第三話

 夏が来て、葉陰の林檎が青い実を太らせるころ。掘らされる墓穴の数は増えていた。スペイン風邪と食中毒とが同時に流行ったのだ。健康だった兵士が、二週間後には土へと埋められるようになった。

 神谷くんも馬鈴薯にたり、吐き気と嘔吐が三日間、繰り返された。体力が落ち、腹部の傷からは再び膿が出た。熱を持って寝られない日々に、食欲の低下が加わって、彼の体力は余計に削られていった。

 イギリス兵三人分の葬儀を終えた昼、私は小振りな桃を二つ、スープの平皿に乗せて、第三病棟を訪れた。平屋建ての病棟は、テラスを兼ねた南廊下に三つの出入り口が設けられており、間仕切りのない大部屋では、足を向け合って置かれたベッドが、中央に通路を作っていた。

 神谷くんのベッドの傍に、白い制服を着た若い看護婦が立っていた。彼を覗き込むような姿勢でその娘が話していたので、治療中かと思い、私は三人手前のアメリカ兵のベッドフレームに腰掛けて遠巻きに眺めた。

 彼が私に気付いて手を挙げ、私も桃を見せるように皿を掲げ返した。すると、彼の視線の先を追って振り返った銀髪の少女は、逢引でも見られたかのように赤面して、彼から離れた。私の前を通り抜けるとき、耳にかかる髪をかけるような仕草で顔を背けた。まつ毛まで銀色の、美しい娘だった。

「おい、あれは Liebeリーベ かい?」

「懐かしい言い方をするね、違うよ」

 彼が傷に響かないように声を抑えて笑いながら、手を伸ばした。私は彼の手に柔らかな産毛の立つ果実を持たせた。

「参列のイギリス水兵からもらった」

「ありがとう。このところ、毎日あるね」

「まあな」

 死は日常になっていた。今も病室の中央辺りでは、あるアメリカ兵のベッドを取り囲んで、最期の別れが行われていた。いつしか死期の別れは風景になり、私はそれを見て、明日掘る墓穴の数に数え上げるのだった。

 キャビネットの上に皿を置き、ナイフを出して皮を剥く。硬い紅の衣から黄白色の肌が現れると、甘やかな香りの中に漂うツンとした酸味の刺激が鼻をくすぐった。

「良い匂いだねぇ」

「お、食べたくなったかい?」

「うん」

「それは良かった」

 皿には一口大に切り分けた桃が落とされていく。小枝を削って作った楊枝を刺し、彼の胸の上に皿を乗せた。傷の悪化を受けて、彼は身体を起こすことが辛くなっているようだった。彼は仰向けのまま、器用に食べた。私は果肉の残った桃の種を口に入れた。

