福子の証言 四

 枯司堂はクジョウさんが商いをしていた橋から少し歩いた先の角を曲がり、大きな通りに面してありました。昼間ならたいそう賑わいそうな場所でしたが、さすがに夜更けでは猫一匹すら歩いておりませんでした。広い通りのガス灯が弱々しく思えて、かえって心細く思いました。

 クジョウさんは店の横にある細い通路を歩いていきました。彼女は細身でしたから、難なく通れましたが、私には少し窮屈でついていくのがやっとでした。

「開けとくれ」

 クジョウさんが店の勝手口に向かって声をかけると、引き戸の隙間から明かりがこぼれ、ゆっくりとそれが開いていきました。

「一体、どうしたってんだ。……あん?」

 店から顔を出したのは、あごが細長くて、まるで唐辛子のような顔をした男性でした。枯司堂の名前の由来が分かった気がしました。乱れ放題の髪の毛を無造作に結い上げ、口元にもあごにも髭を蓄え、見るからに不思議な人でした。

「カラシ、お前さんのお客人を連れてきたよ」

 クジョウさんが私を店の中に招き入れると、カラシさんは私の顔をまじまじと見つめました。

「俺ぁ、知らねえ顔だぜ?クジョウ」

 細長いあごをさすりながら、カラシさんが片眼鏡(モノクル)を顔に引っ掛けました。そして、首をかしげつつ私を小さな椅子に座らせました。薬草や、茶葉、香辛料など色々な瓶が入った戸棚に囲まれ、私は少し緊張しました。どれもこれも、日本語で書かれたものが見当たらなかったからです。何やら怪しげな動物の置物までありました。

 クジョウさんが笑みを浮かべながら、細い指で私の着物の袂を指さしました。そこで、私もようやく我に返り、横川さんから預かった雲日様の薬袋を取り出したのです。それを見ると、カラシさんは一瞬で何かを悟ったように、大きくうなずきました。

「雲日の屋敷の人間だったのか。こんな夜更けにやって来るたぁ……ご主人様は症状が良くねえのかな」

 私は、雲日様が苦しそうに咳き込む姿を思い出し、胸が痛くなりました。

 その時です。店の奥、二階に向かう階段の上の方から誰かが激しく咳き込む音が聞こえました。私は、一瞬雲日様かと思って驚きましたが、まさかそんなはずはありません。それに、雲日様よりもたいそう長く激しい咳き込み方でございました。

 私がそちらに目を向けると、クジョウさんもカラシさんも二階の方が気になる様子でした。

「……眠れないのは可愛そうだね。カラシや、薬を出してくれるかい。このクジョウが飲ませてくるよ」

 クジョウさんはカラシさんから薬を受け取ると、暗い家の奥に消えていきました。まだ二階からは咳き込む声が聞こえてきます。私は横川さんから聞かされた、二階に住む火薬技師の人を思い出しました。もしその人なら、爆弾はおろか小さな線香花火ですら作れないのではないかと思うくらい、身体を病んでいるのは明らかでございました。

 私が二階の方をじっと見ていると、近くにある小さな棚の上に、カラシさんが珈琲を置きました。深い香りが店内に広がります。

「驚かせちまったかな。まあ、心配すんな。発作みてえなもんだから」

 カラシさんは木箱の上に腰を掛けると珈琲をすすりました。私もとても喉が渇いていたので、緊張しながらも珈琲をいただきました。とても深くて爽やかな風味に、私は思わず美味しいと口に出てしまいました。カラシさんは口の端を持ち上げて笑うと、黙ってそのまま珈琲を飲んでいらっしゃいました。

 天井からは外国の照明が吊る下がり、足元にも置き方のランプが転がっていました。クジョウさんが持っていたランプと同じものも見つけました。どれも暖かな光で、雑多な店の中に様々な影を浮かび上がらせていました。

 一体どういう人たちなのだろう、私はようやくその想いに達しました。今まで親切に色々としてくださった方々に失礼とは思いましたが、やはりクジョウさんもカラシさんも不思議で仕方なかったのです。

