第二話

 年は明けて、二月の末。私たちはようやくドイツ北部のキール軍港へと上陸した。

 収容所へは所属身分ごとに振り分けられた。百名以上いた乗員は、そのほとんどが下級乗組員で、ドイツ南部のギュストロー収容所へ行ったらしい。航海士長など士官クラスの数名は北西部のヴァームベックへ、私たちを含む残りの上級乗組員十三名は東部のブランデンブルクへと送られた。

 ブランデンブルク収容所は、ベルリンから西へ七十キロほどに位置し、クウェンツゼーという雄大な湿地帯の畔にあった。英米の水兵を中心に一万人近い捕虜がいて、彼らは毎朝、部隊ごとに列車に乗せられては、近隣の工場などへ送られ、徴用されていた。

 一方で、たった十三人の東洋人である私たちに、仕事はなかった。私は日本郵船のロンドン支店へと現状報告や支援依頼の手紙を出す役を担っていたが、それも常の仕事ではない。時間は十分にあったので、病棟に入院する神谷くんを足繁く訪ねた。看護婦の数は圧倒的に少なく、患者の身の回りの世話は、同じ国や隊の者が行うことになっていた。

 東西に長い病棟は、中央付近に薪ストーブが二つあったが、彼のベッドはその恩恵を受けられない部屋の西端に置かれていた。あまりに寒いので、私は調理場から水筒に湯をもらい、タオルに包んで彼へと渡した。湯たんぽ代わりにはなった。

「それで、痛みは平気かい?」

「ありがとう、ほとんど落ち着いてるよ」

 彼は白い息で答えると、掛布団に包まったまま、身体を起こした。私は、その足許に腰掛けた。ベットと、薄いカーテンが掛かる西の窓との間には、腰丈のキャビネットがあり、洗顔用の琺瑯ほうろうボールと水差し、カップがセットで置かれていた。調理場からもう一つカップを借りて、水筒の湯が温くなったころに、白湯を彼と乾杯した。

 寒いと文句を繰り返す私に、彼は小さく笑いながら、窓の外を指した。湖の岸辺に、木の葉一枚まとわない木が、独り立っていた。枝振りは桃とよく似ているように思えた。

「あれ、林檎の木だって。来月下旬には咲くだろうって、看護婦の女の子が教えてくれたよ。ドイツの林檎は美味しいって」

「林檎か。そういやぁ、俺、花は見たことねぇな」

「僕もない。品種によって違うらしいけど、白いのから、紅色まであるそうだよ」

「ふうん。まあ、もう少し暖かくなったら、日向ぼっこにでも出よう」

「良いね、ずっと日光が足りてなかったから」

 私たちは、前線から離れた行楽地で気楽に終戦を待っていた。夜になると、徴用から戻った水兵たちがシェークスピアを演じたり、楽団を組んで演奏会を開いたりしていた。遠くから漏れ聞こえる笑い声の中、私は彼のベッドに座り、夜話にふけった。皆が寝静まると、西の湖から静かな細波が聞こえた。

 四月になって、湖畔の葦は芽を伸ばし、病棟の窓から見える草地は青く萌えた。紅の林檎の蕾が開き出したので、松葉杖の神谷くんを連れ出して、木の下に寝転び花見をした。枝先の若葉の上に薄紅の花弁を重ねる花は、春の柔らかな日を透かして、淡く光る。神谷くんが手を伸ばした。

「糸に紡ぎたいね。絹より柔らかそうだから。紡いで何を作ろうか」

「俺は新しいシャツが欲しいね」

「ははは、君が薄紅のシャツとは可愛らしい」

「切実に褌を願わなかっただけ、褒めてほしいもんだ」

 成人男性にしては、いささかメルヘンが過ぎる神谷くんの話を、私はそのまま受け入れるようになっていた。


 やがて、私たち日本人にも仕事が与えられた。収容所の南、ハーフェル川を臨む草原に、三日や五日置きに出向いては、墓穴を掘らされた。仕事は朝に言い付けられたが、私は前日の晩に神谷くんから、何号病棟の何国の兵が死んだと噂に聞かされることが多かった。

 葬送の様子は大きく差があった。あるアメリカ兵が亡くなったときは、十字架を先頭にした葬列が部隊を挙げて組まれ、送り出しの奏楽がなされた。ところが、あるセルビア兵が亡くなったときは、見送りはたった三人の同国人のみだった。

