第23話(最終話)作家集団の時期の思い出箇条書き
最後に、作家集団にいた時期である2019年9月頃~2021年9月頃の間に起こったで、これまで書いてこなかったことを箇条書き形式で書き記していく。
これが最後になるのでどうかお付き合いの程よろしくお願いしたい。
・『シノプシス』で羽を伸ばす。
シノプシスは作家集団になると与えられる課題の一つで、2回に一度はこの課題となる。シナリオは柱、セリフ、ト書きから成るが、シノプシスはかいつまんで言うと"あらすじ"である。つまり、ペラ60枚のシナリオなら尺は強制的に30分ぐらいだが、シノプシスだとどれだけ長い話でもあらすじとして収めることが出来る。それが私にとっては非常に取り回しのしやすい課題であった。元々、ゲームの他にも小説などを書きたいと思っていたから、小説一冊分の分量をあらすじとしてぶち込めば、オリジナル小説として作った物語も講評してもらえると思ったからだ。そしていざ発表してみたら、「小説っぽくてドラマっぽくない」という意見を多数もらった。そりゃそうだよ。小説のつもりで書いたんだから。子どもじみたことをしてしまったが、余計にシナセンを離れたくなった。
・先生との関係
私の場合は研修科から先生は引き続きだったのだが、べた褒めされたことはほぼない。一定の思いやりはあるし、多少は認めてもらえていたが、基本手厳しい方なので、逆にそれが気に入っていた。いつか先生が文句のつけようもない作品を書くことが私の目標になっていた。
その目標は作家集団で一番初めの課題のときに叶った。課題は【トキメキ】、内容は、中学生の男女4人組がいて、お互いが好いている人が別の人のことを好きというなんとも言えない四画関係を描いたものだった。クラスメイトからはおおむね酷評をいただいたが、先生だけは、『今まで見てきた作品の中で一番だった』『人物描写、絵の見せ方、展開、テクニックすべての要素が非常に技巧に富んでいる』『この調子で書き続けてほしい』などのお褒めの言葉がA4用紙2枚分にビッチリと書き込まれていた。嬉しくて、その講評を拡大印刷してしばらくベッドの枕もとの壁に貼り付けていた。先生には感謝していて、頂戴した教えはこれからも大切にしていきたいと思っているし、これからも年賀状ぐらいは出そうと思っている。
・駅問題
滋賀県長浜市の実家から通っていた頃、以外かもしれないが長浜駅よりも隣の町である米原駅を利用した方が何かと利便性が良い。なぜなら長浜駅の周辺は駐車場代が高いのだ。黒壁という観光市街地があるせいで、駐車料金が軒並み高い。それであれば米原まで足を延ばした方が駐車料金は安いし、格安チケットの自販機はあるし、そもそも大阪に近い分電車代も節約できる。だからわざわざ車で米原まで向かって電車を利用していた。
しかしながら作家集団の途中で私は車を廃車にせざるを得なくなった。シナリオの勉強のためにアルバイトは最小限しか入れていなかったし、そのバイト先も歩いて1分のところにあるし、そもそも車自体が従兄弟から5万円で譲り受けた10年落ちのパッソだったのだ。徐々にガタが出始めて、冷房がつかなくなり、台風でサイドミラーは粉砕され、パワーウィンドウまで壊れ、恐らく市内で一番ボロい自動車に乗っていた。
そうなるとシナセンに通うだけでわざわざ長浜駅まで片道40分かけて歩かざるを得なくなった。余計にお茶の席に長居したくなくなった。
ちなみに昨今のコロナ禍によるJRの減便の煽りを受け、快速が一時間に一本まで減らされ、大阪まで30分以上時間がかかるようになり、格安チケットのブースが閉まってしまった。そこまでして通わなくなって、本当に良かったと思っている。
・コロナで更に足が遠のく
私が作家集団に進級してからほどなくして例のウイルスが蔓延した。町一番のお祭りに訪れる観光客数が、梅田一駅の一日の乗降客数にも満たないような小さな町と、大阪との感染者数は比べるまでもなく、かつ私は当時介護施設に勤務していたので、いくら将来の夢のために勉強しに行くといえど、例え月に1,2度とはいえヒヤヒヤしながら大阪へと通学した。コロナは私にとって、シナセンを余計に遠ざける傾向へと作用した。
・バイト遍歴
