林檎への憧憬
小鹿
第一話
「僕はきっと善く生きるよ」
厚い眼鏡の奥で目尻を下げて微笑む神谷くんは、着飾らず、煙草を少し買う他は目立った遊びをしない清廉な男だった。
彼は、同時に、美を求める多感な芸術家気質でもあった。能書に通じ、詩歌を好んだ。滅多に見せなかったが、唄や仕舞いも上手かった。一見、華奢な趣味人に見えるが、放蕩なことはない。善く生きることと、美に想いを寄せることとは、彼の中で矛盾がなかった。
イギリスからの復路、ポートサイドに停泊したとき、私たちは、夕日に染まる湾を見下ろしながら、デッキに並んで煙草を吸った。鴎の鳴き声と波音の中で、彼は、戦争とはなくならないものだろうかと尋ねた。街で手に入れた新聞には、ドイツ帝国のUボートが英国巡洋艦を何艘も沈めたと報じられていた。
「なくならないだろうね、抗争は人間の本能だから」
「争う事は人の本能なのかなぁ」
「奪ってでも自分が有利に生きよう、そんな本質的な欲の表れじゃないのかい?」
「
「そりゃあ、生存と繁殖だろう。生きよう、自分の種を残そうとする無意識が欲として現れる。生きんとする意志だ」
生きんとする意志とは、そのままショウペンハウエルの言葉だ。私の模範的でつまらない返答に、彼は首を傾げながら、船縁に両肘を着いて、ゆっくりと煙草を吸い込んだ。
「僕、人が本質的に求めるものは、美なるものだと思う」
「え、美しさ?」
予想外にロマンチックな答えを得て、私が思わず笑うも、彼は動じなかった。
「僕らが確かに認識できる存在には全て、始まりと終わりがある。もし、この世に不変的なものが存在するとしたなら、それこそが美だと思うんだ」
「美とは何だね?」
「静的な実存だろう。神や仏と理解される存在、かな」
肉体をまとう限り、人間はそれに触れ得ない。しかし、稀に生きながらにして美に近付く者がいる。仏陀や
「死とは、肉体から魂が離れることと仮定しよう。生者には得られない状態だ。ところがね、魂は一時的に肉体から切り離されることもある」
「つまり、芸術や祈りに没頭するとき?」
「そう。美への欲求は、魂を死の類似状態に到らしめるんだ」
「それが、人の本質的に求めるものかい? ならば、人の本質的な欲は、死という不可逆の向こうにある美を求めるものとなる。つまり、心が死に向かって憧憬を抱くことになるじゃないか」
「うん、憧憬。生の果てに死がある。身体と生の意志は死を知らないが、心は死を終着点として
丁度、岸辺のモスクから、礼拝の時間を告げるアザーンの声が聞こえた。波音に乗り響く豊かな低音。彼は制帽を取って目を閉じた。
「善いね」
神谷くんは、故郷から遥か一万キロも離れた港町を、懐かしいような声音で受け入れた。彼の言う通り、魂が一時的に肉体を離れていたのだろう。私は彼が帰ってくるまで煙草を吸って待った。不用意に干渉して彼の肉体だけを動かしては、彼の魂が帰る場所を見失ってしまうような気がした。
帰国しては、私は彼を遊郭へと引き連れた。彼は毎度、女をまだ知らない中学生のように嫌がった。哀れで抱けないと言うのだ。
「馬鹿だなぁ、神谷くん。哀れだと思うんなら、金だけでも落としていってやれよ」
「関口くんこそ馬鹿だ、本当に飽きないんだもの。色事にふけるのは良くないぞ」
「何を言うかね、二十三歳の男子が。せっかく陸に帰ってまで禁欲生活なんて。俺は坊さんを友達に持った覚えはないぜ」
「二十五歳なら、そろそろ落ち着いてほしいころだけどねぇ」
文句を言いつつも、座敷に上がれば、彼はそつなく女と話した。酒も飲まず、手も握らないが、人と話すこと自体は好きなようだった。
寮への帰り道、おでんや焼き鳥の屋台に寄っては酒を飲む私を、彼は引っ張って歩いた。仕舞いに私の足が覚束なくなるので、腕を肩に回してくれた。決まって長々と説教がなされるが、私は真面目に取り合わなかった。
「大体なぁ、神谷くん。君は自分を博愛主義者なんて言うが、女一人、愛してみせれなくてどうするんだよ」
「遊びで満たされる欲は性欲さ。愛じゃない」
「愛は性欲が見せる幻影さ」