「それで、何話してたんだ?」

「あの子、親戚のお兄さんが支那に出征して、今は日本で虜囚となっているそうだから、日本のことが気になるみたいなんだ」

「ふうん、名前は?」

「エリーゼだって」

「『エリーゼFürのためにElise』か。あれは良い曲だ。彼女も美しいね」

「そうだね、美しい娘だ」

「それは、君の言う美とは違うのか?」

「違わないよ」

「じゃあ、あれを Liebe にしようとは思わないのか?」

「する、しない。そういう意図的な選択じゃないだろうさ。意志の問題だから」

 愛を語るときの意志とは、目的に向かう精神のことではなく、大いなる根源からの働きかけを指して使われていた。

 彼は微笑んで、カーテンを開けるように頼んだ。リネンのカーテンを分けると、湖畔にて巣作りに励む水鳥が見えた。

「ねぇ、関口くん。鳥は一度番うと、一生その相手と添い遂げるというけれど、本当かなぁ」

「どうかねぇ。人間の願望が、多分に含まれているように思えるが」

「最愛の女と一生、ね。君はどう思う? 最愛の女とは、ただ一人のみか。それとも、第二第三、もしくは複線的な存在はありうるか」

「狡い答えだが、人によるだろう。ただ一人の愛する女を見つけられた者は、幸運な男だ。第二第三の最愛の女を見つけられる者は、愛する才能がある」

「君の場合は?」

「今後の幸運に期待だな」

 私は種を口から出すと、外に投げ捨てた。くすんだ紅の核は、芝を弾んで葦原に入り、見えなくなった。彼がベッドの端に寄ったので、その足許に窓へと面して腰掛けた。

「愛は性欲が見せる幻影だと言ったが、君に当てられたね。君の説く、静止したる愛ってものに興味が湧いてきた。帰ったら探すよ」

「楽しみだ。ぜひ、お相手と愛を涵養してくれたまえ」

「君には才能があるんだろうな」

「そうだろうかねぇ」

「そうだろうが」

 林檎の実は少しずつ黄味を増したが、彼がその下に寝転がることはなかった。見舞いに行っても、眠っていることが多くなった。


 私は、赤十字からの物資支援で得た石鹸を半分に切って、エリーゼに持たせ、何か果物を手に入れてくるように願った。エリーゼは銀色の眉を凛々しく寄せて受け取った。半切れの石鹸は、小籠一杯の木苺と杏子に変わった。籠を手渡す彼女の指先には、小さな切傷がいくつもあった。

「思うにね、エリーゼは君のこと好きだろう、なぁ? アレから渡しておいてと言ったのに、俺に押し持たせるんだから。なぁ、どうなんだよ、なぁ」

 娯楽のない日々に飽きた私は、学生の口振りで神谷くんを囃した。エリーゼは確かに彼のベッドへ来ることが増えていた。私は病室に入る前にテラスの窓から彼を伺い、銀の髪の少女がいれば、収容所内を充てもなく散歩してから出直していた。

 彼女に限らず看護婦に恋したとか、徴用先の工場で村娘と恋仲になったとか、そんな話はあちこちで聞いた。しかし、神谷くんはエリーゼの恋心すら認めようとしなかった。

「彼女は自分の仕事を全うしているだけだ。恋愛とかそんな邪推をしてはいけない」

「好きでもない男のために、こんなにたくさん摘んでこないよ」

「君が石鹸渡してくれたからだろう? 申し訳ないよ。ただでさえ、余計に僕の包帯洗いに使わせてるのに」

「だったら、面白い話を聞かせてくれ。こっちは娯楽に飢えてるんだから」

 私は皮を剥いた杏子の半分を、彼の口へと押し込んだ。彼は飲み込むと、果汁に濡れた口周りを手の甲で拭った。

「何の話がいい?」

「君の恋愛話。人類愛じゃない、恋愛の方だ」

「君、僕の恋愛観、聞き流してきたくせに」

「それは、悪かったよ。だけど、今の俺は、君の説く愛を少し理解してきたように思う。だから、改めて、な? 君の恋愛、聞かせたまえよ」

 私は杏子の残り半分と、いくつかの木苺とを白い琺瑯の器に移して、彼の胸の上に置いた。彼は皿を枕元に下ろすと、私を見上げて、珍しくも重たげに口を開いた。

「じゃあ、僕の愛した女の話をしようか」

 彼の目は、厚いレンズの底で、感情の読み取れない、しかし、恣意的な解釈をすれば、悲しみとも見える光を宿していた。

「……君の?」

「そう」

「じゃあ、聞こう」

 私は濡れタオルで手を拭きながら、開いた窓の外に視線を向けて、ベッドに腰掛けた。パンドラの箱を前にした不安が、彼を直視させなかった。今からの話は、私の知らない彼の内部領域に及ぶ。彼は少し掠れた声で、菊栄きくえという幼馴染みの話を始めた。

 菊栄は町外れに住む同級生だった。尋常小学校の一年生で同じ組になり、授業後には毎日、彼女の家に行っていた。

「どうしてだったかな。多分、チャンバラとか相撲とか、あんまり好きじゃなかったからだと思う」

 彼は、男ばかり四人兄弟の二番目で、喧嘩をしては末の弟にも負けたという。実家の騒がしさから逃れて、彼女を訪ねた。

 菊栄には父母と祖父、弟と妹が二人ずついた。貧しい自作農の家ながら、貧窮を感じさせはしなかった。国学者である祖父の持つ教養と清廉さが、物質的な欠乏を補っていたのだ。彼女の祖父は明治の世には古風な人で、最期まで総髪を切らなかった。食べていけないからと跡目を継がなかった息子の代わりに、彼女や神谷くんへと国学、儒学、和算などを易しく教えた。

「万葉歌も教わったな。歌われた情景と似た景色を見つけては、二人で教え合った」

「菊栄さん、美しいもの見つけのお相手かい?」

「うん」

「そう、女の子だったの」

「うん」

 それから、神谷くんはしばらく黙った。

 西寄りの微風が白いカーテンを膨らませて、私の眼前に迫った。いつもなら手で払うか、無造作に片側へ寄せるくらいだが、私は立ち上がって、カーテンをタッセルに留めた。話をどこに向けたら良いものかわからず、彼が再び話し出すのを期待して振り返ってみた。眩しそうに目を細めた彼と目が合った。

