福子の証言 六
私は、朝食をいただくことなく、カラシさんからお薬をいただいて枯司堂を出ました。往来は人出が多く、夜とは大違いでした。実は、この場所は路面電車まで走っている町の中心部だったようです。ですが、その賑やかさとは逆に、私の心はどこか沈んでおりました。
シャッポさんがおっしゃった言葉の数々が、棘のように胸に刺さって抜けないのです。別に、怒られたわけではありません。横川さんがいう世直しを間違っていると非難されたわけでもありません。それなのに、どうしてこんなに胸が苦しいのでしょう。
そんな風に、通りの隅をトボトボ歩いていた時でした。
「お嬢さん、前を見ないとぶつかるよ」
少し笑いを含むような声がしました。顔を上げたら、ちょうど活動写真の看板が目の前にあり、私は思わず悲鳴を上げました。その役者が声をかけてきたのかと思ったのです。もちろん、そんなわけはなく、すぐそばで黒く長い洋服を着た細身の女の人が立っていました。真っ白な髪の毛は、人目を引きますが当人は何も気にしていない様子で私に近づいてきました。
「……クジョウさん?」
「間に合って良かったよ。お前さん、ここから雲日の所まで歩いていくつもりなのかい?カラシも気が利かない男だ。アレだから女にもてないんだ」
クジョウさんは、横目で何か合図を送りました。すると、コロコロと音を立てて一台の人力車が寄ってきました。
偶然にも昨晩と同じ、あの秀麗なお顔をした若い車夫です。
相変わらず無愛想でしたが、クジョウさんの言いつけには素直に従っているようでした。
「さて、行こうか」
クジョウさんはまるで体重などないかのように、軽やかに車に乗り込みました。私はやはり、車夫に手を取ってもらって、その隣に腰をかけました。クジョウさんは常に口元にほんの小さな笑みを浮かべていらっしゃるのですが、もし真顔になったらどうなるのだろうと思わずにいられないような、独特な緊張感がありました。だから、笑ってくださるのは、とても安心するのです。これは、前にも言いましたね。
私たちを乗せた車は、喧騒を抜け、静かな小道に入りました。ようやく空にも青さがのぞき、秋の爽やかな風が頬を撫でていきました。どこかから、金木犀の香りまで漂ってきます。しばらくすると、クジョウさんが煙管に火を入れながら言いました。
「カラシやシャッポは、お前さんの行動を止めなかったのかい」
「え?」
「このクジョウは、忠告しただろう。早くこの町を離れたが良いって」
勢いよく吐き出された煙に、私は思わず息を止めましたが、その煙はまるで水蒸気のように消えていきました。ほんのり、甘い香りまでいたします。
「こいつは、舶来品だ。害はないよ」
クジョウさんは、もう一度煙を吐きました。
「まあ、お嬢さんの人生だ。好きにするんだね」
カラシさんにも同じようなことを言われました。優しいようで、軽く突き離すような言葉に、私は少し寂しくなりました。
車はいつの間にか雲日様のお屋敷の近くの竹林のそばを走っておりました。私は、少し気になったことがあり、クジョウさんにお聞きしました。
「あの、クジョウさんも雲日様のお屋敷にご用があるのですか?」
「まあ、そんなところさ」
「お知り合いなのですか?」
「まあ、そんなところだね」
似たような答えが返ってきただけで、クジョウさんはそれ以上何も言わず、静かに煙管を吹かしておりました。お花のような香りが漂います。
雲日様のお屋敷の前で、人力車が止まりました。若い車夫は私の手を取りながら、クジョウさんを見つめました。すると、クジョウさんも小さくうなずき、
「ほんの少しだ。待っていておくれ」
そして羽毛のような軽さで地面に降り立ちました。私たちはお屋敷の門をくぐり、そのまま玄関まで進んで行きますと、パシャンと、中庭の池の方から音がしました。すぐそばで、雲日様が鯉に餌をあげているのが見えました。縁側には、横川さんも腰をかけていらっしゃいます。お二人はこちらに気づくと、頭を下げてきました。私も慌ててお辞儀をしました。
「福子さん、ありがとうございます。助かりました。早かったですね。どうぞこちらへ」
「はい、人力車を出していただいて――」
ところが、私はそこで口をつぐんでしまいました。
クジョウさんがどこにもいないのです。