「俺も寂しく死ぬのかもしれないなって思ったさ。こんなにも確かに生きているはずなのに、俺だって、明日あの穴に埋められないとも限らねぇ」

 仕事を終えた私は、彼を連れ出して、満開の林檎の木の下に寝転んでいた。セルビア兵が礼に煙草を一本くれたので、神谷くんと二人で吸い合った。

「俺、帰ったら、結婚しようかなぁ。今まで、したいとも思ったことねぇけど、生命が案外虚しいと思うと、妻子を持ちたくなる」

「君は寂しいから結婚したいのかい?」

「情けないが、そうだ」

「寂しいのかぁ」

 煙草を咥えた彼が、同意を見せない声音で返した。白煙は昇り、代わりに薄紅の花弁が彼の前髪に降る。私は、それを青芝に払った。

「自分は違うって? まさか君、本当に坊さんにでもなる気かね?」

「それも悪くないと思うけれど、結婚は孤独を解消する手段にはならないということさ。独りであることと、孤独とは、必ずしも同一ではない」

「独りは孤独だろう? それとも、君はこの日の下にある人間を皆んな愛せるから、孤独じゃないっていうのかい?」

 彼は少し考えてから、煙草を芝生に押し付けて消し、顔だけを私に向けた。透けそうにも青白い瞼が幾度かまたたき、私を捉える。

「独りは寂しい、よくわかるさ。では、近付いてみようか?」

 右手が差し出された。私は彼がまた妙な愛を説き出すことを覚悟して、自身の左手の甲を重ねた。彼の冷ややかな指が私を迎え、強く握った。初め、型の不適合のような隙間を感じていたが、次第に熱に解けて、馴染むような気がした。

「熱を感じるかい?」

「ああ。だけど、君、ちょっと冷たいぞ」

「そうだろうかね。まあ、いい。――身体距離の近しさは、一時的には心理的孤独を打ち消すが、この皮膚は融解しない。人間とは、どこまでもインディビジュアルな存在であって、続柄や身体距離の近しさと孤独とは、全く関わりのないことだ。そうだろう?」

「……だから、社会の作り出した契約関係でしかない結婚では、孤独から救われない?」

「そうではない。孤独故に他者の熱を求める者は、いつまでも孤独から抜け出せないということだ。僕は他者が――君が熱を持つと知っているから、既に孤独ではない。感じてくれ、僕の熱だ」

 彼が一層強く、手を握り締めた。温かいが、痛いほどに。それでも、私は顔をしかめては負けな気がして、平然と返した。

「うん……温かいものだ」

「僕たちは熱を共有した。この記憶が、永遠に僕たちの熱を残させる。この手に、だ」

「どうだろうか? 離してしまえば、やがて冷えてしまう」

 私が意地悪くも手を引き抜けば、彼は、素直に私を離した。

「熱が常に、手の内にある必要はないのさ。熱があったという記憶が、まだ触れもしない他者の熱を類推させるんだから」

「君はつまり、何だから寂しくないと言いたいんだい? 俺たちが、皆んな共に生きてる地球人だから?」

 私は頬杖を着いて彼と向き合った。眼鏡の向こうにある彼の目は、昼の光を集めながら、まっすぐに私を見上げた。

「僕は人間の持つ熱に美の欠片を感じるんだ」

「美とは不変なものなんだろう? 人は死ぬ」

「ああ。けれども、人間の熱……生命の根源は一つの大いなるものに帰すると思う。僕と君とは完全に別個の存在ではない。自己に潜む他者の熱が、僕を孤独にさせない。さらには、まだ見ぬ美を憧憬させる」

 つまり、人類とは、自他を超越して熱を共有する存在であるが故に、孤独と感じることはない。その自覚が自他の内部に、さらには、植物や変哲のない石にさえも、静的な実存を見出させるのだと彼は説いた。

「――それが憧憬、愛すること」

 私は眩しさに目を細めた。彼の背後には、岸辺の若い葦が伸びて、風に揺れてはクウェンツ湖のきらめきを、複雑にさせていた。

「……愛するとき、心はどんな状態だね?」

「静止している」

「行為としての動的な働きはなく?」

「ああ、受容だからね」

 肯定に基づく優しい微笑みがあった。私は、考え込むような顔を作って見せて、目を瞑った。愛が性欲の見せる幻影だとしたら、それは静止と対極のところにあるだろう。

 私にとって、恋愛の高揚や焦燥は、それすらもスリルとして楽しめるものだったが、彼の語る愛はそんな浅ましいものではない。異国の港の街明かりを見て、その下で暮らす人々――例え、長い人生の線上、一瞬近付き合っただけの存在にさえも、慈しみを覚えるような普遍的な人類愛だ。そんな神のような超然たる愛は、尊大にすら感じられた。

「君は、自分の愛には大層な価値があると信じているようだね」

「関口くんは、自らの愛には大した価値がないというのかい?」

 澄んだ目に見られては、反論する気にもなれず、私は降参を示して大の字に仰向けになった。彼にとって愛することが、静かなることらしいとだけは、記憶に刻んでおいた。

 風のない昼下がりに、薄紅の花弁は自重に任せて萼を離れ、ひらひらと舞い降りる。彼が小さく欠伸をして、微睡まどろんだ声で言った。

「生命力とは、美しいものだね。……生きるとは善いことだ」

 雀より一回り大きな小鳥が枝に留まり、白く丸い腹を揺らしてさえずった。枝から枝へと飛び移るたびに花弁が落とされ、最後、力強く飛び去ったとき、私たちに向けて花吹雪が降り来た。私は美しいと思いながら花弁に降られていたが、口に出してしまっては、自らの欠乏を思い知らされるような気がして言えなかった。

 神谷くんを見れば、眼鏡を掛けたまま安穏とした寝息を立て、身体全体に花弁を受け止めていた。

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