筒井筒つついづつって言うだろう?」

「『伊勢物語』かい?」

「ああ。お祖父さんは、恋の歌はまだ早いって教えてくださらなかったけど、これだけは教えてくれた。菊栄さんのおかっぱ頭を見ては、いつかこの髪が長く伸びて、僕も触れることを許されるようになるのかなって思ってたんだ」

「……きれいな子だったんだろうな」

「そうだね。二年生かな、稚児髷に結い始めたときは、お祖父さんが、古の絵巻から現れたようだって褒めてた」

 神谷くんの住む町は東隣に花街があったので、自然と芸事が盛んな地域だった。夏祭には町内の家々から楽器が持ち寄られて、女囃子おんなばやしが行われた。彼女の家は、小鼓を担っていたという。病を得た母親に代わり、四年生には婦人方に埋もれて小鼓を叩いた。

「その日だけは、白粉に紅を指して。揃いの藍染の浴衣と、締め緒の朱色と……本当によく映った。美しいもの探しは、見つけたら必ず教え合っていたけど、あの日から、一番きれいに見えたものは、言えなくなったんだ」

 祖父を真似て姿勢を正し、修身で習った道徳説話を弟たちへと語って聞かせ、兄弟仲良く助け合っていきましょうと締める姿。体操の時間、男子に負けない速さで駆ける小鹿のような脚。彼女の美しいものを見つける目はさらに研ぎ澄まされ、やがて、和歌に詠むようになった。


尾花草おばなぐさに置ける白露 いざ子どもが触れめん散らしてんぞや

――薄の穂が抱く白露。さぁ、子どもたちよ、誰が初めに触れて、珠を散らすのだろうか。


 朝露の通学路。子どもたちが薄を揺らして走り行く様を歌に詠み、その心を解説する彼女へと、彼は小刀で切り取った薄を手向けた。彼女が指先で露に触れ、冷たいと笑った。

 彼女は自らが一番美しいと思ったものを伝えてくれているのに、彼は心の内を打ち明けられない。自分が偽りの存在に思えて、彼女の側にいることが苦しくなり、けれども、離れていても、何か美しいものを見つければ、彼女の声がしてそれを形容するのだった。


 高等小学校へ上がるに際して、彼女の祖父と父が揉めたという。金もない家の娘に学問など要らないと進学を反対する父に、祖父は酒を止めるように言い付け、彼女を師範学校へ進めることを説いた。

 そのころ、小学校教諭の給与は月々十円前後で、高等小学校の学費は四年間で五円ほどだった。お前が酒を止めるだけで、この子は貧しさから抜け出せると説き伏せた。彼女も弟たちの学費を自分で稼ぐと言っていた。祖父は塾をたたみ、蔵書を売った元手で河原に程近い荒れ野を買った。秋には蕎麦を、春には除虫菊を育て、学費に当ててくれた。

 ところが、高小三年の秋に祖父が亡くなり、翌春には父が日露戦争に出征した。家には、三歳から十歳の弟妹と、寝付くようになった母ばかりが残され、田畑を耕す者がいなくなった。彼女は高小四年を休学して鍬を振るい、家事を行った。神谷くんも、彼女の家を繁く訪ねて、彼女や弟たちに勉強を教えたり、薪割りなどの力仕事を手伝っていたという。彼女の母は、神谷くんの訪れを厚く感謝して、二人の仲も認めていた。

 戦争さえ終われば、父が帰って来て、学校へ戻れる。それまでの辛抱だと、彼女は笑って見せた。いつの間にか、美しいもの探しはしなくなっていた。

 しかし、父親の帰国こそが彼女の試練の始まりだった。戦争終末、十四歳の春に父は左脚と右手を失って帰って来た。一時は止めていた酒は量を弁えなくなり、唯一、父を諫められた母も、その冬に亡くなった。短絡的だと自嘲しながらも、彼女は学校を退学し、弟妹と共に田畑を耕した。わずかな恩給は父の酒に消え、家は荒んでいった。

 彼女の父は、神谷くんが家に来ると、泥棒者と罵り、杖を投げて追い払った。娘を持つ父親特有の心理もあっただろうが、彼女が恋愛に興じたり、まして嫁ぐとなれば、働き頭を奪われることになる。それでも、目を盗んでは会い、手を握って労った。