作家集団になるまでに何らかしらの賞を取りたいとか、ゲーム会社に就職したくて躍起になっていたが、それには理由があり、2019年の冬をもって竹生島金策なるものが限界を迎えるからであった。毎月10万近く貯金できるスキームを失い、その後は貧しい日雇い労働や最低賃金ギリギリのバイトに身をやつさねばならなかった。
2019年春~夏
竹生島改修工事第1期と第2期の間に行っていたバイト。
1、食品加工工場での日雇いのバイト
とにかく大量の商品にならないメロンなどの皮を旋盤が回転する機械にぶっ刺して、デカい皮むき器みたいなもので毎日2,300個は皮をむき、包丁で刻んで、すりつぶしてジュースにする。もしくは野外でレモンの皮的な物を大鍋で煮込んで、その汁を抽出して加工するみたいなことを延々とくり返していた。メロン荷重はミニストップのアイスクリームの原料に、レモン果汁は宝ハイボールの焼酎になると聞いた。
2、倉庫でビール運び
リカーマウンテンという地元発祥の大手ディスカウント酒屋の倉庫に日雇い労働に出ていた。畳二畳より少し狭いパレットの上にビールケース12個ぐらい並べて、それを10段ぐらい積んで出荷する作業を7,80回ぐらいくり返すことで一日が終わる。もちろん積むのは全て手作業である。それで日給6000円であった。身体がくたばりすぎて、一日働いたら次の日は動けなくなる。本当はこんな仕事受けたくないのだが、田舎なのでそんなバイトしかありつけなかった。お盆などの時期に入ると酒がよく売れるとのことで、深夜までそんな仕事をさせられた。世の中の呑気に酒を飲んでいる飲兵衛全員を恨んだし、この世から酒が無くなればいいと思いながら働いた。朝9時から働いて日付が変わっても帰れなかったことがあり、もちろん晩飯なんて食べる時間がなかったので、事業主が夜食にと与えてくれたのが、100円のハンバーガーとコーラだけだった。
あまりの仕打ちに、コンクールに出品したり求人に応募する度に、「ここで成功しなきゃ、また来年もあの倉庫で延々とビール運びだぞ!」と自らの尻を叩く発奮材料にさせてもらった。30歳を超えてもそんな仕事をしているのが辛かった。帰る時に、前述の冷房の効かない車を走らせながら、Queenの『Somebody to Love』を半泣きで熱唱するのが日課となっていた。
3、平和堂の冷凍室
滋賀県が誇る一大デパートチェーン(笑)平和堂の荷下ろしセンター的なところで働いていたこともあった。ミンチ用の食肉をより分けたり、冷凍やチルドの肉を延々と別の場所に台車で移し替えたりしていた。その施設自体が5℃ぐらいでずっと寒いのだが、たまに―30℃ぐらいの極めて寒い冷凍庫で作業させられていて、まつ毛がパリパリ凍り付くし、「おお、ここが北極ぐらいの寒さの世界なのか」と面白がっていた。死の感覚が体にぴったりと寄り添う感覚がして、生きていることがよりリアルに感じて新鮮だった。静かで滅多に人が来なかったので、たまにしゃがみ込んでそこでサボったりした。ボーっと過ごすだけでも満足だったが、もし眠ってしまったなら助からないと思う。
2019年冬~2021年3月
自宅から徒歩1分の高齢者サポート付き住宅なる老人ホーム的施設で介護士として働いた。ただ近い、そして暖房と冷房が効いているというだけで選んだ。今でも部屋のカーテンをめくれば施設が見える。
今までさんざん肉体労働的なものをやって来たから余裕だろうと思っていたが、たしかに肉体的には大丈夫だったけども、精神的に何かとキツかった。別にお爺さんおばあさんのオムツやお尻を拭くとか、ポータブルトイレの処理をするとか、お風呂に入れるとか、汚れ仕事などは何てことはない。ただ、認知症の人の世話は非常に大変で、パジャマを着せ替えても暴れられたり、捕まるたびに持っていない財布を盗られたから探してくれだの、出してくれと玄関や裏口のドアを叩かれたりするだの、パンチを顔面に二発立て続けにもらっても(ついヘッドバットで反撃しそうになったが)グッと堪えなくちゃならなかっただの、そういった理不尽なことへの対処が何よりも大変だった。日本は少子化よりも高齢化の方が問題だと思う。あの人たちの面倒を見るのは、赤ちゃんよりも大変そうだ。