横川さんは、縁側に座布団を一枚置きながら言いました。
「どうされました?お疲れでしょう。お茶をご用意しますよ」
私は門の外に目をやりました。もしかしたら、忘れ物でも取りに行ったのかもしれません。人力車は外で待っているように言ったのだから、大丈夫だろうとその時は思いました。
「あれ、雲日様?」
横川さんは少し慌てた様子で声を上げました。いつの間にか、鯉に餌やりをなさっていた雲日様の姿もありません。
「お手洗いでも行かれたのかな。薬も届いたことだし、やはり家の中でお話をしましょうか。今日は天気が良くて外の方が気持ち良いのですがね」
横川さんはそう言いながら、玄関の錠を開けてくださいました。私はクジョウさんの姿を探しましたが、やはりどこにもいらっしゃいません。仕方なく、一人でお屋敷の中に入ることにいたしました。前と同じ座敷に通され、私はじっと正座をして待ちました。
「わざわざ、届けてくださりありがとうございます。福子さん」
横川さんはまた同じようにお茶を持って座敷に現れました。ですが、雲日様の姿は見当たらず私は少し心配になりました。
「ところで、福子さん。枯司堂の火薬技師とは会えましたか?」
横川さんが急にそんなことをおっしゃるので、私は思わず身を固くし、すぐには言葉が出てきませんでした。横川さんが怪訝な顔をするのも無理ありません。
「福子さん、まさか私たちの計画を、その者に話してはいませんよね?」
私は背中がヒンヤリするのを感じました。シャッポさんに洗いざらい喋ってしまったことを言えば、きっとお叱りを受けるでしょう。そして、シャッポさんは、世直しはただの自己主張に過ぎないとまでおっしゃっていました。これを聞いたら、横川さんはさらに気分を悪くするに違いありません。
「あの、その……あの方は、身体を壊されて……もう、仕事はできないと……」
この言葉に偽りはございませんでした。シャッポさんはもう花火しか作れないとおっしゃっていたのは間違いないのです。横川さんは少し考え込むような顔をしました。
「身体を壊す……相当、悪いのでしょうか?」
「だいぶ咳が酷いようでした。それに……ご自分でも『もう、いよいよだ』とも……」
「肺病か」
横川さんはため息を吐きました。
「それなら、確かに火薬などの塵芥は命取りでしょう。困ったなあ」
そこへ、音もなく雲日様が廊下をやって来るのが見えました。ほんの一日しか経っておりませんのに、雲日様はだいぶ憔悴しておられ、どれほど薬が大事か痛いほどわかりました。私は手をついて頭を下げました。
「もっと早く来られれば良かったです。申し訳ありません、お加減は大丈夫ですか?」
「心配いりませんよ。だいぶ気分は良いのです」
雲日様はそう言って、小さく息を吐きました。とても、気分が良いようには見えませんでした。どこか不安気で、そわそわした様子だったのを今でも思い出します。横川さんも心配そうな声で雲日様にたずねました。
「どちらにいらっしゃったのです?お辛いようなら、もう休まれますか?」
「いや、少しなら大丈夫です」
ふいに、雲日様が私の方を見ていることに気づきました。苦しそうなお顔で、何か言いたげでしたので、
「どうされました?私に……何か……」
「ああ、いえ。申し訳ない」
雲日様は目を伏せて首を横に振りました。そして、突然、激しく咳き込みました。それはもう、そのまま倒れてしまうのではないかと思うほどでしたので、私は慌てて雲日様の背をさすり、身体を支えました。
雲日様は私の手を取り、少しだけ身を引き寄せました。その瞳の奥には、どこか思いつめたような、それでいて熱がこもったような色が浮かびました。雲日様は視線を私に向けたまま、横川さんを呼びました。
「君、こちらのお嬢さんを、どこからお連れしたのですか」
「え?淡路屋で騒動に巻き込まれていたところをお助けしたのですが……」
横川さんは少し驚いた様子を見せながらも、そう答えました。
「……騒動」
雲日様は胸のあたりを押さえながら、相変わらず私を見つめて言いました。
「それで、こんなに震えているのか。いい加減に、お家に帰してあげなくてはいけませんよ。これ以上、ここにいたら……」
そうは言われましたが、震えているのは私ではなく、雲日様の方だったようにも思えます。ただ、その時は黙って話を聞いておりました。