 十六歳を迎えた、中学四年生の夏。夏祭の囃子を終えた彼女を宮の後ろへ連れ出し、結婚を申し込んだ。地元の銀行にでも就いて、彼女の家に入るつもりだった。

「本気だったよ、彼女を愛していた。でも、馬鹿なことを言うなって断られたんだ」

 商船学校へ進み、船乗りになる夢を叶えろと言って、彼女は握られた手を引き抜いた。目を逸らして弱々しく言われたのなら、強がりを言うなと返せただろうが、冗談を笑い飛ばすように諭されては、継ぐ言葉もない。

「学校を出たら、必ず迎えに行くから待っていてと言うのが精一杯だったよ。彼女も頷いてくれて……初めてのキスだった」

 十七歳の春、神谷くんは東京に出て商船学校へ進んだ。父に知られるので、手紙は出せなかった。盆と正月に会うたびに、彼女はやつれていったが、彼を気遣って笑い、学校での暮らしを尋ねた。翌年の夏休みには、この作付けから小作農に落ちたと聞かされた。祭に参加できなくなったので、参拝客に混じって、一緒に囃子を聞いた。

 二年ほどは小作農として励んでいたらしいが、二十一歳になる春。三年次を終え帰省した日の夕食の席で、母親から、彼女の家が離散したと聞かされた。

「母さんには言ってなかったんだ、結婚しようって思ってたこと。だから、昔あなたが仲良くしてたあの子、身売りしたらしいのよって、噂話の一つとして聞かされたんだ」

 身売り先は、町の東隣にある花街。酒に溺れた父親は、娘の尊厳など何も考えず、近所の男たちが生活通路としても使う町の妓楼に娘を売ったのだった。

「あの時ばかりは、殺しておけば良かったなって思ったさ」

 私は動揺のあまり、乾いた笑いをこぼしたが、彼はかまいもせずに続けた。

「夕食も残して、街に行ったよ。走って二分だ。菊栄という二十一歳の娘がいるか、検番に尋ねたら、すぐ知れた。妓楼……華やかな夢の世だなんて言うけれど、色硝子の窓も、着飾った女たちも、僕は好きじゃない」

 部屋で彼を迎えた彼女は、久しぶりだと気丈に笑った。女囃子のときのように、白粉に紅を引き、娘らしい桃色の振袖を着た彼女は、洋燈のほの明かりに照らされて、痛々しくも美しかった。

「自分が悲しかった。心では同情して境遇を不憫に思うのに、身体は彼女の肉体を求めるんだ。自分を汚く思うのと同じくらい、彼女にも憎しみが湧いた。生きてるだけで十分なんて言って、粗末な食事も、不自由な身の上も、抗わずに受け入れて……僕に助けも求めない。聞きたくなかったんだ、彼女の卑小な『良かったこと探し』なんか。口を塞いだ。遊郭なんて行く男の気が知れないと思ってたけど、僕もそんな男たちと一緒だった。彼女を乱雑に……それで、終わってみれば、僕だけが泣いて、彼女は僕を胸に抱き締めて、あなたは悪くないと慰めるんだ。朝に別れるとき、もう来るなと言われて、それきり会ってない。――さぁ、お仕舞い」

 淡々と語り切った彼は、面白かったかと尋ねるように微笑んだ。シーツの照り返しに、青白い顔はさらに白む。菊栄との別れからたった二年後、二十三歳で出会った彼は、既に今の私が見知った彼だった。彼とカタストロフな恋愛とが結び付かない。

「いいよ、何かご質問は?」

 私は戸惑いつつも、その後に恋愛はしていないかと尋ねた。彼は、嘲笑に首を振った。

「偉そうなことを語った奴の経験がこんなもんかと呆れた?」

「……まさか」

「随分と話したから、喉が渇いたな。お水、お願いしてもいいかい?」

 私はベッド間の通路を抜けて病棟を出ると、敷地の北に位置する自分の兵舎へと戻って水筒を取り、調理場から水をもらった。病棟へ戻ったとき、彼は眠っていた。私を気遣って寝たふりをしていたとしても、余計な気遣いだとは言えない。私は内心に浮かんだ安堵を認めざるをえなかった。コップに水を注ぐと、果物が入った小籠の隣に水筒を置いて、彼の許を離れた。

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