福子の証言 参
冷たい秋風に首筋を驚かされると、私は慌てて飛び起きました。
車の幌が上げられており、空には煌々と月が照っておりました。
半月が少し太ったような、綺麗なお月様でした。
近くから川のせせらぎも聞こえてきます。
ここは、どこなのだろう。だいぶ風景が違うようでした。
そこで初めて、私は自分の境遇を再確認したのでございます。
いくら狼藉者とて貴族議員である篠田善二を三味線の撥で引っ叩き、しかもそのまま逃げ出したのですから、このまま店の下宿先に帰れるはずがありません。
横川さんがお咎めがないよう根回しして下さるとおっしゃいましたが、それもずっと後になることでしょう。
私は帰る場所を一瞬で失くしたのでございます。
途方に暮れていた私の前に、車夫が再び手を差し出しました。
ぶっきらぼうな若者は、月明かりで良く見ると、たいそう綺麗なお顔立ちで、どうして車引きなどしているのか不思議に思うくらいでした。
車夫の若者は、そんな私の考えなどどこ吹く風、降りろと言ってきました。
横川さんから預けられた料金で行けるところまで連れてきたというのです。
そうは言っても、私にはこの界隈に知り合いなどおりませんし、すでに暗くなって宿場を探そうにも無理なお話でした。
ですが、人力車は音もなくその場を立ち去り、煌々と照る月と私だけがその路地に残されてしまいました。
とにかく夜風をしのげる場所を探そうと歩き出した時、橋の近くで、灯りが目に入りました。舶来品の置き型ランプでしょうか、誰かが小さなテーブルにもたれかかるように座っておりました。
時々、暗闇に赤く花が咲くように見えるのは、タバコか何かの火でしょう。
ほのかに白い煙が立ち上がるのも見えました。
私はゆっくりとその人の元へ近づくと、その人はすでに私の方を見つめていました。
黒い布を頭巾のようにかぶり、そこからのぞく髪の毛は真っ白でした。
まるで枯れ枝のような細い身体を包むように黒い洋服を着ていました。
ただ、その身のこなしとお顔立ちは若い女性だったので、私は驚いて思わず立ち止まってしまいました。
その人の周りだけ異様な空気が流れているとでも申しましょうか。普通に考えても、若い女性がいるような場所ではありませんでしたから、私は怖くなってしまったのです。
ですが、その人は意外なことに口元に笑みを浮かべておりました。
私はあれほど、人を安心させる微笑みはないと強く思います。
もちろん、私に恐怖心があったからなのでしょうが、文字通り人を安心させる笑みでございました。
再び私が歩み出すと、その人は優雅な手つきで置き型ランプを横にどけると、私に前に座るよう目で促しました。
「これは、珍客だ。迷子かね」
ため息を吐くように発せられた声は、落ち着きのある女性のものでした。
私は引き込まれるようにその人の前に座ると、切れ長の目がじっとこちらを見つめました。
珍客――私は初めてこの人がこの場所で商売をしていることを悟りました。
テーブルの脇には古今東西の書物が置いてあり、不思議な形の石や数珠が置いてありました。
「卜占をやっているクジョウという者だ。お嬢さん、どこから来て、どこに行くつもりなのか――」
ひんやりとした手が、私の左手を掴みました。
しばらくすると、その女性――クジョウさんは目を細めて、そして声を上げて笑いました。
「これはこれは――面白い」
「何が……でございましょう?」
「華族のお嬢さん、やめておきな。凶相だ。今宵起きたことはすべて忘れて、いつもの日常に戻りなさい。そうだね、出来れば……もうこの町に留まらない方が良い」
突然そんなことを言われて、私は言葉を失いました。
あまり占いなどというものは信じない方ですが、どういうわけかクジョウさんの示した答えに動揺してしまったのでございます。
震える声で私は白髪の女性に言いました。
「あの、どうして華族の出だとおわかりになったのですか?」
「こんな夜更けに車を転がす女などそうそういないからね。あと歩き方と言葉遣いが違う。このあたりに住む長屋住まいの女じゃ出せない空気とでも言おうか」
細く白い煙が、クジョウさんの煙管から伸びていきます。
どうやら、私がこの場所に辿り着いた時から、クジョウさんはずっと見ていたようでした。
「今宵起きたこと……あなたにわかるのですか?凶相というのは……」
私が詰めよると、クジョウさんは煙管を咥えたまま言いました。
「お嬢さん、商いには決まりがあるんだよ。タダじゃ教えられないね」
それは至極真っ当な受け答えでございます。
思わず、私は横川さんから預かった財布に手を伸ばしそうになりました。
その時、テーブルの上に薬の紙袋も一緒に落ちてしまったのです。
クジョウさんはそれを細い指で拾い上げると、また声を上げて笑いました。
「これだから、世の流転は面白い」
一体、どういう意味なのでしょう。
私は白髪の占い師を見つめる他ありませんでした。
すると、クジョウさんはゆっくりと煙を吐き出し、私を見つめ返しました。
「その着物、西柳町『淡路屋』の芸者が着る文様だね」
それは、私が逃げ出した小料理屋の名前でございました。
私が無言でうなずきますと、クジョウさんは笑みを浮かべたまま続けました。
「今日は……日曜日か。貴族議員の篠田善二が淡路屋に出入りする日だ」
さすがに、これには小さく悲鳴を上げてしまいました。
そんな私に、クジョウさんは吹き出して言ったのです。
「大げさだよ。このクジョウ、政治屋の面倒を見ることもあってね。篠田もその一人だ。ここ数日の間に、上物の女と会える相が出ていたが、それ以外の巡りが良くないから控えるよう言ったんだが……あの男、仕方ないね」
クジョウさんはゆっくりと立ち上がると、頭からかぶっていた黒い布を取り去りました。
首筋に添うように短く切られた白い髪の毛が、風にほんのり揺れ、まるで絹糸のようでした。
クジョウさんは、舶来品のランプを持ち、私を手招きしました。
「枯司堂は、このクジョウが寝泊まりしている店だよ。お嬢さん、頭痛持ちか何かかい?薬をもらいに来たんなら、早くそう言えば案内したのに」
「え?クジョウさんも下宿なさっているのですか?」
するとクジョウさんは不思議そうに首をかしげた。
「……も、とはどういうことだろうね。枯司堂の他の誰かにでも用事があったのかい?」
私は思わず口を覆いました。横川さんたちが探している火薬技師のことは言うべきではないと思ったのです。
クジョウさんは何も気にする様子なく、するすると滑るように夜道を歩き出しました。
月は雲にすっかり覆われておりました。
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