「そんなこと言ったら、博愛主義は無節操な性愛主義者に聞こえるだろう?」
「おお、良いなぁ。一度、君が女に溺れて形無しになる姿、見てみたいよ。神谷くん、あのね、愛ってのは溺れて初めてその全容の一片を理解するものさ」
「僕が愛を知らなければ、今ここで君を捨てて帰っているさ。ほら、ちゃんと歩きたまえよ、寒いんだから」
わざとらしく溜息を吐かれようと、彼が絶えず微笑んでいることは知っていた。彼の口調に確かな愛を感じるからこそ、重ねてからかってしまうのだった。
愛とは何か。繰り返しなされた議論も、絶えて交わりはしなかった。香港にて停泊中のことだったろうか。夜の甲板に降りて、山裾にまで続く街明かりを指差しながら、彼は言った。
「僕はあそこ、あの明かりの下にいる人々を愛したいと思う」
その目は光り、また濡れていた。彼以外であれば、旅愁からセンチメンタルになっているのだと聞き流すが、彼の場合、本当に見ず知らずの他人さえも愛してしまう哲学を持っていた。それは何も、彼のオリジナリティなる哲学ではない。彼の根底には、やはりショウペンハウエルがあった。
生きんとする意志に支配されたエゴイスティックな自我。自我からの解放とは、自死を選ぶことではなく、自他の境界を解くこと。他者の苦しみを自己の苦しみとする慈悲の心なのだ。
一方で、生きんとする意志の支配を克服し、究極には「解脱」を説くショウペンハウエルと異なり、彼はもっと単純に、現実世界を構成する人やものを愛していた。
豪州航路は特に気に入ったらしい。寄港のたびに下船して、現地の女から果実を買い求め、美味しければ私にも食べさせた。白浜に座っては夕日を見送り、デッキに寝転がっては十字星を見上げ。雲一つない南太平洋の黎明に、讃美歌を口ずさんだ。
「美しさの前には、平伏したくなる。日頃、多くを考えようとも、美を前にしては論証も分析もいらない。ただ、美しさとそれを受け入れる心に感謝があふれるんだ」
私は、静かな幸福感に満ちる彼を隣に感じていた。私だとて風情は理解するが、感受に留まるのみで思想へと飛躍はしない。彼の哲学に私を照らせば、私はエゴイスティックで即物的で、生の衝動によってのみ生かされている個体にすぎないだろう。
思想において、私たちは全く相入れなかった。それでも、彼は私の内部を改造しようとはせず、無理解を受け入れた。私も彼の理想主義を批判しなかった。彼は浮世離れしたところがあって、そこが面白く、しかし、僅かに未知の恐怖のようなものも感じさせた。
戦争は激しさを増し、Uボートは、商船にまで攻撃を加えるようになった。大正四年の末、日本郵船に属する船がポートサイド沖で沈められたことを受け、欧州航路は、地中海を避けて希望峰を迂回するルートに変わった。航海は危険を極めたが、船は運航され続けた。
大正六年、宮崎丸がイギリス海峡で襲撃に遭い、沈没したという報せを直前に聞かされながら、私たちは横浜を出港した。
九月二十六日。常陸丸はセイロン島のコロンボ港を出て、インド洋上にあった。船尾には自衛用の四インチ砲が据えられ、マストには常に乗組員が登って哨戒に当たった。
事務方である私は、港を離れれば仕事は少ない。屋上のテラスでのんびりと煙草を吸っていた。白煙は、煙突の黒煙に浮かび、青空へ昇る。このまま無事に着いてくれるように祈りながら、煙草を消そうと足下に捨てたとき、船が轟音と共に大きく揺れた。
大時化よりも激しい揺れに、私は立っていられず、背中からデッキに転がった。マストの上の乗組員が、柱にしがみつきながら後方を指し、砲撃だと繰り返し叫んだ。
船体は大きく傾きながら、砲撃を避けようと目一杯に旋回した。客室からは叫び声が挙がり、廊下は逃げ場もない客員たちで混乱する。私は攻撃の主を確認できないままに、操舵室へと這った。
狭い室内では、航海士長が最大に舵を取り、船長が伝声管に向かって何やら叫んでいた。神谷くんを含む航海士が海図を囲んで言い合っている言葉を拾い聞くに、イギリス商船を装ったドイツ艦からの砲撃を受けているようだった。