そしてそれと同等、またはそれ以上に大変だったのは、職場に形成された中年女性たちの園への対処だった。何かと文句の言い合いや監視がとにかくキツく、私としては、「他人の仕事ぶりなんてどうでも良くね?」と思うのだが、とにかく細かい人は細かく、イチイチ目くじらを立て、その人なりの正論を振りかざし、私的なグループを作って徒党を組み、誰かしらを居づらくさせていく。私はまだ比較的可愛がられていた方だったのだが、可愛がられるようなポジションに入らないと本当にターゲットにされるのは勘弁だったので、そういった仕事以外のプレッシャーが私の精神的な耐久力をゴリゴリと削っていった。
しかしながら、仏壇職人をしていたのと神社仏閣を直していたので、私にとってはお爺さんおばあさんは身近に感じる存在だったし、手先が人より器用だったので工作を手伝ってあげたり、そういった準備するのにスタッフからも重宝されていたし、マンガの練習をしていたのでレクリエーション用の貼り絵の下絵を作ったり、お爺さんおばあさんが誕生日の際には色紙に凝った絵を描いてプレゼントして喜んでもらえたり(東京の芝に土地を持っていた財産を作ったお爺さんのために描いた、『東京タワーから東京駅、秋葉原、両国、神田、本郷、上野鳥瞰図』は今でも記憶に残る力作である。私が辞めた三日後に亡くなられたとのこと)、バス観光旅行の添乗員をしていたので丁寧な接客ぶりを褒めてもらえたし、シナリオライターを目指しているぐらいだから歴史や戦前の風習とかにも興味津々だったからお爺さんたちから戦時中に国鉄や工場で働いていた折に爆撃を受けてその復旧に力を尽くした武勇伝だとか、おばあさんたちから女学校での暮らしや職工時代の話などを聞いたりして、私も嬉しかったし向こうも有難がってくれたので、私の強みが包括的に活きる仕事だったので、シナリオライターの仕事を始めた頃、しばらくは兼業で続けてもいいなと思えるような仕事だった。(厚生年金や雇用保険も払ってもらえるし)
しかしながら2020年のコロナ禍から介護職には特別助成金的なものが毎月の給料に上乗せされるようになったのだが、私の給料が県の最低時給を下回っており、そこに助成金を乗せて時給900円とか言われたので、「一年も働いてこれですか?」と施設長に尋ねたところ、「うん。そうだよ」と言われたので、本当はパンチの一つでもくれてやりたかったがよして、笑顔で辞めてやった。
そんな職場だったが、夜勤をすると2,3時間は自由になる時間があり、その時間を利用してゲームを作ったり、シナセンの課題やコンクール、ライターズバンクへの応募作などをこしらえることが出来たので、介護の仕事をしていたからこそ3年でデビュー出来たのかもしれないと思うと、多少は有難かったかなと思う。今となってはもう介護の仕事はゴメンだが……
・クラスメイトからのアドバイス
前回、割と作家集団とクラスメイトに批判めいたことを書いてしまったが、不愉快な思いをさせられたとかそういうわけではない。むしろ何度か助けてもらったこともあった。
まずクラスメイトとのお茶会は、最終的には私にとって苦痛なものへと変わっていったが、誘っていただいた当初は嬉しかったし、そこそこ楽しむことも出来た。何よりその頃の私はまだ何者でもなかったので、そのお茶会に参加してシナリオについて語り合うことこそ、自分がシナリオライターの卵であるという自己確認に繋げることが出来て、厳しい生活を送る中、微かであるが私の心の支えの一つとして機能していた。
その他、印象に残っていることとして、初仕事の最中に少しクライアントに失礼なことをして(シナリオの修正のために取引先へ赴くことになったのだが、交通費と日当を請求した)「怒らせちゃった。ヤッバ~い」みたいなことを私が呟いていたらクラスメイトから、「とりあえず菓子折りでも送っとき」などと、ビジネスマナーなど全然知らなかった私に色々アドバイスをくれりした。結果、取引先の怒りは治まったのかどうかよく分からないが、後日、菓子折りのお礼だけはメールで届いた。
他、私の課題は色々酷評されたりもしたが、中には「この作品は歴史に残すべきやで。そのぐらいのポテンシャルを持ってるわ……書き直したらええねん」みたいなことを言われたりして、今でもその言葉をちょっと大切にしている。
(その人が身内の介護をしていたから余計に気に入られたのかもしれない。褒めていただけた作品はいずれも介護施設で働いているときに思い浮かんだ話であった。一つは、失語障害に陥った少女が、自らアプリを開発して声を取り戻すという話と、もう一つは、身内がいなくて介護施設に預けられたお爺さんが、コロナで外出制限をかけられている中、何かと難癖つけて入居する老人たちの権利を制限しようとする施設の人間から、尊厳を取り戻すために闘う、という話だった)