「おめえさんの名前は?クジョウの占いで凶相でも出たのか?」

 カラシさんは足を組んで口元の細い髭をいじって言いました。凶相という言葉に、私は少しだけ背中が寒く感じ、身体を抱えるようにしてうなずきました。

「私は苅間福子と申します」

「苅間っていやあ、ちょっとした名家じゃねえかよ。雲日の使用人じゃなさそうだな」

「はい……。ただ、私の家はもうお爵位もないので……。女給と芸者の真似事をして生計を立てておりました」

 その時、どういうわけか私の目からポロポロと涙がこぼれ落ちました。父の失踪から、今までの労苦や篠田に強いられたことなどが頭の中を駆け巡り、急に心細くなってしまったのでしょう。私は着物の袂に顔をうずめて、カラシさんの前だというのに大泣きしてしまいました。

「おいおい」

 カラシさんは慌てて私の前に膝をつき、たいそう困った顔で笑いました。

「勘弁してくれや。クジョウに怒られちまうじゃねえかよ。辛いこと思い出させて悪かったな」

 私は首を横に振りました。

「ごめんなさい。私が悪いのです。私が馬鹿で世間知らずだから皆さんのご厄介に……」

 カラシさんは泣いている私の手をとって、桃色の飴玉を乗せました。

「なるほどなあ。華族のお嬢様が散々な目に遭ったってことかい。まあ、これでも舐めて心を落ち着けな。ガキの菓子なんて食い飽きたかもしれねえけど」

 カラシさんは小さくため息を吐きました。私もいつまでも泣いているわけにいきませんから、いただいた飴玉を口に押し込んでじっと涙がこぼれるのを耐えました。

「凶相、か」

 カラシさんがもう一度その言葉を口にしたとき、私は意を決して、カラシさんに詰め寄ったのです。

「確かに、先ほどもクジョウさんから凶相が出たと言われました。今宵起きたことは全て忘れて、この町すらも出た方が良いと……一体どういうことなのでしょうか?」

「あの白髪の占い師は、それしか言ってねえのかい?まったく、意地悪な女だねえ」

 カラシさんは呆れたように笑いました。ですが、一瞬だけ何か思いつめるような顔をすると、私のおでこを突きました。

「もう平民なら、福子、で良いか?」

「はい」

「福子、俺ぁな。クジョウみたいにわかりづれえヤツじゃねえから、ハッキリ言っちまうぜ?ここに来る客にもハッキリした処方してやらねえとかえって不安になるだけだろう?」

「はい」

「いいか、雲日屋敷にはこれ以上関わならねえ方が良い」

「……」

「何て言われて召し抱えられたか知らねえが、アイツの屋敷には多くの壮士……まあ、反政府の過激派の連中が出入りしている。おめえを使って情報収集でもしようと企んでいるかもしれねえ。巻き込まれたら、警察にとっ捕まるどころか、とんでもない拷問に遭うぜ?それくらいは、わかるよな」

 私は着物の合わせを握り込むと、そのままうなだれてしまいました。すでに横川さんがお考えのことが外に知れていたのです。きっとカラシさんは雲日様のお屋敷にお薬を届けたりなさって、色々な方の話を聞いたのでしょう。いいえ、もしかしたらカラシさんも私と同じように世直しを持ちかけられたのかもしれません。

 ところが、カラシさんは思いがけないことをおっしゃいました。

「ま、おめえが奴らの考えに賛同しているなら、止めねえけどな」

「え?」

「短けぇ命だ。好きに生きて、好きに死ねや」

 事件に関わらないよう必死で説得するのかと思いきや、あっさりとカラシさんは私を突き放しました。もちろん、私自身も篠田善二を直接攻撃することに抵抗はありましたが、悪いことをした人にお仕置きは必要だと思っていましたので、横川さんたちの力になれるのは本望でございました。ですから、カラシさんが私の生き方を認めてくれたようで、どこか安堵したのでございます。

 ああ、その時でした。急に身体が重たく感じ、私は置いてあった大きな木箱にもたれかかりました。カラシさんが私の左手をとって脈を確認しながら言いました。

「少し脈が悪いな。たいして身体も頑丈じゃねえのに、無理な生活してきたな」

「は、はい……」

 身体はどんどん重くなり、眠くて仕方ありません。カラシさんが私を抱えながら、二階に声をかけました。

「クジョウやい、福子も面倒見るつもりで連れてきたんだろう?おめえが布団に寝かせてやれよ」

 二階からクジョウさんが返事をするのが聞こえたのが最後、私はもう寝息を立てておりました。

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