船尾から爆発音と激震が起こった。砲弾が当たったらしく、黒煙と炎が上がって見えた。指示を求める客室係員たちや、応戦を求める乗客が押し寄せる。私は押し入られないように、入り口を守ることくらいしかできなかった。
「――注目!」
伝声管の蓋を荒々しく閉めた船長が声を張った。
「降伏だ! 神谷、後方と連絡が取れん。迎撃はするなと伝えに行け!」
「はい!」
彼が操舵室を駆け出た。船長は他の航海士へも、機関室に行って機関を止めるように命じた。無線室が破壊されて、降伏の電信すら打てないのだ。
「ともかく、ボーイたちに伝えろ、乗客を救命ボートに――」
爆発音と衝撃によって、船長も私も床へと投げ出された。入り口の人垣越しには、不安定に傾いた煙突が黒煙に燻されていた。
「関口くん……」
床に手を着いたまま拳を震わせる船長が、低い声で私を呼んだ。
「君、ドイツ語だったな? 名簿、揃えて持って来なさい」
やがて、常陸丸の機関は止まった。砲撃から十分の出来事だった。
百名余りの乗客は、砲撃被害の少ない前方のデッキへと集められ、順次、救命ボートへと乗せられていった。沈没を恐れ、捕縛を嘆く声であふれていた。私は乗客乗員名簿を携えて船長の後ろに控え、敵艦からやって来る小舟を待った。
客室棟の廊下では、乗組員が怪我人の救助に走っていた。意識を確かめるように何度も呼びかけられる名前の中には、神谷くんの名もあった。私は振り向きそうになる身体を抑え、デッキへと上がって来たドイツ海軍の大尉を迎えた。
常陸丸は沈められ、私たちを収容した仮装巡洋艦は、大西洋を北上した。連合国の包囲網を掻い潜るために迂回航路を取ったので、五ヶ月以上もの船旅となった。
極寒の海を行く船内で、私たちは倉庫に寝袋を並べ、身を寄せ合って耐えた。神谷くんは、連絡に走った後方の甲板の上で、着弾の爆発を受けたという。船体の破片が彼の右の脇腹を貫いていた。生命に別状はなく、養生すればじきに回復していた傷だったはずだが、船内には十分な医療がなかった。寒さと粗食。神谷くんの体力が奪われていく様を、私は側で見ていることしかできなかった。
彼は、青い顔をして眠っていることが多かったが、目覚めたときは、寝袋の中から私に話しかけた。
「関口くんが小学一年生のときの話を聞かせてくれたまえ」
提示されるお題は思い出話が多かった。夏祭で何を買ってもらったか。小さいころの将来の夢、お気に入りだった玩具。一番古い記憶。その他にも、日本に帰ったらしたいこと、訪れたい名跡など、気の明るくなる話を求められた。
彼もまた話した。
「――それで、その友達のお祖父さんが、僕たちを縁側に呼んで、お話をしてくれた。御一新のころから国学の塾をされてた方でね。そのころには、もう門人はほとんどいなくなっていたけれど。大和心を知りなさいって教わったんだ。それは、美しいものを美しいと感じる心だ。僕たち、二人で美しいものを探して歩いたよ」
眼鏡を外した彼は、夢想を写した目で宙を眺め、かじかむ指先を掲げた。
「夕暮れの真っ赤な空に、橋脚がこう……重なって黒く浮かび上がるんだ。その間を、川の流れに逆らって、小舟が上り行く。波紋が扇形に広がりながら揺れて、きらきら反射するんだ。あれが美しい、これも美しいって、一つずつ指しながら……」
良いと思ったものを共有する喜びがあった。たまには同意に至らないこともあったが、何故それを美しいと思うかと言葉を尽くして述べられると、次第に美しく見えるようになったという。知的で極めて情緒的な交流が、その友人との間にはあった。
「川にはね、ほのかに磯の香りが立つんだよ。海はずっと遠いのにね。どれくらい遠いか尋ねられて、半日くらい掛かったと答えたよ。そしたら、遠いから行けないねって。……あのころは海が遠かった」
「君は小さいときから海が好きだったのかい?」
「うん、好きだ。船が好きだ」
目を閉じて微笑む彼の顔は青白く、唇は乾燥していた。真冬の北海を沈没に怯えながら、手負いの身体で漂流しているというのに、彼の穏やかさは侵されることがなかった。
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