・未経験からシナリオライターを目指す方へ
このシリーズをご覧になられた方の中の一定数は、シナリオライターになりたいという夢を持っている方がいることだろう。なのでこれから私は現実を突きつけ見たいと思う。それでもフリーランスのシナリオライターになりたかったら、一年目はこんなものであると覚悟してほしい。企業に雇用されるような超正統派のシナリオライターの暮らしぶりは、私は知らない。
私のシナリオライターとしての一年目の売り上げが
2月 45,280円
3月 142,241円
4月 165,000円
5月 0円
6月 120,725円
7月 60,610円
8月 55,000円
9月 115,500円
10月 137,216円
11月 17,500円
12月 だいたい4万円ぐらい
である。分かると思うが、実家暮らしでなければとてもやっていけない。
ムラがあるのは、実績が公表出来るようになるまでは営業が出来ず空白の期間が出来たこと。営業をしたとしてもなかなかお客さんがついてくれなかったこと。納品が月を跨いだため、支払いがバラけたこと。早く原稿を提出してもクライアントの返事が2週間後とかになってしまって支払いがずれ込んだりしたからだ。しかしそれを鑑みても給料水準は低い。今年は年頭からスケジュールがビッシリ埋まっているし、良いクライアントも何社か付いてくれたし、流石に上記のようにはならないと思うが、それでも私と同じ年代の平均年収と比べるとその半分近くの額で生活せねばならない。それでも、「まだ仕事があるだけマシ」という思いと、私に仕事を与えていただける感謝の気持ちと、その分期待に応えているという充実感で何とか乗り切っている。
もしそれなりの収入があって大きな不満のない仕事に就いているのなら、少なくとも軌道に乗るまではシナリオの仕事は副業程度にして自分を試した方がいい。私は他に失うものがないから捨て身でシナリオライターの世界に飛び込んで、やっと軌道に乗せることが出来た、邪道的存在なのだ。そしてこれでも運のいい方で、恐らく初仕事を終えてもすぐに次のクライアントが付くなど稀なことである。私の場合は初仕事を終えてからひと月以内にあるシナリオ制作会社さんの目に留まり、それからずっと切れなくお仕事をいただけているので、本当に幸運だったのだと自覚している。
・最後に
さて、これで酸いも甘いも、清濁併せもって言いたいこと全てを言いつくすことができた。(どうしても公言できないことは除いて)
こんなに何も気にせず駄文をつらつらと書き綴ったのは本当に久しぶりである。書くという楽しみを改めて実感し、存分に味わわせてもらった。三が日も過ぎ、これから珠を磨くような繊細な作業を要求される、商業シナリオの世界に戻らなくてはならない。年頭に腹に抱えたものを全て吐き出すことができてよかった。
これを読んでくださった皆さんは、私の吐き出したゲロのような駄文を浴びた、尊い犠牲者である。誠に申し訳ないと思っている。だが『他山の石』という諺があるように、このような何の役にも立たない駄文の中からでも、あなたの創作活動や人生において何らかしらのヒントを、あなた自身が見出してくれるかもいれない。またはこんな男を……人生散々な目に遭っても愚直に夢を追い、なんだかんだ上手くやって、調子乗って訳わかんないことを公然とまくし立てる変質者を見て、引いたり笑ったりしてくれても構わない。負の感情であろうと何であろうと、私の綴ったものであなたが何かを感じてくれれば私は満足である。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
またいつか、(一部の人の目には決して触れてほしくない内容なので、実現性は薄いのだが)第一話以前の家業から逃げて大阪に出て行ったキッカケとなった話などを、このような汚物のような駄文形式で書き残せればいいなと思っているので、期待してくれると嬉しい。
シナリオライターになるまで【シナリオセンター大阪校思い出語り】 カバかもん @KabaKamon
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