横川さんは、少し戸惑った様子で、雲日様に手をつきました。
「申し訳ありません。ですが……いや、すみません。私の不手際でございます」
あまりに横川さんが謝るので、私は少し気の毒になってしまいました。私は雲日様に言いました。
「私なら大丈夫です。横川さんは親切ですし、お志は……その、ご立派だと思います」
世直しの考えは悪いことではない。この世を良くしようと思うことが悪いはずがない。
でも、シャッポさんの澄んだ瞳とあの言葉も同時に蘇ります。
ただの自己主張、それで爆弾に巻き込まれるであろう人たち。
私は、何が正しいのか、もう何も考えられなくなりそうでした。
「花火」
雲日様はどこか遠くを見るような瞳でそう言いました。
「花火、綺麗でしょうね。お好きですか」
「え?」
「枯司堂さんには、花火も置いてあるのですね。ケブリが香る……」
私はハッといたしました。今朝のシャッポさんの花火から出た煙や塵が、私の衣服についていたのかもしれません。
慌てて謝ろうとする私を制するように、雲日様は軽く咳き込んで言いました。
「それにしても……」
あまりに弱々しく小さな声だったので、聞き取れませんでした。聞き返そうとすると、穏やかな笑みが向けられました。
「いえ、何でもありません。ところで、私の薬を処方したのは、薬剤師の枯司先生ですよね?」
私は正直にうなずきました。
「はい、カラシさんから手渡されました」
「そうですよね……じゃあ、あれは……」
雲日様は何か思い出すように虚空を見つめると、何かに怯えるように身体を抱えてうなだれてしまいました。いよいよ体調がよろしくないので、横川さんは雲日様を寝室までお連れしました。私もお薬を届けるという用事が済んだ以上、長居するわけにはいきませんでした。帰り支度をしておりますと、横川さんが、晴れやかな顔で戻ってきました。
「枯司堂には花火が売られている……やはり、火薬技師がいるんだな」
そして、小声で私に言いました。
「明日、実は篠田の屋敷で晩さん会が行われるのですが、その場の、余興として珍しい花火を披露しましょう。召使いも含めて、全員が外に出ている間、地下倉庫の鍵くらい私でも破壊できましょうから、あとは同士に協力を仰いで機密文書を持ち出せば――」
横川さんは、少しだけ肩をすくめました。
「福子さん、勘違いなさらないでくださいね。私は、篠田の命を狙っているわけではありません。篠田の悪事を憎んでいるのです。彼には公権力をもって罰が与えられれば良いわけですから、むやみな破壊活動が目的ではないのですよ」
それを聞いて、私はいくらか安心しました。顔に出てしまったのか、横川さんは困ったように笑いました。
「やはり、誤解させたようですね。世直しとはいっても、昔の壮士のように血を流すことが全てじゃありませんからね。時代が変われば方法も変わります。今日は、私も仕事ですので、明日の夕方……私から枯司堂にうかがって、花火をわけてもらえるようお願いしましょう。福子さんは、どうされます?一緒に行きますか」
どうしようか、考えていた時です。ふと、横川さんが不思議そうな顔をしました。
「しかし、雲日様はどうして枯司堂に花火が置いてあるなんて考えついたのだろう。いや、あそこには輸入雑貨なども仕入れているそうだから、珍しくないのかな」
それを聞いて、私は少し口をつぐみました。横川さんは私の衣服についた煙の匂いに気づいていないようでした。
「あれ」
横川さんが鼻をひくつかせ、小さく笑いました。
「福子さん、花の香袋でもお持ちですか?」
「え?」
「花の香がしますね」
「……あ」
私は自分の袖から、クジョウさんの煙管の香りが漂っていることに気づきました。もしや、雲日様はこの香りを花火の匂いと勘違いしたのでしょうか。しかし、両者は余りに違うものです。いずれにせよ、シャッポさんは病気で火薬技師の仕事は出来ないとお話ししたのは横川さんだけですし、ましてや花火を作っているなど、一言も話しておりません。
ですから、やはり雲日様は聡明な方だと思いました。
月とケブリ【おもて】 ヒロヤ @hiroya-toy
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