。

「意のままに」

 私は彼に誘われた微笑みの中で首を振った。指先に、彼の確かな脈動を感じていた。

「さようなら、ありがとう」

 ベッドから離れた。しばらく、南のテラスから降りられなかった。彼との別れが、本当に後悔のないものか、確信を持てずにいた。

 一風、強い西風が立って、広大な湖の最奥から、波を攻め寄せさせた。葦を騒がせ、岸を打ち、私の胸を駆け抜ける。粛然。夕日は輝きを増して、ブランデンブルクの空は、湖面のきらめきに一層明らんだ。私は、神谷くんが求めた美の断片に触れ得た気がした。

 それだけを伝えようと、病棟の敷居を跨いだとき、神谷くんのベッドの傍には、エリーゼがいた。はためくリネンのカーテンを背にまとった彼女は、キャビネットに置かれた琺瑯ボールでタオルを絞って、丁寧に彼の顔を拭っていた。小声で歌う讃美歌は、『星の世界よ』のメロディだった。

 エリーゼが神谷くんへと接吻した。風と暮色の初秋だった。

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